JUDI semina 2002/9
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第3回ワークショップ報告
「百年の夢を形にする」

 
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ワークショップ風景
 
 今回が最終のワークショップとなりますが、 写真資料を元に具体的な水と緑のありようについて議論することとなりました(1−3 私の選ぶ水と緑)。

 そこでは、 世代や文化的な環境による感受性の違いが、 いよいよ明確になってきたと言えるでしょう(1−4 全体を通じての感想)。

 加茂氏はその「違い」をいくつかのキーワードによって整理し、 京都らしい水と緑の本質に迫ろうとしています(2−1 大人と子どもの水と緑)。

 上野氏はワークショップの成果を、 「都市環境の部分からの改変」というテーマに結びつける理論的整理を行い、 「文明的緑(水)」「文化的緑(水)」という視点を提起します(2−2 そして京都は再生するか)。

 その背景には、 ヒートアイランド現象などの環境問題によって、 私たちの都市環境が成立基盤のところで曲がり角に来ているという危機感があります。

 その危機感は、 本ホームページ読者に対する回答にも如実に表れています(3「屋上緑化について」に対するコメント)。

 このような文明論的な問題意識は、 やがて都市の生活文化へと還元されることでしょう。

 「コップ1杯の水を分かち合って、 ベランダに草木を植えて愛でることから、 エコロジーの実践が始まる」(上記より引用)。

 さて、 これで材料は出そろいまいた。

 9月14日のセミナー「百年後の水と緑をデザインする」では、 京都を舞台とした都市・街区・建築にわたるスタディーの結果をお見せする予定です。 どうぞご期待ください。

(コーディネーター中村伸之)



1−1 はじめに

司会(若林)

 第1回、 第2回と続けてきたワークショップで、 皆さんからいただいたご意見をペーパーにまとめさせてもらいました。

 それを振り返りつつ、 周りに貼ってある具体的な風景の写真を見ながら、 皆さんの思っている街の姿とか「百年後に城巽がこうあったらいいな」という姿について、 「言葉」から「形」へとイメージを発展させたいと考えております。

【ワークショップの主旨】

上野

 都市の環境を考えていくときに、 今までまちのこと、 あるいは都市計画のことは役所がやることだと考えがちですが、 生活をしている人たちがまちをどうしていこうか、 ということがまずないと、 例えば行政に働きかけるとか、 日々の暮らしの中でまちをどういうふうにしていくか考える時に方向をはっきり出しづらい。 街はいろんな人が住んでいるから色々な価値観を持っているわけです。 その中で、 その時その時の利害関係とかがあって、 そのまちに住んでいる人もこういうまちにしよう、 と絞り込んでいくのは大変な事だと思うのですが、 それやっていかないと、 日々の積み重ねが街の形を作っていくわけですからなりゆきまかせでいけばせっかく京都が今まで積み重ねてきたものを失ってしまうことになるかもしれない。 そういうことを考える機会を作っていきたい。

 専門的な言い方になってしまうが、 都市環境を部分から変えていくということを考えられないか。 要するに国なり自治体などが行政として全体から見るのではなくて日々生活している人が自分達の周りを変えていくことによって、 その積み重ねで街は変わっていくはずです。 京都の街に限りませんが日本の都市の建物は、 これからの50年100年の間にはほとんど建て替えられることになる。 でそういう時に一つ一つの建て替えのときに、 街全体に対して目配りをしていけば1軒1軒建て替えの集積が、 ちょうどオセロゲームでこまをひっくりかえすように、 全体が何千軒あったとしても、 建て替えていく度に全体をにらみながら建て替えていけば結果的にまちは良くなっていくのではないか。 とすればどういう方向に向けていけばいいか考えてみたいというのが主旨です。 これは主に専門家サイドのものの考え方ですが、 生活しておられる方々の意見あるいは行動に対して、 専門家がどういう形でお手伝いができるのか考えていきたいというのが1つ。

 それからもう1つ、 具体的にある事を積み重ねていくことによって、 城巽のまちがこれから変わっていくための、 一種の種まきみたいなものできればというねらいもあります。 これを機会に色々な人が考えていって、 どういう方向になるか分かりませんけれども、 将来に向けての種まきの第1歩になれば有意義ではないかと考えています。 専門家にとってどういう事を考えていけばいいかという事と、 実際に生活されてる方々が具体的に第1歩を踏み出していけるようなことが見つかれば、 こういった試みは成功だろうと考えています。

 今まで2回、 都市計画を部分から変えていくというセミナーをやってきて、 今年は3年目です。 城巽に限らないのですがこの辺を中心にして皆さんがどういう夢を持っておられるか、 これからのこのまちがどういうふうな方向にもっていけるのだろうか、 皆さんの意識をお聞きして手がかりに将来像を考えてみよう。 それをまた皆さんに見て頂いて、 皆さんはそれを見ることによって、 町を考えてゆくヒントを得られるかもしれないし、 私達はそれに対する評価によって、 次にどういう事を考えていけばよいかというヒントを得られる。 そのことを狙いにしてこの秋を目標に、 今日は第3回目でタイトルにあるように、 夢を形にするところにもっていけるかということを考えていきたいということでお集まりいただきました。



1−2 今までの意見から

 (今までの意見を整理したプリントを紹介し、 感想を話し合った)

