今回のテーマから浮かび上がるもの |
角野:
今日みなさんのお話を聞いていて、 私なりにいろんなことを考えました。 ここでそれを整理しますが、 その後は私は司会という立場を離れますので、 みなさんで自由に話していただきたいと思います。
今日お話しいただいた中で、 共通して浮かんできたテーマは3つほどあったと思います。
ひとつには、 職能論のような形で「一体何をデザインしてきたのか」ということです。 デザインとは形なのか、 それとも生活や活動をうまくデザインすることなのか。 またそれは無から有を生み出すのではなく、 今あるものをデザインすることなのか。 つまり放っておいたら何かが出来てしまう状況において、 それをどう持っていくかという視点でお話しされた人もいました。 それも含め、 我々は一体何をデザインすべきなのかを議論いただきたいと思います。
ふたつめは何をデザインするかの関連で出てくるのですが、 橋岡さんが「つなぐ」という言葉でおっしゃったように、 人と人、 人と自然、 人と技術という分野でみなさんけっこう悩んでいるように感じました。 それに関する自分の意見もお持ちのように感じましたので、 その補足をしていただければと思います。
みっつめはこの二つに関わってきます。 「コモンセンス」「恥ずかしさ」という言葉が出ていましたが、 自分がデザインするという状況の中で、 社会はそれをどう受け入れているのだろうか。 そもそも社会の中のコモンセンスと自分の中のコモンセンスが合わないと、 自分のデザインが浮いてしまうだろうし、 ある種のコモンセンスを意識しないといけないという話が出ました。 ところが、 今はコモンセンスがどんどん変化している時代です。 社会の変化に対して、 どうお考えなのかを話し合っていただきたいと思います。
また、 今日のセミナーのテーマは「葛藤」ですが、 皆さんのお話を聞いていて思ったのは、 自分以外の他者同士の葛藤、 他者と社会あるいは自分と社会の間の葛藤、 そして自分の心の中の葛藤、 そうしたものが今日のお話では見えたように感じています。 その辺を意識しながら、 今あげた3点について皆さんの議論をお聞かせ願えればと思います。
自分以外の発表者に対する突っ込んだ意見なんかがあれば面白いのですが、 どうでしょう。
一体何をデザインしているのかという問いは難しいところです。 私は答えるならば、 生きていく上での価値観をデザインしていると言いたい。 そのデザインは無であるもの、 無でないものいろいろあります。 それは社会の時間軸と自分が生きていく時間軸との間にずれがあるからです。 だけどその中で自分が見いだしている価値観をデザインしているのだとしか言えません。 形になるのかどうかは、 その場で考えないと言えません。 それが私の中にある葛藤の部分かもしれません。
ところで、 私が気になっていることを忽那さんに質問したいと思います。 正確には、 私もやってみたいと思っていることです。
それは、 つなぐとか活動に参加するということです。 私の場合は華やかな部分、 仮設劇場などで人をつなぐ可能性を見いだそうとしていますが、 忽那さんの仕事は自然というダイナミズムと都市をつなぐ仕事の中に、 素人の人間を本質的に引きずり込んでいますよね。 私はそれに非常に興味を持っています。 私もやってみたい。 ところが我々の職能では口ははさめるけれど現実には出来ない。 ですからどうやれば人を本気にさせることができるのか、 その辺を聞いてみたいんです。 ランドスケープの職能では、 どうやって人々を関わらせているんでしょうか。
忽那:
私自身は何をデザインするかというと、 オープンスペースと言われる所は全て扱いたいと思っています。 もちろん、 私自身は最後に空間の形に責任を持つことを職能としたいと思っています。 我々は形のある都市環境に生活しているのだから、 それは最後まで求めていかなくてはいけないと思っています。
そう言う意味では、 久保さんが今言われた「つなぐ」ことについては、 そのようなことが起こる空間をつくっていきたいということになります。 よく計画系の人からソフトやプログラムで「人々をつなぐ」という話を聞きます。 もちろん、 そういう方法も必要であるし、 そこで導き出されたプログラムをデザインとして解いていく必要があるのだと思います。 私自身としてはその上で、 最終的に都市環境に答えを出せる形にしていく必要があるとだろうと考えています。
だから、 久保さんが発表された先ほどの高圧電線の下がどんな空間になっていくのかは、 私も興味津々で、 【ふれあいの森でも】「野分け道」という空間の仕掛けをしていますが、 とにかく、 人々がその場所に参加してみたくなるきっかけのデザインという視点が大切だと思います。 そして、 時間をかけて人と自然が織りなす空間を考えていきたいと思っています。
