角野幸博(武庫川女子大学):
今回のプログラムは学生さん向けに構成されたと聞いておりますが、 今日は院生・学部生の方はどれくらいおられるのでしょう? 挙手してみて下さい。 ああ、 やはり多いですね。 では今からはみなさん向けにお話してもらいましょう。
さて、 今回のテーマは「葛藤」です。 これからこの業界を目指す人たちの10年後、 15年後がどうなっているか、 その見本のような存在が今日お話しいただいた4人ということになるでしょう。 いずれも30代です。
30代というのはどこの業界でも一番仕事ができるチャンスのある年代でもあり、 仕事をたくさんさせられる時期だと思います。 しかしここにおられる4人に関しては、 私個人としては気の毒だと思っています。 と言いますのも、 彼らが大学を出て働きだしたこの十数年、 日本はずっと不景気なんです。 おそらく私を含む年代から上の人たちはバブルの頃の味を覚えていて、 まだその夢から覚めないでいる人も多いという気がするのですが、 ここにいらっしゃる4人はそうではない。 しかし、 いい目を見たことがないからこそ、 色んな葛藤を持ちつつ仕事に取り組んでいるのだろうと思います。
みなさんのそれぞれのプレゼンテーションを聞いていると、 葛藤と言うより随分自信にあふれたお話でした。 でも本当は腹の底でヒヤヒヤしておられたのではないかと思います。 これから本音の部分を引き出してみようかなと思います。 葛藤という言葉は「ひりひりする」とか「擦り傷」というイメージがします。 その辺に触れたいと思いますので、 よろしくお願いします。
ではまず、 私の意地悪な質問の前に、 会場から寄せられた質問にお答え下さい。
コンペという形をとった後、 市民がどういう関わり方をするかの受け皿として管理運営委員会を作る必要があると考えました。 今の状況としては、 市民参画としてやっていくために市民から公募してワークショップをしています。
そこでやりたかったことは、 公園を行政主導で作って市民に与えるという形ではなく、 作る前から市民が入り込んでいくこと、 それと予算をプールして次の年に送るということです。 なかなか予算がプールできなくて次の年には減っていく、 つまり設計料も減って自分の首も絞めていますが、 いきなり全部を作るのではなく、 徐々に作っていこうと思っています。
これはデザイナーとしては英断だと思っています。 市民にとってもただ与えられた環境を使うだけではなく、 自分も自由に考えながら環境に責任を持っていくことになります。 市民の側に自由と責任があれば、 行政もダメなものはダメと言うことが出来ます。 そんな関係をつくっていきたいと考えています。
そこでデザイナーは何をするかと言うと、 市民が関われるきっかけ作りです。 興味はあっても、 それに関わるきっかけが見えない人の方が多いんです。 ですから、 市民が「私もここへ入ってもいいんだ」と思えるようなデザインを考えるのが私の仕事です。 その後も市民が関わっていけるよう「余剰」をいかに残すか。 それを、 今三者で考えているところです。
ご質問の内容は、 私も個人的に葛藤しています。 先ほどの話の中で「本物」や「真面目」という言い方をしたかもしれませんが、 デザインやものづくりをするときに最初にあったものは何だったのかを考えていただきたい。
以前は、 ものを作ったり空間を作ったりすることは、 作ることそのものが難しいことだったんです。 デザインをしたくても技術的に難しかったり、 お金がなかったりしてなかなか価値観を作っていけなかったんです。 ところが、 現在は作りたいものが簡単に作れるようになりました。
そんな風になると、 今度は不確定な要素、 生きていくことの楽しさや関わることによっての相手への影響(どれだけ活性化できるか)が問われるようになった。 そういうものについては、 私はプロだと思っています。
つまり、 価値観とは形があるものではなくて、 極端に言うと「何のために生きているか」「何が一番好きなのか」を突き詰めたところにあると思います。 たぶんそれは死ぬまで分からないと思いますが、 そのことをいかに仕事の中で反映できるか、 立場の中でできること、 できないことはありますが、 いかに仕事に反映させるかに価値観を見いだすことが重要だと思っています。