上野

 これまでのワークショップで大人と子供の視点の違いがクリアーにでてきた。

 大人は水にしても緑にしても「文化的」側面から見ている。 若い人は自然そのものとして受け止めようとしている。

 第2回WS(参加者大人のみ)のときは話題の焦点は社会的問題となり、 若い人のヒアリングでは自然的なものに集中した。 これはある意味では当然のことといえる。 1つのまちの中で視点の違いがある。 そういう多様な人たちが一緒に住んでいて、 皆がハッピーになれるまちのあり方はどういうふうにしたらいいかを考えていけたらいいと思う。 子供の時代はすぐ終わってしまうが、 その短い時間の中で人格・感性がつくられる大事な時期であり、 大人はどういったまちを用意しておく必要があるかを考えておく必要がある。 (今回参加している)彼らは卒業するが次の後輩たちがまたそういう時代を迎える。 人が続いていく限りはそういう課題を持っているジェネレーションがいるわけで、 そういう人たちがまちの中でどういうふうに過ごしていけるかが課題なのではないか。 要するに大人の求めるものも分かるけど、 違った目で見ているまちの人がいる。 どうやって1つのまちの中で具体化していくかということが課題の1つである。

小森

 大人と子供の感性の違いがクリアー。

 私が子供の頃、 同じことを思っていた。 (自然に対して)求めていたものを、 どうやって満たしていたのかと考えると、 郊外に出たとか遠足に行ったとか。 そういうところでの発見があったように思うので、 大人と子供の感性(の連続)は、 延々とあるのかなと結果を見て思った。

【まちと田舎(非都市)の関わり】

上野

 まち、 社会そのものが変わってきていて20年前、 30年前に出来た事が今できなくなってきている。 問題を全部まちのなかで解決しなくてはいけないという話ではなくて、 私達の環境の中で、 街と田舎のワンセットが大事なんだといえるかもしれない。 街にいる人が自分達のこととして、 田舎の良さを捉えてその良さが持続していくように、 街としても努力していかないといけない。 向こうは向こうで事情があるからだんだん変わってきてしまう。

 つい30年前ぐらいは、 すぐその辺に街はずれがあったかもしれないが、 今ははるか向こうまで行かないと町が途切れない、 というように変わってきた。 こういうことを頭の隅に入れておかなければならない。 郊外がどこかに必ずあって、 誰かが維持していてくれるはずだ、 などとまちは「いいとこどり」だけするわけにはいかなくなった。

【京都の緑】

清水

 京都はもっと道に緑あっていい。 (今の)木の植え方はヨーロッパ的、 あるいは東京的だ。 これでは暑くてしょうがないと、 いつでも夏場になると思う。

 例えば御池通に、 あんなに広い歩道をつくるのならのもっと木を植えたら、 涼しい道になるのに。 御池通を「日本一広い歩道」と言って自慢するのは京都的ではない。 質的なことを言うのなら分かるが、 広さを言うのは違う気がする。

 将来的に京都がどういう気候になるか調べたことがあるが、 温度だけみるとアフリカみたいになる。

 ヨーロッパの都市は京都よりも10度近く温度が低いから、 そんなに木を植えなくてもそれなりに涼しくてやっていけるだろうが、 京都の場合だと熱帯に属するアジアの街なので、 もっと街中に緑があっていい。

【その他の意見】

・五条通も木が少ない。

・街路樹をここまでかというぐらい切る(剪定する)、 枯葉になる前に枝を落としてしまう、 木がごみになっている。 それならなぜ木を植えるのだろう。

 木を大きく育てる気があるのか。

・枯葉が雨どいにつまるなど困っている人がいる。

・中学校の玄関にたくさん木が植えられているのはいい。

・地域の緑がどうあるべきか。 周りの人は花や紅葉など観賞する恩恵を被っているわけだから、 地域で木について考えていかないとなかなか解決にはならない。



1−3 私の選ぶ水と緑

 
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司会(若林)

 この地域に関係する緑なんかの写真を集めています。 写真を見てもらってアンケートをとりたいと思います。

 50年後に残したいと思う風景の写真に、 1人8票(4分類×2票づつ)を投じてください。 (京都だけではなく、 大阪や外国の写真も含む)

■写真の分類

I。 まちなかの緑
(大通り、 公園、 広場、 洋館・町家・神社の外まわり)

II。 建物と小さな緑
(店先や軒先の緑、 家を囲む緑、 町家の坪庭、 ビルの中庭)

III。 路地の緑
(京都の路地、 ちょっと変わった路地)

IV。 まちなかの水
(川、 池、 運河、 店先や中庭の水)

【投票結果と投票理由のコメント】

 
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写真01「U.建物と小さな緑」(東福寺付近)
 
 4票

・この辺の建物の家先とは違う。 郊外的だ。

・(選んだ理由は)たたずまいが良い。 機会があったら住みたいな。

 石うすがポイント。 花も置きたくなる(大人)。

・(選んだ理由は)石うすと石壁(中学生)

・「前庭があって家」というのに憧れる。

 道からすぐ家は嫌だが、 この地区では土地が無くてできない(大人)。

 

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写真02「T.まちなかの緑」(ポケットパーク)
 