計画している地域に住んでいるお爺さんから「百年後の自然について、 30代そこそこの若造が言うな」という風に言われることがあって、 それでも言い続けていたのですが、 ランドスケープが人をつなぐ有利な武器になっていることがあるとすれば、 ランドスケープが作った瞬間から始まると言ってもいいくらい、 1年後、 5年後、 10年後には姿を変える、 そして、 段々良くなっていくという発想で仕事をしていることかもしれません。
この視点は、 樹木等の緑をイメージするとわかりやすく、 明日の利益のためではなく、 今の環境に自分が関わることでその環境が変化し、 それが百年後につながっていく可能性があることを平気で言えてしまえるところがあります。 そう意味では、 それが私の戦略と言えば言えるでしょう。
戦略と言うと「意図されたもの」に受け取られがちなんですが、 具体的には「私はこんな風景になると思う。 もしかしたらならないかもしれないけれど、 一度私の話に乗って欲しい」と言って、 そのイメージを共有しようとする思いで、 人をつないでいる感じです。 ただ、 どうなったとしても最後には責任を持ちたいというところから始まるとは思っています。
「つなぐ」という言葉を最初に言ってしまった橋岡さん、 どうですか。
橋岡:
私は逆に林田さんと忽那さんにうかがいたいのですが、 気になったのは今の忽那さんの「答えを出す」「責任を持つ」という表現です。 例えば、 マンション計画では公開空地に対しては責任がとれるのでしょうが、 その隣の敷地あるいは街全体に対してはどうなるのでしょう。 特に都心部では、 隣が何をするのか分からない、 自分の敷地には責任はとれても街全体としてはバラバラなデザインになってしまうのではないかと考えてしまうのですが。
角野:
ちょっと待って下さい。 その質問の前に、 「つなぐ」ということについて、 つなぐ人間の責任や想像力、 クリエイティビティが必要だと、 たしか久保さんがおっしゃったと思うのですが、 その辺はどうでしょう。 紫川の場合はどうだったでしょう。
橋岡:
クリエイティビティは忙殺される中で消えてしまったきらいがあります。 私はガンガン言うタイプじゃなくて物静かな方ですから、 先ほど言ったミュージアムが有料か無料かの問題や、 中が汚れるかどうかの話の時も、 もっと専門性を出して言っていけばよかったという反省があります。
つないでいくためのスタイルはいろいろあると思いますが、 私は風を吹かせて服を脱がせるより太陽で照りつけて自分から脱がせたいと思っています。 そういう意味で関係者の意向を導いて大きな地につけたい。 それが私なりのコモンセンスのあり方なんですが、 それが実践できたとは思っています。
林田:
私も「つなぐ」や「連続性」を意識して仕事をやったのですが、 ゼネコン設計の建築では「機能論」というものがありまして、 その建築を作るにはこの機能を埋め込みなさいという考え方が既に用意されているんです。
普通はその考え方に基づいて建築を作っていくのですが、 それだと生活の一断片に対してしか回答が示されないという気がしました。 それに対して、 私は、 生活全般に対して建築が一番身近にあることが理想だと思っています。 そのあたりを「つなぐ」べきだと意識しています。
また別の例を示すと、 民地と官地といっても、 そこで生活している人は意識しないでそこを通りたいものです。 ですからそこが連続した空間になっていればいいわけで、 そうした物理的なつながりも意識したいと思います。
先ほどの橋岡さんのコメントで「公開空地は隣も意識するべきではないか」とのご指摘がありました。 その点については、 いかがでしょう。
忽那:
誤解を恐れず言うと隣でしていることを意識する必要はないと思います。 地域環境を意識するというのであればわかる部分もありますが、 様々な場所で意志決定をしようとすると、 それぞれでいろんな事が出てくるのは当たり前で、 それに対して、 例えば行政が上から統合していこうというのはイヤな感じがします。 「この石積みをずらっと並べると君たちはつながるから」という風なことを上から言われるのは、 私にとっては耐えられない感じがします。
昔の石積みは、 みんなが土着の生活の中でつくるものを共有していたから、 美しく見えるのだと思います。 それなしにイミテーションでつながるのは、 どうでもいいことだという気がします。