あいまいな言い方をしてしまいましたが、 そういうことしか言えません。 たぶん私は死ぬまで葛藤しながら、 自分の価値観を育てていくのだろうと思っています。 人生の時々で出会って生み出したものが、 デザインとして具現化されて育まれていくのだろうと考えています。
まず最初の「河原にした方がよかったのでは」というご質問にお答えします。
私はこういった仕事をする場合、 「都市資産」ということをいつも最初に考えます。 北九州市には歴史的な経緯があって小倉城が存在します。 城下町だった街の歴史を考えると21世紀の都心にふさわしいものは何か。 そう考えると、 河原じゃなく施設的なものがふさわしい。 ただ、 それがあれなのかと突っ込まれると私も答えに詰まります。 しかし、 何がふさわしいかについては、 その街の歴史性と将来性で決まってくると思います。
また、 二つ目の質問にあった「ゼネコンの権威」については、 今は全然ありませんので誤解しないで下さいとお答えします。 ここ10年で地に墜ちてしまいました。 特にゼネコンでは、 受注段階、 工事段階に重点が置かれていますので、 施工後の管理のあり方には通常関われない立場なんです。 ですから、 全体を通してみると弱い立場にいます。
ただ、 私個人としてはゼネコンも受注するだけの立場から変わっていく必要があると考えています。 将来的には、 ゼネコン産業も脱却していくだろうと思っています。
整理してお答えしないといけないのですが、 まず自分および属する組織が設計してそれを現場で変更することは比較的易しいことです。 変更したいから変更するということですので。
ただ、 どのお仕事にもお施主さんがいます。 質問された方もご理解のうえでの質問だと思うのですが、 お施主さんと綿密に打ち合わせしたうえで「変えなきゃいけない」との結論になった場合は、 設計段階でも監理段階でも変える手続きがあるのです。 大幅に変える場合は確認申請等の取り直しになりますが、 後でデザインできるところは後回しにしますし、 逆に後になってみないと分からない部分を最初から詰めていくことは無理な話です。
ですから、 そのような流れの中で、 最後に変えられる部分は最後に変えようということはあります。
もちろん、 その変更が自分および組織の良心にもとるものなら大問題ですが、 基本的に、 変更はより良いものを目指してのことですから、 可能な変更はやるべきだと思っています(ちなみに、 このプロジェクトは当ゼネコンの設計・施工物件)。
私は都市環境デザインの歴史的な意義や価値をしっかり見いだしていくことは必要だと思っています。 しかし、 語弊があるかもしれませんが、 それをただ「守る」という視点のみから見て、 すでに社会システムからはずれて形骸化している建物をそのまま凍結保存するのは陳腐なやり方だと思います。 現代社会が求めている形が違っているのなら残す必要はない。 建物を守るにしても今までとは違う新しいやり方で使うという再生の仕方があっても良いと思います。
古いものがなくなることへのノスタルジー的な気持ちは分かりますが、 私は今の社会が共有しているものを形として提供していくことの方の必要性が高いと考えています。
よくあるファサードだけ残すというのも手法のひとつだとは思いますが、 私にとってはやはり、 陳腐なやり方に見えてしまいます。
林田:
社会の風潮として、 近代建築がクローズアップされていますが、 私は保存の意味は二つあると思います。 ひとつは、 ガラスケースの中に入れて誰も手が触れられないようにする。 もうひとつは、 使っている状態で残す、 あるいは再デザインして新しい使い方になじむようなやり方で保存するやり方です。 どんな使い方をするかで、 保存の仕方も分けて考える必要があると思います。 私は後者の残し方の方が大事だと考えています(建築は使うものですから)。
北浜の証券取引所はモダニズム建築の立派な建物なので保存の価値があると見なされたのでしょうが、 これからのことを考えるとモダニズム以降の建物で保存の対象になるものがあるかどうか自信がありません。 80年、 90年経った建物でも使用できる基本構造を最初から作っておけば、 後は何とかなるという議論を大学でしたばかりなんですが、 そうした視点も再生のやり方に取り込んでいく時代ではないかという感想を持っています。
橋岡:
