2−2。 そして京都は再生するか?
上野 泰
(1)セミナーの目指すものの再確認
2001年の前回セミナーのテーマは、 都市環境の部分からの改変を目指す、 「緑としての建築」という考え方の提唱であった。
「緑としての建築」は次の3つの視点から観念された。
1。 都市の物理的環境(微気象)
2。 〃 生物的環境(生態的環境)
3。 〃 社会的環境(コミュニティー)
今回、 前回セミナーに対する反応等を踏まえつつ、 単体としての建築のあり方からの更なる展開として、 広がりのあるエリアのレベルでの部分からの改変のヴィジョンを、 「水と緑」という視点から地域の人々と共に考えてみる、 という狙いについてはすでに述べた。
町のあり方について、 地域の人々と考え、 それを社会に発信すること自体が、 例え直ちにものとして実現しないとしても、 「部分からの改変」の一つの実践であるということもできるだろう。 なぜならば、 環境とは情報そのものを含み、 しばしば情報としての環境は、 ものとしての環境と同等、 もしくはそれ以上の力を社会に対して持つことがあるからである。
(2)これまでの3回の地域の人々との「水と緑」をめぐるワークショップ
第2回までのワークショップで大人と子供の視点の違いを「文明的」視点と「文化的」視点という言葉で仮に整理をした。 この整理の背景には大人と子供の間に明快な違いがあり、 それがそのまま環境構造に反映されるのではないか、 という仮説があった。 しかし第3回のワークショップでの具体的イメージによる選択傾向では、 事はそう単純ではないことが分かってきた。
無論大人と子供の視点の違いはあるものの、 大人子供を問わず具体的空間像の選択には「文化的」学習(体験)のあり方が大きな要因になっている、 ということが明らかとなってきた。 (加茂レポート参照)子供の選択基準の中にも「和風」、 「京都らしさ」という項がある、 ということが確認され、 「京都らしさ」を表現している水と緑=「文化的表出としての水と緑」ということがクローズアップされてきた。 このことは「世代を超えた」まさに地域の文化としての価値観の存在を語るものといえよう。 京都はいまなお脈々と世代を超えて、 この価値観を伝えつつある、 ということを改めて実感した。 しかし、 この「文化性」の卓越と、 今の京都の都市状況とのギャップを如何に解釈すべきか、 ということが新たな課題として浮上した。
誤解を恐れずにいえば、 一般的に「文化性」の卓越は問題への原理的、 根本的な対応を回避する傾向を持つといえる。 そして時として主観的、 情緒的傾向を持ち、 個人的価値観の優先という傾向を持つ。 それは例えば景観問題等に顕著である。 しばしば「全体的」(文明的)視野の欠落を伴うが、 それはある意味で京都のみならず、 日本全体に共通する傾向といえるだろう。
あえていえば、 この全体的視野の欠落という状況が、 「京都という問題」の存在を招いたといういい方になるだろう。 一例をこのセミナーの狙いの一つである、 都市における物理的環境という面であげれば、 京都の夏季の温度上昇が挙げられる。
1960〜1989 の30年間の各都市の「人工排熱」による温度上昇の比較の中で、 京都が1.7度前後(8月)で最高値を示す。 東京(8月)は0.7度前後である。 (熊本県立大 中村泰人《尾島俊雄「ヒートアイランド」東洋経済新報社 2002 掲載》)
尾島はその原因を盆地という地形条件を無視したことにある、 と指摘している。 一般的に都市化による高温化の要因として、 人口排熱の増大、 比熱の増大、 反射率の低下、 蒸発量の低下(尾島)が指摘されている。
京都がこれらを属性とする、 土地条件を無視したいわば「力ずく」の開発を受け入れた結果として、 言い変えれば、 京都が「普通のまち」への「近代化」の過程で、 「してはならない」改変をしてしまった結果といえるのではないだろうか。 そしてそれは、 ほとんど「文明的」過ちといってよい。
そして、 「京都の夏は暑い」という「歴史的」言説(文化)をいわば隠れ蓑にして、 問題を直視しようとしてこなかったのではないだろうか。 「京都は暑くなっている」のだ。 上記の例に限らず、 「京都という問題」は確かに存在する。
京都工芸繊維大学の芝池英樹助教授らは、 「都市気候形成の視点から見た地形・土地利用計画と景観」と題する論文(芝池英樹、 森山正和、 竹林英樹《日本建築学会 京都の都市景観特別研究委員会 「京都の都市景観の再生」 2001》)の中で、 京都の外界気候の特徴を述べ、 「京都市内でも緑が少なく人工物が多い地域(中心部・南部)では、 特に夏季には高温となる。 今後の京都の建築・都市を考える場合には、 外部空間の熱環境に対する配慮も必要である。 そのためには、 都市全体の計画誘導、 建物単体での個別対策、 および建物運用時の生活の工夫を相補的に組み合わせて取り組む必要がある。 」と指摘している。