 3票

・水と魚が緑と一体になっている公園は良い (大人)。

・身近にこんな場所が欲しい。 公園とか広場とか (大人)。

・この場所を友達に教えてもらった。

 花が咲いていたり、 木がたくさんあったり、 近くには車がびゅんびゅん通っているけどこの辺に来たら自然の中にいる感じ。

 だけど、 ここで遊んだりはしない(小学生)。

・誰でも入れる場所。

・京都的ではない。

 (これが家の前だったらどうか?という質問に対して)。

 もうちょっと和風的にすると思う。 あまりにもヨーロッパ的(大人)。

・イノダコーヒー本店の感じに似ている。

 京都の喫茶店に中庭があるのは他では考えられず、 珍しい。

・オープンカフェにしたらいい。

・そうするとお気に入りの場所が雰囲気変わってしまう。

 自分だけの空間を持っていたのに、 お金を払わないと入れなくなってしまう。

 

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写真03「T.まちなかの緑」(老舗旅館の塀と緑)
 
 3票

・こんなのがあったらいい。 (緑、 壁など)見た目を残していきたい(大人)。

・バランスがとれている。 落ち着く。

 中の建物のイメージを表している、 入ってみたいという願望がある。

 維持が大変(だからこそ残して欲しい) (大人)。

・(壁と緑が)デザイン的にきれい (大人)。

 

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写真04「V.路地の緑」(石塀小路)
 
 3票

・世代を超えた評価がある。

・道を挟んで左右対称、 まちなみが揃っている。 歩くのにいい。 狭さがいい(大人)。

・あからさまに緑が植えてあるという感じでない。 曲がり方が自然。

 

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写真05「V.路地の緑」(郊外の住宅地)
 
 3票

・こういうレンガの敷き方していると車がびゅんびゅん走れないのがいい。

 歩く道というイメージがある(大人)。

・歩くための道。 だんだん暗くなる路地よりこれみたいに明るいのがいい(中学生)。

 

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写真06「W.まちなかの水」(上賀茂神社前)
 
 3票

・(この風景みると)上賀茂神社を連想する。

 きれいな水、 冷たい水、 そして塀に沿って川が流れていく(…と連想) (大人)。

・ただ水があるだけでなく水がきれい。

 

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写真07「W.まちなかの水」(ホテルの中庭)
 
 3票

・市内で段差になって水が流れるのが他にはない(大人)。

・滝の音がいい(小学生)。

 

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写真08「W.まちなかの水」(料亭のエントランス)
 
 3票

・井戸の上にふたあると井戸見えないが水を連想させる。

 そういう演出が坪庭に使われている(大人)。

 

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写真09「T.まちなかの緑」(ケヤキが撤去される前の御池通)
 
 2票

・やっぱり大通りには大きい木が並んで鉾が通るのが理想。

 願望も含めて一票を投じた(大人)。

・(写真は前のケヤキであるが)木は日、 雨をさえぎるし、 犬の散歩もできる(大人)。

・枯葉を踏み潰しながら学校へ行ってた(大人)。

・昔は低木も植えてあった(大人)。

 

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写真10「T.まちなかの緑」(街区公園)
 
 2票

・こういう公園がうらやましい(自分達が遊べるスペースになる)(中学生)。

 

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写真11「T.まちなかの緑」(外壁の緑化)
 
 2票

・壁と緑がデザイン的にうまく処理されている (大人)。

 

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写真12「U.建物と小さな緑」(ビルの中庭)
 
 2票

・中庭のあるビルは少ない(大人)。

・四方向に抜けられるようになっている面白い場所。

・新しい建物でも中庭みたいなのがあるといい(大人)。

・ちょっと一息の時にいい(大人)。

 

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写真13「V.路地の緑」(滋賀県長浜)
 
 2票

・おもしろい石畳。 緑が遠慮がち(大人)。

 

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写真14「U.建物と小さな緑」(モデルハウス)
 
 2票

・普通の家でも低木とかいろんな木を植えているのがいいと思う(中学生)。

・狭くても木を植えている姿勢に共感。

 

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写真15「W.まちなかの水」(倉敷アイビースクエア)
 
 2票

・甲子園のイメージ(中学生)。



1−4 全体を通しての感想

・京都らしいものは世代を超えて評価されている。

・路地には絶対緑がある(塀の向こう側に緑が見えている)。

・(建物の中の水に関して)新しいもの、 大きいものなど色々選ばれている。

・昔ながらの暗い典型的な路地だけでなく、 いろいろな路地が幅広く選ばれている。

・オモテ通りに緑は欲しい、 通りを歩いていて緑が欲しい。

 今いわれている「町家再生」には、 オモテの緑はない。

 実現は難しいなら、 せめて鉢を置くとかツタからませるとかできないか。

・緑が欲しいからといって土壁を取り除くと京都らしさがなくなる、 土壁と緑を共存して欲しい。

・塀が緑になっているのは京都らしくない。

 竹垣のようなものがまちにあると郊外へ行ったときに値打ちがない。

 塀があってその中に緑が見えているというのがいい。

・ケヤキのまちなみより格子のまちなみの中に緑があるのがいい。

・一歩入ってパーと広がって緑があるのがいい。

・季節感のある風景がいい。

・私達は、 心地よい所に必ず水と緑を求めている。

・ちょっと塀から緑を見せることで、 中はこうだろうなと思わせるから、 水を感じたり風を感じたりするのが、 この辺のまちのつくりかただと思う。

 連想させていくのが京都人は得意。

 例えば苔とか木陰とか、 そういう楽しみ方もまちの人に求められている。



2−1。 大人と子どもの「水と緑」


加茂みどり

【今回のワークショップの意義】

 今までのワークショップでは、 実際の緑を前にするのではなく、 頭の中に描く緑の良し悪しについて議論が行われてきました。 その中で、 大人の描く理想の緑(内なる緑と京都らしさ)と、 子どもの描く理想の緑(自然で、 生き物と触れ合い遊べる緑)との違いが浮き彫りにされたのは、 メンバー共有の結論であったと思います。

