角野:
今日の4人はそれぞれ立場の違う人たちが選ばれています。 橋岡さんはゼネコンにお勤めですが、 ゼネコンの立場と言うよりはむしろ再開発プロジェクトのコーディネーターという立場です。 林田さんは、 ゼネコンの立場、 忽那さんはランドスケープ・アーキテクト、 久保さんはディベロッパーという立場です。
皆さんのプレゼンテーションを聞いていると、 そういう立場にもかかわらず、 立場と違う話をしているということもあったと思います。 そこで、 ここで皆さんのライフヒストリーをお聞きしたいと思います。 「いったい何故私はここにいるのか」ということを簡単にお話下さい。
橋岡:
私は京都大学の巽研究室で住宅計画を勉強していて、 計画をやりたくて竹中工務店に入りました。 当時ゼネコンは川の中を船が進んでいるとすると、 計画は舵とりをするために先端を読むような仕事で通っていたんですが、 今は舵取り以前の話になっています。 そこが一番の葛藤になっています。
林田:
高校の時はテニスばっかりやっていて、 そのほかの時間は絵と音楽に費やしていました。 建築に進もうということは全く考えていませんでした。 ただ大学には行きたいと思っていまして、 東北大学工学部を選んだのですが、 その中で一番芸術的な所は建築だろうなと思って建築に進んだんです。 東北大学2年の時はあまり設計図を描く授業はなくて、 調査や見学をしたりモデルを招いてデッサンを描く等ということをやっていました。 3年の時にやっと設計図を描いたんですが、 やってみると面白かった。
あと、 本が好きで、 ゴードン・カレンの『都市の景観』は特に愛読しました。 その後、 大学では主に景観を勉強しました。 ランドスケープにも興味があったのですが、 社会に出たら地に足をつけた仕事をしてみたいと思ってゼネコンに就職しました。 ゼネコンの仕事が地に足がつく仕事なのかどうかは別として、 とにかく一度働いてみたいという思いがありました。
ゼネコンに入ってからは限られたフィールドの中でしか答えが出ないということも分かって、 その意味ではまさに葛藤の日々でした。 今は実務を休んで大学にいます。 ちなみに、 この本業以外に大学時代からテニスのインストラクターをやっていまして、 その辺も微妙に人生に影響しているように思います。
忽那:
「美しい風景に感動してランドスケープを目指しました」というようなことを言えればいいのですが、 高校の時はバスケボールに明け暮れていた上に、 ワルいこともやっていたというのが実情です。 デザインのデの字も知らなくて、 皆さんが一生懸命作っておられる公共のもの、 道路とか公園は破壊の対象で、 「与えられたものをどうやって壊すか」ということばっかり考えていました。 学校を含めた大きなもの、 権威的なものは全て壊したくなる高校生でした。
その後、 大阪府立大学の緑地学に進学したのですが、 それを選ぶ時が転機になったと思います。 大学を選ぶとき講座紹介があったのですが、 その中に公共空間や道路に木を植えることに頑張っている人がいる、 都市環境を真摯に考えている人がいるという文章があって、 それを読んだときになぜか感動したんです。
それを読んだ後、 街に出てみると風景の見え方が違うんですよ。 見るもの全てに感動して、 自分でもどうしていいか分からなかったことを記憶しています。
自分が所有するものを大切にするのは当たり前ですが、 みんなのもの、 みんなで使うものを一生懸命考えるということを私もやりたいと、 急に思い始めたのです。 そんな気持ちで大学に行きました。
卒業後は、 鳳コンサルタントに就職し、 スキルはそこで学びました。 その事務所では良く働かされと思います。 しかし、 コマとして働くというより、 計画から施工まで一貫して見ることができる仕事が多かったのです。 コンセプトメーキングから計画、 実施設計、 そして、 施工監理まで携われるチャンスがあって、 縦の軸でプロジェクトを最初から最後まで見る環境がありました。 その環境でのなかで、 デザインについて徹底的に議論する場があったことが、 非常に良かったと思っています。
ランドスケープは、 建築や土木に比べる人の少ない分野だと思いますが、 非常に大きな可能性をもっていると思います。 その中で自分も独立してランドスケープデザインの立場から公共へのいろんな提案をしてみたいと思い、 事務所を構えて3年目になります。
久保:
今、 私はとてもおしゃべりになっていますが、 高校の頃はものすごい無口で喧嘩っ早く、 口よりは手の方が早いという人間でした。 大学に入るときにまずそこで挫折しました。 本当はデザインをやりたくて建築を受けたのですが、 落ちてしまって、 土木に行くことになりました。 土木の中で卒論を書こうと思ったとき、 そこでも研究室の争いに負けてしまって(?)溶接構造体部門という訳の分からない部門に行かされそうになり、 それはたまらないと思って、 大阪大学を受け直しました。 東先生のところでデザインを勉強したいと思ったのですが、 実はそのときも挫折があり「どうも自分の目指したいものじゃない」と思って1年でやめてしまいました。 その後は鳴海先生の所へ移って、 そこで大学生活を終えました。
その頃には私はすっかりおしゃべりになっていました。 何故かというと、 社会の機軸【?】の中に自分を押し込んでいこうとすると、 必ず自分と合わない部分が出てきます。 いろいろと挫折を経験する中で、 自分の個性は何なのかを問いかける姿勢を持つようになり、 それが今の私を作り上げたという気がします。
私は下町で塾の講師もやったことがあり、 私が都市問題を語るようになったのも、 子供達にものを教えながら、 こいつらが幸せに生きていけるようにするためにも、 都市デザインとか街のありかたを考えねばならないという使命感を持つようになったからです。
またもうひとつのきっかけとして、 私は無類のスキー好きでした。 大学院の1年生の時はあちこちのスキー場に行っていたのですが、 ちょうどバブルの後半の頃で都市の食い物にされているリゾート地のあり方がとても気になったことがあります。 都市の理論で地域が荒らされていくのはどういう訳だ。 論文もそれをテーマにしました。 しかし、 それがアダとなって、 就職活動の時あるディベロッパーの社長から「君の考え方は民間企業には合わない」と言われて落とされてしまいました。 そんなことを経て現在に至っています。
最後にひとつ言いたいと思います。 私は土木出身なんですが、 こういう仕事をやっていると、 どうも別の分野から排除されてしまいます。 特に建築の人からは「土木工学ではツルハシの持ち方を教えるのか」と馬鹿にされたことがあります。 だけど、 土木や建築、 そしてソフトの分野は、 一体になってひとつのものを作り上げていかなくてはならない仕事なんです。 その辺のことを皆さんも考えていただいて、 人に感動を与えられる街が技術もソフトも含めてできていったらいいと思っています。
ライフヒストリー
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