また夏季夜間安定して吹いている北風(清涼な山風)を取り入れる街区・住居計画、 河川空間の再生、 開放水路の復興、 導入による風の道効果、 冷却効果の活用を提唱している。 さらに「(密集した)伝統的な木造の町家が多い京都では、 コンクリート建物は屋上緑化による蒸発散の効果で気温低下をはかる」必要があるとしている。
「普通のまち」から再び「京都」へ、 「京都は再生するか?」という問いへの答えが求められている。 その答えを見出すために、 再び京都の持つ「知恵」と「価値観」という文化的資産を見直すことが必要となったといえるのではないか。 それと共に、 都市へ自然的要素の導入を求める子供たちの「直感的」、 「身体的」要求にこそ、 この問題を解く鍵があるということを確認しなくてはならない。
(3)今回のスタディーの目指すものの再整理
これまでのワークショップを通じて、 今回のスタディーのテーマは、 都市環境における水と緑のあり方に焦点を絞って、 「都市−非都市」の関係の再構築、 「都市のコンパクト化=クラスター化」、 「都市環境骨格構造」の形成、 といった「全体的」問題も視野に入れつつ、 「部分」からの改変という視点から、
1。 「文明的緑(水)」と「文化的緑(水)」という視点の提起
2。 それを「オモテ」−「ウラ」−「オク」という京都の町の持つ空間秩序の中で展開
3。 空間的には、 「通側」、 「路地/中庭側」、 「屋上」という位相で実現
4。 さらにそれを、
a.個々の居住者(事業者)の判断のレベル、
b.地域の連担レベル、
c.行政等への働きかけをするレベル、
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という実現に向けての役割分担を考えるというかたちに整理されてきた。 そしてスタディーのまとめは、 これらを踏まえて水と緑の問題という視点から、 ヒートアイランドへの対処等今日の都市環境に求められるものと、 地域の人々の求めるもの、 大切にしているもの、 失いたくないもの(加茂レポート参照)を「包含できる」街区空間システムのあり方として考えてみる、 ということに絞り込まれた。 そしてそれは空間デザイン的には、 「町らしさ」と「自然性」の両立という課題に答えるものでなければならないはずである。 「包含する街区構造」の基礎となる思想は「求同存異」という精神である。 すなわち「文明レベル」での「同」を求め、 「文化レベル」での「異」を尊重するという精神である。
今回のセミナーでは、 「包含する街区構造」の概念とその具体的空間イメージに付いての「夢物語」を、 幾つかの角度から“気楽に”発信することになるだろう。
このワークショップでは、 「できる、 できない」という実現性の問題には全く触れていない。 当然のことながら、 実現可能かどうか、 という事は進むべき方向が定まった後の問題である。 先ず何所へ向かおうとしているのか、 進むべき方向はどちらなのか、 それを見定めることが先決である。 そのためにはまず自由闊達にイメージを語り合う必要がある。
このスタディーで発信する「夢」は、 「包含する街区構造」を持つ町としての城巽の姿、 “ありうべき”城巽のイメージである。
手段はさておき、 まず大掴みな目標を構築することが大切である。 「夢物語」の発信は進むべき、 共有できる目標を、 語り合う第一歩となるはずである。
3。 「屋上緑化について」に対するコメント
上野 泰
本文は、 第2回プレセッション報告に掲載した、 可部篤氏の「屋上緑化」に関する見解に対するコメントである。 掲載した氏の文は短く、 その主張が充分理解できないところもあるため、 webサイト上に氏が発信されている「屋上緑化の最新情報」と題する文を、 あわせてテクストとして参照させていただいたことをお断りしておく。
*http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7749/
(1)マクロ/ミクロ
最近、 全地球の温度上昇よりも都市部の温度上昇の方が大きいということが分かってきた。
20世紀の間の地球全体で温度上昇は0.6度(IPCO 「第3次報告書」2001)であった。 日本全体で0.9度といわれる。 一方、 東京は1876〜1995の120年間の温度上昇は、 年間平均で2度であったという(尾島 俊雄「ヒートアイランド」東洋経済新報社 2002)。
しかし、 ヒートアイランド化する都市の中にあっても、 木陰は涼しい。
いきなり子供の夏休みの自由研究のような数字を出して恐縮であるが、 今年の夏街中の温度を測定した結果は以下のとおりであった。