今の社会は、 いろんなことがヒステリックに立ち上がってきて、 バブルの時期など「消費社会の中ではデザインはみんなと違うものを作った方が勝ちだ」という風潮がありました。 しかし、 言い方を変えると、 日本の街はそれほどエキサイティングで、 ヨーロッパのような石造りの街に比べてダイナミックだと言う建築家もいます。 ただ、 そんなスピードで変わっていく街に立ち向かっていくのは、 儚い思いをすることもあります。
しかし、 このような状況の中で、 現代社会において土着的な意味を消失したもので、 物理的につなぎとめていくことはできなくて、 本当に共有できるものは何かをもう一度、 市民社会の中で真剣に議論すべきなのでしょう。 ここで注意すべきは、 市民参加といっても責任を持って話し合えるなら可能性がありますが、 上からの意見をおとなしく聞くだけの市民参加なら逆に可能性の芽を摘んでしまうことになります。 自由に活動する中で本当に共有できるものは何かを見つけだしたいという思いがします。 自然を対象としているランドスケープに興味を持っているのは、 良くも悪くも共有するものを見つけるための大きな要素の一つであるという気がするからです。 これからもこういう視点で本当の「連続性」を見つけていきたいと思っています。
今「形をつなぐ」という話が出ましたが、 「人をつなぐ」ことについて皆さんにうかがいたいと思います。 私はお客さんに対するときや施主の立場になるときなど立場がいろいろありますが、 例えば施主があまりにもアホな注文を出してきたとき、 デザイナーの立場としてどうこなしながら、 つなぎ方の方向を変えていくのかを聞きたいのですが。
忽那:
我々の職業は、 まず頼んでくる人がいなかったら成立しない職業です。 媚びへつらう部分でこなさないといけないこともあるかもしれません。 しかし、 施主もアホじゃない。 自分の考えをはっきり言うと、 それが嫌な人は最初から頼んでこないし、 私の意見の中に共有できるものを見つけた人は頼んできます。 やり始めてから双方の食い違いが出てきたときは、 徹底的に議論しながら進めていきます。 ですから最初の共有点がないと向こうも頼んでこないし、 おそらく私もやるとは言わないでしょう。 その辺は最近信じているところです。
林田:
先ほどの私の話で「物理的なつながりを大切にしている」と言いましたが、 それは何の意味があるかと言うと、 物理的なつながりがないと人のアクションもとぎれてしまうからです。 お祭りの街を歩いていて、 角を曲がると急にその華やぎが切れてしまう。 そんな空間の作り方がとても気になるのです。
例えば演劇にしてもクライマックスがあって終了、 でもカーテンコールがあるという風に終わった後の余韻を大切にしています。 僕らの仕事もその辺のつながりを丁寧にやっていかないと、 生活やつながりの議論にはなっていかないと思っています。
では最後に、 30代の立場から会場の若い人たちに向けて、 ひとことアドバイスをお願いします。 苦言でもけっこうです。
橋岡:
さっきの話の続きのようにもなりますが、 私はどうしても街はつながないとダメだと思っている訳じゃありません。 しかし、 例えば船場だと、 新しく建てるときは2mセットバックするという規制が数十年前からあるのに、 未だにそのつながりは出来ていません。 なぜかというと、 船場の人たちにセットバックしたいという気持ちが全然ないからなんです。 ですから、 共有できる気持ちがないと街並みのつながりは出てこないんです。
反対に、 あの人の庭が素敵だから私もやってみようかという気持ちになるとつながっていきやすい。 つまり、 成功する都市環境デザインとは、 隣の人が真似したくなるものと言えるでしょう。 そんな成功の例が、 ヒルサイド・テラスにあります。 ですから、 船場のように一律的なセットバック規制は今後もなかなかつながらないだろうという意味で、 先ほどの「物理的なつながり」について申し上げた次第です。
さて若い人に向けてのひとことですが、 私自身を振り返ると、 10年間ゼネコンにいて、 いろいろと反省することがありました。 どうしてもゼネコンにいると大きな船にいる気分になりますが、 大きな船では流れない時代になっています。 ですから、 小さくても自分のオールを持って自分の力で進む力が必要だと思っています。 会社の中にいようが、 個人で仕事をしようが同じです。
少しでも自分の力を形作って欲しいと思います。
林田:
感覚で覚えることは、 頭で覚えることより多いということを若い人に伝えたいと思います。 培った多くの知識をどう使うかについて、 みなさんは苦労されていると思います。 特に建築の設計の人はそうでしょう。 しかし、 何回も手を動かして、 感覚が自分の中で出来てしまうと楽しいものですし、 やり続けると間違いなく素晴らしいものだと言えます。 昨今この業界はいろいろ言われていますが、 好きなもの、 好きな人を見つけてどうぞ怖がらずに飛び込んで下さい。