 今回は、 実際の緑の写真をもとに、 「ではどの緑がいいのか?」を議論することにより、 抽象的な議論をある程度具体的なものにすること、 そして抽象的な議論では出てこない潜在的な意識を引き出すことに意義があったと思います。

【ワークショップから読み取れる結果】

 好まれた緑の風景にはどんな要素があったのか、 4項目あげてみました。

(1) 京都らしさ
 各世代を通じて支持されたのは「京都らしさ」を表現していると考えられる緑です。

 では京都らしさとは何なのか。 支持された風景が表現している京都らしさとは、 「粋」「奥ゆかしさ」「季節感」といった言葉で言い換えることができるように思います。 またその表現の手法は、 塀と緑、 または石臼と緑といった「組み合わせ」によるもの、 または井戸から水を感じさせる、 塀の向こうに緑を予感させる、 といった「連想」によるもの、 などがあげられます。

 また議論の中で引き出された予想と違い、 「京都らしさ」は、 大人だけでなく、 子供からも支持されました。 むしろその志向性は、 世代よりも、 生まれ育った環境によるところが大きく影響していると考えられます。 マンション住まいの人よりも、 町家育ちの人に京都らしさが多く支持されていました。

(2) 安らぎ
 緑と水、 石、 魚といった自然に囲まれ、 美しさを見ながら一息つける場所、 そんな「安らぎ」を感じることができる場所も支持されました。 自然と共存できる場所、 一時的であれ、 身を置くことができる自分の居場所、 と表現できるかもしれません。 緑や自然には、 その場所を「都市の中で安心して過ごすことができる場所」に変える力があるのかもしれません。

(3) 体験の場
 子供世代に支持されたのは、 「遊べる」「探検できる」緑です。 鑑賞するだけでなく、 中に分け入り、 自然と一体となって、 走り回ったりできる場所。 自分の体験の場となる緑ではないかと思います。

(4) 自然
 あと一つは、 「自然」を感じられる緑です。 おしゃれでもない、 京都らしくもない、 粋でも奥ゆかしくもない、 粗野、 けれど雄大な自然とつながる景色。 これは世界で共通して支持を受ける緑かもしれません。 作りこみ過ぎない緑が支持されるのも、 同じ原理ではないでしょうか。

 以上、 大雑把に読み取れる結果をまとめてみました。 ちょっと無理やり、 の感があるかもしれません。 あと、 緑とは関連が薄いのですが、 「通り抜けられること」という空間構造に関わる内容もあげられるという意見もありました。

 ワークショップの実施により、 あるべき緑の姿についてのイメージが共有できたのではないかと思います。



2−2。 そして京都は再生するか?


上野 泰

(1)セミナーの目指すものの再確認

 2001年の前回セミナーのテーマは、 都市環境の部分からの改変を目指す、 「緑としての建築」という考え方の提唱であった。

 「緑としての建築」は次の3つの視点から観念された。

   1。 都市の物理的環境(微気象)

   2。  〃 生物的環境(生態的環境)

   3。  〃 社会的環境(コミュニティー)

 今回、 前回セミナーに対する反応等を踏まえつつ、 単体としての建築のあり方からの更なる展開として、 広がりのあるエリアのレベルでの部分からの改変のヴィジョンを、 「水と緑」という視点から地域の人々と共に考えてみる、 という狙いについてはすでに述べた。

 町のあり方について、 地域の人々と考え、 それを社会に発信すること自体が、 例え直ちにものとして実現しないとしても、 「部分からの改変」の一つの実践であるということもできるだろう。 なぜならば、 環境とは情報そのものを含み、 しばしば情報としての環境は、 ものとしての環境と同等、 もしくはそれ以上の力を社会に対して持つことがあるからである。

(2)これまでの3回の地域の人々との「水と緑」をめぐるワークショップ

 第2回までのワークショップで大人と子供の視点の違いを「文明的」視点と「文化的」視点という言葉で仮に整理をした。 この整理の背景には大人と子供の間に明快な違いがあり、 それがそのまま環境構造に反映されるのではないか、 という仮説があった。 しかし第3回のワークショップでの具体的イメージによる選択傾向では、 事はそう単純ではないことが分かってきた。