2002・8・1
練馬区(pm1:00)日中陽の当る路上
37.7度(+1.5m)
45.1度(アスファルト路面)
上記地点より約30m離れた終日木陰の路上
34.5度(+1.5m)
33.9度(アスファルト路面)
渋谷区(pm2:30)原宿sony plaza 前路上
36.5度(+1.5m)
41.0度(石敷き歩道面)
上記地点より約600m離れた明治神宮林内園路上
32.1度(+1.5m)
32.1度(アスファルト路面)
気象庁発表の当日の東京の最高気温35.6度
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夏季の日中建物の屋根面も、 この道路面とほぼ同じ条件と考えることができる。
屋根面であれば、 この受熱が室内の負荷となる。 しかし屋根面が木陰ならば涼しい。
無論これらは、 アカデミックな数値ではない。 しかしここで示した傾向は大方の経験に照らして納得のできるものであろうと思う。
マクロ的には同じ条件下にある一つの街の中でも、 局部的環境条件による温度差がある。 僅か数10メートル離れただけでも大きな違いがあることは、 我々の経験の中でよく知っていることである。 ここで問題としているのは、 このスケールの問題なのである。
都市のヒートアイランドについてはすでに多くの研究が発表されており、 ここで改めてそれらを再記するつもりはないが、 人口排熱の増加、 比熱の増大=蓄熱材の多用、 蒸発散の減少=水面、 植生の減少等がその原因として指摘されている。 夏季の日照により、 室内環境負荷が増大し、 人口排熱の増大を招いており、 さらにそれが負荷の増大の原因になっていることは否定できない。 その背景に蓄熱材の多用と水面、 植生の減少が指摘されている。 そのレベルの問題に対する解を如何に見出すか、 ということがこの(セミナーでの)検討の対象としているレベルである。 無論、 地球レベルの温暖化の問題は重要であり、 それに対する取り組みが重要であるということを決して否定するものではないが、 ここで取り上げているのは、 ミクロスケールの都市における日常生活空間の快適性に関わるレベルの問題である。 オール・オア・ナッシングであってはならない。 それぞれのレベルの問題には、 それぞれの因子があり、 それに対応した解決法があるはずである。
現在、 都市はコンクリート、 アスファルト等の蓄熱材の多用により、 夏季の太陽の熱だけでも充分に熱くなってしまっている。 「緑としての建築」は、 比熱の増大と蒸発散の減少という点に着目をし、 それへの対処を通じて結果的に人口排熱の減少、 さらに温暖化の要因の削減を実現させる方策を考えようとしている。 無論それだけで全ての問題が解決するわけではない。 すでにセミナー等を通じて度々確認をしてきているとおり、 それぞれの敷地計画、 都市計画、 地域計画、 さらには全地球的対応が不可欠であることはいうまでもない。
「ロシアの森林が復活しても、 都市のヒートアイランド化は解消しない」。
我々は様々なレベルの問題を抱えている。 それぞれのレベル毎の問題解決が必要なことはいうまでもない(可部 篤 前掲HP 「地球温暖化防止に有効」参照)。
(2)熱の行方
木陰は涼しいという言葉は、 日陰は涼しいと言い換えてもそう間違いではない。 建物“本体”が受熱しない、 ダブルスキンによる日陰の形成という基本において同じである。 その意味では、 「外断熱」も原理としては同じである。
しかし、 問題は日陰をつくりだすアウタースキンの受熱した熱の行方である。 室内環境だけを考えるのであれば、 植物による断熱であろうと、 「外断熱」であろうと効率がよい方が良いという事になる。 室内への負荷だけを考えれば、 「外断熱」の方がコスト的に恐らく有利といえるかもしれない。 アウタースキンが受熱した熱は、 大気中か地中に放射される。 そしてその熱が再び外部環境負荷となる。 この悪循環こそ問題である。
九州大名誉教授の鈴木義則氏は次のように指摘している。 (日経アーキテクチュア 2001・7・9) 「建築の設計をする人には、 『屋内のことだけを考えるな』とお願いしたい。 屋上緑化をせずとも、 断熱性能の高い材料を使えば屋内の温度は安定する。 しかし、 断熱材を使っても建物の表面温度は下がらない。 断熱性能は同じであっても環境に対する負荷は全く違う。 」
この環境にたいする負荷の軽減という視点から、 「蒸発散するアウタースキン」という考え方が生まれてくる。 環境負荷という視点からは、 必ずしも「日陰は涼しい」は「木陰は涼しい」とイコールではない。
(3)水の問題