それと橋岡さんの話にもありましたが、 「真似したくなる」のはとても重要で、 真似したくなる人とか真似したくなる生活スタイル、 つまり「自分もあれを取り入れたい」と思うのがひとつの入り口だと思います。 そんなこだわりを自分の中で大事にしていくのが人生だと思います。
忽那:
不景気になるとデザイン不要論が出てきます。 しかし、 僕にとってはこれはチャンスの時代だと思っています。 もちろん淘汰されることもあるでしょうが、 不景気だからこそ面白いことが言えるだろうし、 そのことが本質的なことを見つけだせるチャンスだと考えています。 今おられる学生さんだけじゃなく、 それ以外の世代の人にもそんなメッセージを発信していきたいと思っていますので、 こちらこそよろしくと言いたいところです。
久保:
人間の個性と意志はなかなか変わりません。 ですから、 真面目に懲りずにめげずに諦めないことが大事なんです。 しかし、 そのモチベーションを保つためには体力がいります。 体力を備えながら皆さんにご活躍していただきたいし、 私も頑張っていこうと思っています。
角野:
4人の方々、 ありがとうございました。
今回のテーマになった葛藤は、 どの世代にもどの場にもあると思います。 20代、 30代に限らず、 40を過ぎても葛藤はあります。 逆にそれがなくなったら人生おしまいという気もします。 いつの間にかザラザラしたものがなくなって、 どこでもぬるりんとしてしまうのも人生つらいという感じです。 ですから、 いくつになってもざらついた感覚や棘は持っていた方がいいというのが私の考えです。
また、 今日の話では「職能」という言葉が気になりました。 今日の4人はそれぞれゼネコン勤務とかランドスケープアーキテクトという職業で分けることも出来ますが、 今日の4人はそれぞれ自分の仕事のスタイルというか、 職能の持ち主ということでは共通しています。
これから就職しようとする学生さんは何の仕事がしたいかを職種で選ぼうとしているのでしょうが、 彼らのように職能という視点からも考えていただきたいと思います。 きっとそれは「自分のスタイル」を作ることにつながることになるでしょう。 今日の4人もそれぞれの個性を磨き、 自分のやり方を進んでいるところです。 自分のスタイルや得意技を作り上げていくためにも、 それぞれの葛藤と取り組んで欲しいというところでまとめにしたいと思います。
発表して下さった4人の方、 角野先生ありがとうございました。
若者向けセミナーは今回で4回目です。 だんだん参加者も増えており、 来場して下さった方にはお礼申し上げます。
さて、 今日のテーマである「葛藤」はいずれも「葛」「藤」と蔓性で巻き付く植物の漢字が使われています。 なんでそれがふたつ並ぶと「葛藤」になるんでしょう?(切っても切ってもしつこく生えてくるからでしょう。 )
角野先生もおっしゃったように、 デザインの仕事に葛藤はつきものです。 ですから葛藤しない人はデザインをしていないということになるんでしょう。
ただし、 葛藤しようと思ったら芯がいります。 好奇心や感動が人の心の芯となり、 それが大きくなると葛藤になるのではないかと思います。 要するに、 葛藤する人は自分の芯の問題だからしつこいんです。 今日の4人もそういう顔をしています。
それと今日の4人の仕事の共通点は、 人のための仕事で自分も満足しようというとても贅沢な仕事だということです。 そんな仕事をするためには、 皆さんも繰り返しおっしゃっていましたが、 「人に説明できなければダメ」。 つまり説得力が必要です。 別に迫力や熱情だけでなく、 橋岡さんのように静かに説得するなどいろんなタイプがあるでしょう。 ただ、 共通することとして人を惹きつけるためには教養を身につけないといけないし、 いろんな情報がないとダメでしょう。 これはやはり勉強が必要です。
人を説得できることは、 とても大事なことだと思います。 「これをやりたい」と思っているだけでは芯になりませんし、 自分の思いだけでは人を説得する力にもなりません。 デザインすることを「格好良いことを形にする」と思っている人が多いかもしれませんが、 本当はそうじゃないことを4人の話から感じ取っていただければ幸いです。
今日はたくさん来ていただいてありがとうございました。
人、 特に素人を巻き込むつながり方について
久保:
つなぎ方それぞれ
角野:
デザイナーの「責任」の範囲
角野:
人との「つなぎ」について
久保:
若い人たちに向けて
角野:
葛藤するためには芯となるものが必要
鳴海邦碩(大阪大学教授)
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