 無論大人と子供の視点の違いはあるものの、 大人子供を問わず具体的空間像の選択には「文化的」学習(体験)のあり方が大きな要因になっている、 ということが明らかとなってきた。 (加茂レポート参照)子供の選択基準の中にも「和風」、 「京都らしさ」という項がある、 ということが確認され、 「京都らしさ」を表現している水と緑=「文化的表出としての水と緑」ということがクローズアップされてきた。 このことは「世代を超えた」まさに地域の文化としての価値観の存在を語るものといえよう。 京都はいまなお脈々と世代を超えて、 この価値観を伝えつつある、 ということを改めて実感した。 しかし、 この「文化性」の卓越と、 今の京都の都市状況とのギャップを如何に解釈すべきか、 ということが新たな課題として浮上した。

 誤解を恐れずにいえば、 一般的に「文化性」の卓越は問題への原理的、 根本的な対応を回避する傾向を持つといえる。 そして時として主観的、 情緒的傾向を持ち、 個人的価値観の優先という傾向を持つ。 それは例えば景観問題等に顕著である。 しばしば「全体的」(文明的)視野の欠落を伴うが、 それはある意味で京都のみならず、 日本全体に共通する傾向といえるだろう。

 あえていえば、 この全体的視野の欠落という状況が、 「京都という問題」の存在を招いたといういい方になるだろう。 一例をこのセミナーの狙いの一つである、 都市における物理的環境という面であげれば、 京都の夏季の温度上昇が挙げられる。

 1960〜1989 の30年間の各都市の「人工排熱」による温度上昇の比較の中で、 京都が1.7度前後(8月)で最高値を示す。 東京(8月)は0.7度前後である。 (熊本県立大 中村泰人《尾島俊雄「ヒートアイランド」東洋経済新報社 2002 掲載》)

 尾島はその原因を盆地という地形条件を無視したことにある、 と指摘している。 一般的に都市化による高温化の要因として、 人口排熱の増大、 比熱の増大、 反射率の低下、 蒸発量の低下(尾島)が指摘されている。

 京都がこれらを属性とする、 土地条件を無視したいわば「力ずく」の開発を受け入れた結果として、 言い変えれば、 京都が「普通のまち」への「近代化」の過程で、 「してはならない」改変をしてしまった結果といえるのではないだろうか。 そしてそれは、 ほとんど「文明的」過ちといってよい。

 そして、 「京都の夏は暑い」という「歴史的」言説(文化)をいわば隠れ蓑にして、 問題を直視しようとしてこなかったのではないだろうか。 「京都は暑くなっている」のだ。 上記の例に限らず、 「京都という問題」は確かに存在する。

 京都工芸繊維大学の芝池英樹助教授らは、 「都市気候形成の視点から見た地形・土地利用計画と景観」と題する論文(芝池英樹、 森山正和、 竹林英樹《日本建築学会 京都の都市景観特別研究委員会 「京都の都市景観の再生」 2001》)の中で、 京都の外界気候の特徴を述べ、 「京都市内でも緑が少なく人工物が多い地域(中心部・南部)では、 特に夏季には高温となる。 今後の京都の建築・都市を考える場合には、 外部空間の熱環境に対する配慮も必要である。 そのためには、 都市全体の計画誘導、 建物単体での個別対策、 および建物運用時の生活の工夫を相補的に組み合わせて取り組む必要がある。 」と指摘している。

 また夏季夜間安定して吹いている北風(清涼な山風)を取り入れる街区・住居計画、 河川空間の再生、 開放水路の復興、 導入による風の道効果、 冷却効果の活用を提唱している。 さらに「(密集した)伝統的な木造の町家が多い京都では、 コンクリート建物は屋上緑化による蒸発散の効果で気温低下をはかる」必要があるとしている。

 「普通のまち」から再び「京都」へ、 「京都は再生するか?」という問いへの答えが求められている。 その答えを見出すために、 再び京都の持つ「知恵」と「価値観」という文化的資産を見直すことが必要となったといえるのではないか。 それと共に、 都市へ自然的要素の導入を求める子供たちの「直感的」、 「身体的」要求にこそ、 この問題を解く鍵があるということを確認しなくてはならない。

(3)今回のスタディーの目指すものの再整理

 これまでのワークショップを通じて、 今回のスタディーのテーマは、 都市環境における水と緑のあり方に焦点を絞って、 「都市−非都市」の関係の再構築、 「都市のコンパクト化=クラスター化」、 「都市環境骨格構造」の形成、 といった「全体的」問題も視野に入れつつ、 「部分」からの改変という視点から、
     
     1。 「文明的緑(水)」と「文化的緑(水)」という視点の提起
     2。 それを「オモテ」−「ウラ」−「オク」という京都の町の持つ空間秩序の中で展開
     3。 空間的には、 「通側」、 「路地/中庭側」、 「屋上」という位相で実現
     4。 さらにそれを、
        a.個々の居住者(事業者)の判断のレベル、
        b.地域の連担レベル、
        c.行政等への働きかけをするレベル、

という実現に向けての役割分担を考えるというかたちに整理されてきた。 そしてスタディーのまとめは、 これらを踏まえて水と緑の問題という視点から、 ヒートアイランドへの対処等今日の都市環境に求められるものと、 地域の人々の求めるもの、 大切にしているもの、 失いたくないもの(加茂レポート参照)を「包含できる」街区空間システムのあり方として考えてみる、 ということに絞り込まれた。 そしてそれは空間デザイン的には、 「町らしさ」と「自然性」の両立という課題に答えるものでなければならないはずである。 「包含する街区構造」の基礎となる思想は「求同存異」という精神である。 すなわち「文明レベル」での「同」を求め、 「文化レベル」での「異」を尊重するという精神である。