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four seasons bali at sayan(photo four seasons)
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蒸発散による(水冷式)気温調節というシステムをとる限り、 「鍵は水」ということは間違いない。 したがって、 可部氏が指摘するように如何に(夏季の)水を確保するかということが大きな課題となる。
氏は東京都の計画の通り、 1200haの屋上緑化をした場合の、 夏季2ヶ月の水の所要量の試算を行っているが、 氏の試算の中には何故か天水が加算されていない。 東京の降雨量をゼロとする試算の意図が不明である。 水は全てを上水でまかなうという仮定の意図は何所にあるのであろうか。
ちなみに、 近年の東京の夏季の降水量は次のとおりである。
東京の降雨量(「気象年鑑」 1999〜2001)
夏季 7、 8月の東京の降水量
1998 7月 156.5mm 8月 143.5m
1999 7月 342.0mm 8月 301.0mm
2000 7月 373.5mm 8月 162.0mm
日平均で 4.6mm〜12.0mm
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夏季にこれだけの降水量があるのであるから、 「天の水」をオンサイトで活用するという考え方は当然必要である。 無論100%有効に利用できるわけではないが、 可部氏の挙げた所要量雨量換算で2mm/日程度を充分に満たすはずである。 もっとも水の必要量は植物の種類や大きさによって異なるので、 実際は氏が挙げている数字よりも大きくなるものと思われる。 しかし植栽されない部分の天水を貯留すれば、 必要量のかなりはまかなえるだろう。 氏の試算にあるような上流のダムは要らない。 天水を如何に有効にオンサイトで活用できるか、 という「分散したダム」のトライアルこそ必要である。 墨田区の「天水尊」のような単純なシステムなら、 そうコストが高くなるということはありえないし、 各個人、 各事業者の負担可能な範囲といえるだろう。 なるべく単純なシステムで、 植物に近い位置での貯留が必要となることは言うまでもない。 そのために様々な雨水貯留の実践を積み重ねる必要がある。 恐らくもう一段の技術開発が必要となるだろうと思われる。
さらに“低い”位置に貯留した場合、 貯留した天水の汲み上げ等のエネルギーも問題とされている。 高さによっては、 手動ポンプのようなエネルギーとしての「人力」を考えてもいいはずである。 無論その手間隙がかかる。 いずれにせよ「メインテナンスフリー」はありえない。 水やりに時間とエネルギーを費やす、 それを支える価値観が求められる。 我々には、 総合的視野を基にした時間、 コスト、 エネルギー配分のプライオリティーの構築が求められているといえる。
一方、 建物の上だから問題が発生する、 地面ならば水の問題がないという意見もあるが、 今の都市環境の中では、 地上ならば問題ない、 というわけではない。 場合によっては屋上とほとんど変わりのない厳しい条件下にある。 これらは総合的に解かなければならない問題である。
ダブルスキンによる日照の遮断、 水の気化熱によるクールダウンを求めるとすれば、 氏が指摘するように、 屋上の場合は水を貯めたダブルスキンという考え方もあるだろう。 屋根の“上に”水盤を載せるのであれば、 加重の問題はあるにせよ、 たとえ水が漏っても“本体の”屋根で処理できる。
(4)植物の問題
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3階建ての壁面を覆うアサガオipomoea tricolor 東京 谷中(photo y.ueno)
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植物層による断熱効果という面に限定しても、 可部氏も指摘するように冬期断熱用か夏用かという目的によって使用すべき植物の種類は変わる。 わが国の場合、 専ら夏期の日照熱の遮熱の為と考えることができる。 したがって、 この場合屋根面に密着したグランドカバー類は有利とはいえない。 (しかし、 屋根面の場合、 積極的に人が立ち入るというような目的の場合は無論その限りではない)。 そこで、 間に空気層をとったダブルスキンという考え方が出てくる。 多くの空気層をつくりだす喬木も一種のダブルスキンを形成していると考えることができる。 喬木と蔓ものを比較してみると、 一概には言えないが葉が幾重にも重なり、 多くの空気層を持つ喬木がやはり有利といえよう(下記.データ−参照)。