外壁保存についていつも思うことなんですが、 昔の建物の外壁だけ残してその背後に巨大な建物がくっついているのを見ると、 (冬は虫でありながら夏はその背中から寄生した植物が生えてくる)冬虫夏草という植物を思い出します。 要はその壁が死んでいるか、 生きているかが問題なんだと思います。 壁が泣いているのか、 笑っているのかと言い換えてもいいでしょう。
出来てからのディティールの問題かもしれませんが、 外壁の後ろに異質な建物があっても、 その壁が笑っているように見えるならいいと思いますが、 泣いていると感じるのであればよろしくないんじゃないでしょうか。
久保:
歴史的価値を残したいという思いについてですが、 その建物に関わっている人、 例えばその建物で働いている人が「使いたいから残したい」というのなら、 僕は大変いいことだと思います。 逆に「歴史的な価値のある建物だからファサードだけ残そうか」という発想はあんまり意味がないという気がします。
技術的な話になりますが、 ファサードを残す技術で内部空間もその雰囲気に作ってしまうとか、 残すことで新しいデザイン性が生まれるのであれば残すべきでしょう。 だから残し方にもいろいろあると思うんです。
どちらにしても、 その建物を使う人やその空間で行われることが、 そのデザインにあっているかどうかを残す立場の人が考えるべきだと思います。 その検証なしに歴史的価値があるからファサードだけ残そうとするのは、 税金の無駄遣い、 あまり意味のないことだと思います。
最後にひとつ、 とても重要な質問があります。
実は今日の準備のため、 昨夜から寝ていません。 夜中にならないと発想できないたちなんです。 自分を信じる時間は、 そういう酔ったような時間だと思います。 睡眠不足になれとは言いませんが、 そんな時間を体験して下さい。
忽那:
昨日は2時間です。 最近では、 平均すると4、 5時間といったところでしょうか。
林田:
私はお二人と違って、 きちんと寝る方です。 たっぷり寝て、 三食きちんと食べないと発想が出てこないタイプです。 ただ勤めているときは、 睡眠時間が2時間ということもよくありました。 そこを退職してから今のスタイルを構築しました。
橋岡:
私は昨日の睡眠時間は1時間でした。 私の場合、 明け方に頭が覚醒するのがいつも不思議だと思っています。
会場からの質問に答えて
ふれあいの森への各主体の関わりかたについて
(村瀬さんから)
堺のふれあいの森のプロジェクトの件で、 デザイナーと市民、 または市民グループと行政との関係について、 もう少し話を聞かせていただきたい。
忽那:
自然のデザインの難しさ
(村瀬さんから)
自然の力は不確定な要素であるが、 それをデザインにうまく反映できるのか。 人の営みも同じであるが、 そういう不確定な要素がまちを活性化させるどころか、 逆にダメなものにするとは考えられないか。
久保:
ゼネコンの社会的立場について
(O大学大学院・Tさんから)
(1)ミュージアムとかが市民権を得られるのか。 面白いと思うが、 長期的に都市環境を考えた場合、 緩やかな河原でも作った方がいいんじゃないか。
(2)竹中とか大林というゼネコンの権威で、 他の民間の都市に対する資本投下を誘発させられないのか。 そういうアピールはできないのか。 ガチガチの構造物は相変わらずどうにもならないのか。 アメリカのアーバンデザインファームみたいな組織は成立し得ないのか。
橋岡:
ゼネコンが設計変更して良いのか
(GK設計の森重利久さん)
現場に入って設計変更をされたようにお聞きしましたが、 基本設計、 実施設計を自分一人でされた場合は別として、 ゼネコンの人(一員)として設計変更をすることはいかがなものか。
また、 契約段階で決定した設計案を変更することについてどのように考えているのか。
(自分の案が変更されるという)逆の立場の場合はどのように思うのか。
林田:
近代建築の保存再生へのスタンス
(大阪外大の青木俊文さんから)
北浜の証券取引所ビルの建て替えの話がありますが、 近代建築の保存・再生を含めた都市環境デザインについてお考えになっていることがあればお聞かせ下さい。
忽那:
睡眠時間は
角野:
(前田敦子さんから)
睡眠時間は何時間ですか。
久保:
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