 今回のセミナーでは、 「包含する街区構造」の概念とその具体的空間イメージに付いての「夢物語」を、 幾つかの角度から“気楽に”発信することになるだろう。

 このワークショップでは、 「できる、 できない」という実現性の問題には全く触れていない。 当然のことながら、 実現可能かどうか、 という事は進むべき方向が定まった後の問題である。 先ず何所へ向かおうとしているのか、 進むべき方向はどちらなのか、 それを見定めることが先決である。 そのためにはまず自由闊達にイメージを語り合う必要がある。

 このスタディーで発信する「夢」は、 「包含する街区構造」を持つ町としての城巽の姿、 “ありうべき”城巽のイメージである。

 手段はさておき、 まず大掴みな目標を構築することが大切である。 「夢物語」の発信は進むべき、 共有できる目標を、 語り合う第一歩となるはずである。



3。 「屋上緑化について」に対するコメント


上野 泰
 本文は、 第2回プレセッション報告に掲載した、 可部篤氏の「屋上緑化」に関する見解に対するコメントである。 掲載した氏の文は短く、 その主張が充分理解できないところもあるため、 webサイト上に氏が発信されている「屋上緑化の最新情報」と題する文を、 あわせてテクストとして参照させていただいたことをお断りしておく。

 *http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7749/

(1)マクロ/ミクロ

 最近、 全地球の温度上昇よりも都市部の温度上昇の方が大きいということが分かってきた。

 20世紀の間の地球全体で温度上昇は0.6度(IPCO 「第3次報告書」2001)であった。 日本全体で0.9度といわれる。 一方、 東京は1876〜1995の120年間の温度上昇は、 年間平均で2度であったという(尾島 俊雄「ヒートアイランド」東洋経済新報社 2002)。

 しかし、 ヒートアイランド化する都市の中にあっても、 木陰は涼しい。

 いきなり子供の夏休みの自由研究のような数字を出して恐縮であるが、 今年の夏街中の温度を測定した結果は以下のとおりであった。

     
     2002・8・1
     練馬区(pm1:00)日中陽の当る路上
         37.7度(+1.5m)
         45.1度(アスファルト路面)
     上記地点より約30m離れた終日木陰の路上
         34.5度(+1.5m)
         33.9度(アスファルト路面)
     渋谷区(pm2:30)原宿sony plaza 前路上
         36.5度(+1.5m)
         41.0度(石敷き歩道面)
     上記地点より約600m離れた明治神宮林内園路上
         32.1度(+1.5m)
         32.1度(アスファルト路面)
     気象庁発表の当日の東京の最高気温35.6度
 
 夏季の日中建物の屋根面も、 この道路面とほぼ同じ条件と考えることができる。

 屋根面であれば、 この受熱が室内の負荷となる。 しかし屋根面が木陰ならば涼しい。

 無論これらは、 アカデミックな数値ではない。 しかしここで示した傾向は大方の経験に照らして納得のできるものであろうと思う。

 マクロ的には同じ条件下にある一つの街の中でも、 局部的環境条件による温度差がある。 僅か数10メートル離れただけでも大きな違いがあることは、 我々の経験の中でよく知っていることである。 ここで問題としているのは、 このスケールの問題なのである。

 都市のヒートアイランドについてはすでに多くの研究が発表されており、 ここで改めてそれらを再記するつもりはないが、 人口排熱の増加、 比熱の増大=蓄熱材の多用、 蒸発散の減少=水面、 植生の減少等がその原因として指摘されている。 夏季の日照により、 室内環境負荷が増大し、 人口排熱の増大を招いており、 さらにそれが負荷の増大の原因になっていることは否定できない。 その背景に蓄熱材の多用と水面、 植生の減少が指摘されている。 そのレベルの問題に対する解を如何に見出すか、 ということがこの(セミナーでの)検討の対象としているレベルである。 無論、 地球レベルの温暖化の問題は重要であり、 それに対する取り組みが重要であるということを決して否定するものではないが、 ここで取り上げているのは、 ミクロスケールの都市における日常生活空間の快適性に関わるレベルの問題である。 オール・オア・ナッシングであってはならない。 それぞれのレベルの問題には、 それぞれの因子があり、 それに対応した解決法があるはずである。

 現在、 都市はコンクリート、 アスファルト等の蓄熱材の多用により、 夏季の太陽の熱だけでも充分に熱くなってしまっている。 「緑としての建築」は、 比熱の増大と蒸発散の減少という点に着目をし、 それへの対処を通じて結果的に人口排熱の減少、 さらに温暖化の要因の削減を実現させる方策を考えようとしている。 無論それだけで全ての問題が解決するわけではない。 すでにセミナー等を通じて度々確認をしてきているとおり、 それぞれの敷地計画、 都市計画、 地域計画、 さらには全地球的対応が不可欠であることはいうまでもない。