現在の屋上緑化の考え方は水耕栽培に近い培地の考え方であり、 喬木が必ずしも多くの「土」を必要とするわけでもない。 それでも大きな樹冠を形成する“重い”喬木よりは、 支保材を必要としても、 蔓物の方がはるかに(コスト面で)効率的となろう。
蔓物による日陰棚の遮熱効果を測定した結果は以下のとおりであった。 その結果、 種類の違いによる、 葉の大きさ、 厚さ、 重なり具合等による差はほとんど見られなかった。
2002・8・6 墨田区 向島百花園 (pm1:45〜2:20)
藤棚、 かぼちゃ棚、 みつばアケビ棚、 萩のトンネルの4ヶ所で調査
棚の外 37.3度(+1.5m)
棚の外地表面(日照面) 43.2〜45.3度(豆砂利敷)
棚直下 34.6〜35.2度
棚下1m 34.6〜35.2度
地表面 30.2〜31.5度(豆砂利敷)
雑木林内 34.0度(+1.5m)
〃 地表面 30.5度(豆砂利敷)
近傍のアスファルト道路面(〃) 47.7度
気象庁発表の当日の東京の最高気温35.7度
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この結果によれば、 比較のために測定した喬木林と地表面の受熱量はほとんど変わらないといえる。 間に空気層をとるダブルスキンという考え方からすれば、 トレリスのような補助材を必要とする蔓物の方が、 屋根面、 壁面を問わず、 荷重という点からもデザイン的にもあつかい易いといえるだろう。
蔓物の栽培は世界各地域での古くからの技術であり、 中央アジアの乾燥地帯で 葡萄などの日陰棚が有効に使われていることはよく知られている。 その意味で「日陰棚」は充分に実証された技術であり、 いまなお有効な手段であるといって良い。 夏季の受熱遮断のみを目的とするならば、 使い方によってはアサガオのような1年草の草本(アサガオには多年草で10m位になるものもあるが)でも充分である。
さて、 可部氏が言及している「花の咲く」蔓性植物はたくさんある。
蔓性植物には、 気根を出す「這い登り植物」、 巻きひげを出す「這い登り植物」、 茎が巻きつく「巻き付き植物」、 細く伸びた枝が絡む「ブッシュ状植物」など様々ある。 屋根面、 壁面を問わず直接建物に這わせるのではなく、 間に空気層をとり、 蔓を這わせる為に建物の壁から離した補助材(誘引支保)を使用するとすれば、 ツタ類のように気根を出すものである必要はなく、 したがって根が建物の隙間等に入り込むという恐れもない。
ごく一般的なものをあげても、 気根を出すものではノウゼンカズラが良く知られている。
巻きひげを出すものは、 ユウガオなどのウリ科の植物、 トケイソウ科のトケイソウ等。
巻き付き植物には、 アサガオ、 ルコウソウなどのヒルガオ科、 スイカズラ、 ツキヌキニンドウ等のスイカズラ科、 テイカカズラ、 ビンカ、 ハツユキカズラなどのキョウチクトウ科、 フジなどのマメ科、 ムベ、 アケビなどのアケビ科、 テッセン、 カザグルマなどのキンポウゲ科の植物、 モクセイ科のハゴロモジャスミン、 ゲルセミウム科のカロライナジャスミン等がある。
ブッシュ状植物には、 ツルバラ、 モッコウイバラをはじめイソマツ科のルリマツリ、 タデ化のナツユキカズラ等がある。
花はあまり目立たないが実の美しいモクレン科のビナンカズラ、 サルトリイバラ科のサルトリイバラ、 実の形が面白いムクロジ科のフウセンカズラ、 ヤマブドウ、 エビズルなどのブドウ科の仲間など、 実に多彩である。
■おわりに
無論「緑としての建築」という考え方は、 都市における微気象対策のためだけではない。
水と植物は多くの生物の生息空間をつくりだす。 それによって、 都市生活者は好むと好まざるとに関わらず、 日常的に多くの生物と直接、 間接に関わることなる。 また日常の管理を通じての人と人の関係も生み出す。 そのことが何よりも、 現代生活が失ったわれわれのバランスを回復する基本条件である。
植物は生き物であるから、 人間がつくった工学的予定調和を逸脱する。 「緑としての建築」は、 この逸脱を許容するものでなければならない。 その意味で、 「緑としての建築」はこれまでの建築とは範疇を異にするものといえるだろう。
「慎ましく豊かに」という氏の呼びかけに異論はない。 それを“より豊か”に実践するために、 グローバルな視点は無論大切であるが、 「コップ1杯の水を節約して、 植物と分かち合う」という価値観を身につけることも重要であろう。 「コップ1杯の水を分かち合って、 ベランダに草木を植えて愛でることから、 エコロジーの実践が始まる」と観念することこそが出発点ではないだろうか。
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