葛藤の都市環境デザイン
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まとめと今後

 

建築・都市デザインを成立させているもの

 まず「建築・都市デザインを成立させているもの」は何かと言いますと、 これはもう、 建築設計の場合は「クライアント」がいなければ話になりません。 「クライアントの要求の実現」という目的(使命)を背負っていると言えるでしょう。

 それから、 デザインの意図を伝える手段、 それは図面であり模型であり、 最近ではCG、 ビデオその他の動画像、 音楽、 あるいは匂い、 そして語りであったりと、 とにかくあらゆる手段(メディア)を使って自分のデザインの意図を伝えていかなくてはなりません。 それをサポートする意味でも技術は大変重要です。

 しかし一方で、 使ってくれる人がいないと、 そこはもう見捨てられた空間になるでしょう。 「使う」という前提があって初めてデザイナーの存在があるわけです。

 ということは、 我々デザイナーの職能というものは、 実はこのような限られたフィールドと専門性の中で発揮されるにすぎないのではないだろうかと思うのです。


建築・都市デザインの「葛藤」のありか

 そのような事から「建築・都市デザインの葛藤のありか」を考えてみます。

 まず何を豊かにすべきであり、 何に応えていかなくてはいけないのかというと、 それは「生活」(あるいはその舞台としての都市・建築)だと思います。 お金だけあっても生活は豊かになりません。 しかし我々は直接生活者とは仕事をしていません。 打ち合わせはそれ以外の都市や建築の管理者等とする事になります。

 「そのような状況で、 デザイナーは、 生活を豊かにしていると言えるかどうか」という葛藤があります。

 次に、 クライアント以外の登場人物にいかに応えるべきかという問題があります。 「まちなみ」へのデザイン配慮にしても、 まちなみ側からは我々は直接仕事を依頼されていないわけです。

 良心に従えばクライアントの意向以外の仕事もしていかなければならないのですが、 そんな時間が実はないことが多い。

 それから、 都市環境を構成するすべての(物理的・社会的)要素がデザインの対象であり、 それらが連続していなければ面白くないということがあります。

 これらがコネクトしていなければ、 おそらく何にもなり得ないし、 面白くないのではないかという葛藤です。


建築・都市デザイナーの感覚・視点

 次に「建築・都市デザイナーの感覚・視点」についてですが、 これはもう7年間くらい仕事をしていると手を動かしながら考えるのが「癖」になります。

 検討し尽くします。 手間暇を惜しんでいたら、 実際に起こっていることに多分追い抜かれてしまいます。

 それから「竣工・使用・再デザイン」というサイクルの中で、 普通は竣工で終わりとも言えますが、 そうではなく責任を持ち続けなければならないのではないかとも思います。

 また、 あらゆるものに興味を持つ生活に自動的になってしまいます。 ある意味、 興味を具現化する事に飢えているとも言えるでしょう。 全ての事が建築・都市デザインに含まれていくので、 パンパンでどうしようもない生活になってしまうのです(笑)。

 そういう自分に適した生活環境を自分で構築しないと、 デザイナーとしてはやっていけません。

 これは私が最近思いついた事なのですが、 そういう日常生活の中で「建築・都市デザイナーの良心」を鍛えていかなくてはいけないのではないでしょうか。


建築・都市デザインの「確信」について

 そう考えると、 自分の「良心」に秘かに「確信」を持っているかどうか、 それが今、 問われているのではないでしょうか。 あまりあからさまに確信を出すといやらしいので、 あくまで秘かでいいと思います。

 現実を見つめ、 私の良心は妄想ではないか問うてみます。

 実際、 このような挫折はよくあります。 例えば、 「煙草の吸い殻を捨てない」ことは私の良心としては正しいけれども、 実際、 煙草の吸い殻を捨てる人は沢山います。

 「私だけ浮いてるのではないだろうか?」そんなことを自分に問うてみる。 しかし同時に、 実際の情報や言説を集め、 良心を武装する必要もあるでしょう。

 それから「リアル」な生活要求に敏感になること、 リアルな生活要求と「モノ」や「トキ」との関係および連続性を考える事が重要です。

 要するに「リアル」がキーワードだと思うのです。

 先ほど言った「限られたフィールドと専門性」では答えられない要求をはっきりさせて、 それが誰のどのような要求かをはっきりさせて、 そのうえでデザインの目標、 目的を設定したら、 それで多分、 建築・都市デザイナーとしての問題意識くらいにはなると思うのです。


建築・都市計画論の必要性

 その上で「生活」を見つめ直す必要性があります。 我々が建築や都市のデザインをして、 その中で生活者は生きているというふうに思いがちですが、 実は生活者自ら構築するものがわりとあります。

 デザインがまずくても使いこなしたり、 慣れてしまうもの、 そういった生活者自らつくりあげた場所や建築物の一方で、 買われるもの、 例えばマンションのようなものもあるわけです。

 今まで我々は買われるもの・売れるものをつくることに対してすごく躍起になって、 そのための社会的なシステムを構築してきたところがあると思います。 「生活者が創り出すもの」と「買われるもの」とを一度区別して、 前者をクローズアップしようというわけです。

 そういう中から「公共性」というものがでてくると思います。

 (乱暴に言えば)先程も煙草の話をしましたけれども、 皆が捨てるようになってしまったら、 煙草の吸い殻を捨てる事が、 多分「公共性」になるわけです。

 今私は、 その公共性というものが現在どの辺りにあるのだろうか、 さらに公共性がちゃんと成り立っていくのかということも、 秘かに考えております。

 どうもありがとうございました。

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