 「ロシアの森林が復活しても、 都市のヒートアイランド化は解消しない」。

 我々は様々なレベルの問題を抱えている。 それぞれのレベル毎の問題解決が必要なことはいうまでもない(可部 篤 前掲HP 「地球温暖化防止に有効」参照)。

(2)熱の行方

 木陰は涼しいという言葉は、 日陰は涼しいと言い換えてもそう間違いではない。 建物“本体”が受熱しない、 ダブルスキンによる日陰の形成という基本において同じである。 その意味では、 「外断熱」も原理としては同じである。

 しかし、 問題は日陰をつくりだすアウタースキンの受熱した熱の行方である。 室内環境だけを考えるのであれば、 植物による断熱であろうと、 「外断熱」であろうと効率がよい方が良いという事になる。 室内への負荷だけを考えれば、 「外断熱」の方がコスト的に恐らく有利といえるかもしれない。 アウタースキンが受熱した熱は、 大気中か地中に放射される。 そしてその熱が再び外部環境負荷となる。 この悪循環こそ問題である。

 九州大名誉教授の鈴木義則氏は次のように指摘している。 (日経アーキテクチュア 2001・7・9) 「建築の設計をする人には、 『屋内のことだけを考えるな』とお願いしたい。 屋上緑化をせずとも、 断熱性能の高い材料を使えば屋内の温度は安定する。 しかし、 断熱材を使っても建物の表面温度は下がらない。 断熱性能は同じであっても環境に対する負荷は全く違う。 」

 この環境にたいする負荷の軽減という視点から、 「蒸発散するアウタースキン」という考え方が生まれてくる。 環境負荷という視点からは、 必ずしも「日陰は涼しい」は「木陰は涼しい」とイコールではない。

(3)水の問題

 
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four seasons bali at sayan(photo four seasons)
 
 蒸発散による(水冷式)気温調節というシステムをとる限り、 「鍵は水」ということは間違いない。 したがって、 可部氏が指摘するように如何に(夏季の)水を確保するかということが大きな課題となる。

 氏は東京都の計画の通り、 1200haの屋上緑化をした場合の、 夏季2ヶ月の水の所要量の試算を行っているが、 氏の試算の中には何故か天水が加算されていない。 東京の降雨量をゼロとする試算の意図が不明である。 水は全てを上水でまかなうという仮定の意図は何所にあるのであろうか。

 ちなみに、 近年の東京の夏季の降水量は次のとおりである。

     
      東京の降雨量(「気象年鑑」 1999〜2001)
       夏季 7、 8月の東京の降水量
       1998 7月  156.5mm 8月  143.5m
       1999 7月  342.0mm 8月  301.0mm
       2000 7月  373.5mm 8月  162.0mm
      日平均で 4.6mm〜12.0mm
 
 夏季にこれだけの降水量があるのであるから、 「天の水」をオンサイトで活用するという考え方は当然必要である。 無論100%有効に利用できるわけではないが、 可部氏の挙げた所要量雨量換算で2mm/日程度を充分に満たすはずである。 もっとも水の必要量は植物の種類や大きさによって異なるので、 実際は氏が挙げている数字よりも大きくなるものと思われる。 しかし植栽されない部分の天水を貯留すれば、 必要量のかなりはまかなえるだろう。 氏の試算にあるような上流のダムは要らない。 天水を如何に有効にオンサイトで活用できるか、 という「分散したダム」のトライアルこそ必要である。 墨田区の「天水尊」のような単純なシステムなら、 そうコストが高くなるということはありえないし、 各個人、 各事業者の負担可能な範囲といえるだろう。 なるべく単純なシステムで、 植物に近い位置での貯留が必要となることは言うまでもない。 そのために様々な雨水貯留の実践を積み重ねる必要がある。 恐らくもう一段の技術開発が必要となるだろうと思われる。

 さらに“低い”位置に貯留した場合、 貯留した天水の汲み上げ等のエネルギーも問題とされている。 高さによっては、 手動ポンプのようなエネルギーとしての「人力」を考えてもいいはずである。 無論その手間隙がかかる。 いずれにせよ「メインテナンスフリー」はありえない。 水やりに時間とエネルギーを費やす、 それを支える価値観が求められる。 我々には、 総合的視野を基にした時間、 コスト、 エネルギー配分のプライオリティーの構築が求められているといえる。

 一方、 建物の上だから問題が発生する、 地面ならば水の問題がないという意見もあるが、 今の都市環境の中では、 地上ならば問題ない、 というわけではない。 場合によっては屋上とほとんど変わりのない厳しい条件下にある。 これらは総合的に解かなければならない問題である。

 ダブルスキンによる日照の遮断、 水の気化熱によるクールダウンを求めるとすれば、 氏が指摘するように、 屋上の場合は水を貯めたダブルスキンという考え方もあるだろう。 屋根の“上に”水盤を載せるのであれば、 加重の問題はあるにせよ、 たとえ水が漏っても“本体の”屋根で処理できる。

(4)植物の問題

 
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3階建ての壁面を覆うアサガオipomoea tricolor 東京 谷中(photo y.ueno)
 
 植物層による断熱効果という面に限定しても、 可部氏も指摘するように冬期断熱用か夏用かという目的によって使用すべき植物の種類は変わる。 わが国の場合、 専ら夏期の日照熱の遮熱の為と考えることができる。 したがって、 この場合屋根面に密着したグランドカバー類は有利とはいえない。 (しかし、 屋根面の場合、 積極的に人が立ち入るというような目的の場合は無論その限りではない)。 そこで、 間に空気層をとったダブルスキンという考え方が出てくる。 多くの空気層をつくりだす喬木も一種のダブルスキンを形成していると考えることができる。 喬木と蔓ものを比較してみると、 一概には言えないが葉が幾重にも重なり、 多くの空気層を持つ喬木がやはり有利といえよう(下記.データ−参照)。

 現在の屋上緑化の考え方は水耕栽培に近い培地の考え方であり、 喬木が必ずしも多くの「土」を必要とするわけでもない。 それでも大きな樹冠を形成する“重い”喬木よりは、 支保材を必要としても、 蔓物の方がはるかに(コスト面で)効率的となろう。

 蔓物による日陰棚の遮熱効果を測定した結果は以下のとおりであった。 その結果、 種類の違いによる、 葉の大きさ、 厚さ、 重なり具合等による差はほとんど見られなかった。

     
     2002・8・6 墨田区 向島百花園 (pm1:45〜2:20)
     藤棚、 かぼちゃ棚、 みつばアケビ棚、 萩のトンネルの4ヶ所で調査 
      棚の外            37.3度(+1.5m)
      棚の外地表面(日照面)    43.2〜45.3度(豆砂利敷)  
      棚直下            34.6〜35.2度
      棚下1m           34.6〜35.2度
      地表面            30.2〜31.5度(豆砂利敷)
      雑木林内           34.0度(+1.5m)       
      〃 地表面          30.5度(豆砂利敷)
      近傍のアスファルト道路面(〃) 47.7度
      気象庁発表の当日の東京の最高気温35.7度 
 
 この結果によれば、 比較のために測定した喬木林と地表面の受熱量はほとんど変わらないといえる。 間に空気層をとるダブルスキンという考え方からすれば、 トレリスのような補助材を必要とする蔓物の方が、 屋根面、 壁面を問わず、 荷重という点からもデザイン的にもあつかい易いといえるだろう。

 蔓物の栽培は世界各地域での古くからの技術であり、 中央アジアの乾燥地帯で 葡萄などの日陰棚が有効に使われていることはよく知られている。 その意味で「日陰棚」は充分に実証された技術であり、 いまなお有効な手段であるといって良い。 夏季の受熱遮断のみを目的とするならば、 使い方によってはアサガオのような1年草の草本(アサガオには多年草で10m位になるものもあるが)でも充分である。

 さて、 可部氏が言及している「花の咲く」蔓性植物はたくさんある。

 蔓性植物には、 気根を出す「這い登り植物」、 巻きひげを出す「這い登り植物」、 茎が巻きつく「巻き付き植物」、 細く伸びた枝が絡む「ブッシュ状植物」など様々ある。 屋根面、 壁面を問わず直接建物に這わせるのではなく、 間に空気層をとり、 蔓を這わせる為に建物の壁から離した補助材(誘引支保)を使用するとすれば、 ツタ類のように気根を出すものである必要はなく、 したがって根が建物の隙間等に入り込むという恐れもない。

 ごく一般的なものをあげても、 気根を出すものではノウゼンカズラが良く知られている。

 巻きひげを出すものは、 ユウガオなどのウリ科の植物、 トケイソウ科のトケイソウ等。

 巻き付き植物には、 アサガオ、 ルコウソウなどのヒルガオ科、 スイカズラ、 ツキヌキニンドウ等のスイカズラ科、 テイカカズラ、 ビンカ、 ハツユキカズラなどのキョウチクトウ科、 フジなどのマメ科、 ムベ、 アケビなどのアケビ科、 テッセン、 カザグルマなどのキンポウゲ科の植物、 モクセイ科のハゴロモジャスミン、 ゲルセミウム科のカロライナジャスミン等がある。

 ブッシュ状植物には、 ツルバラ、 モッコウイバラをはじめイソマツ科のルリマツリ、 タデ化のナツユキカズラ等がある。

 花はあまり目立たないが実の美しいモクレン科のビナンカズラ、 サルトリイバラ科のサルトリイバラ、 実の形が面白いムクロジ科のフウセンカズラ、 ヤマブドウ、 エビズルなどのブドウ科の仲間など、 実に多彩である。

■おわりに

 無論「緑としての建築」という考え方は、 都市における微気象対策のためだけではない。

 水と植物は多くの生物の生息空間をつくりだす。 それによって、 都市生活者は好むと好まざるとに関わらず、 日常的に多くの生物と直接、 間接に関わることなる。 また日常の管理を通じての人と人の関係も生み出す。 そのことが何よりも、 現代生活が失ったわれわれのバランスを回復する基本条件である。
 植物は生き物であるから、 人間がつくった工学的予定調和を逸脱する。 「緑としての建築」は、 この逸脱を許容するものでなければならない。 その意味で、 「緑としての建築」はこれまでの建築とは範疇を異にするものといえるだろう。

 「慎ましく豊かに」という氏の呼びかけに異論はない。 それを“より豊か”に実践するために、 グローバルな視点は無論大切であるが、 「コップ1杯の水を節約して、 植物と分かち合う」という価値観を身につけることも重要であろう。 「コップ1杯の水を分かち合って、 ベランダに草木を植えて愛でることから、 エコロジーの実践が始まる」と観念することこそが出発点ではないだろうか。

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