井口(京都芸術大学):
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年代別着工数
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年代別住宅着工数のグラフでも分かるように、 1960年代以降、 特に1970年代以降に建てられた住宅の数がものすごく多いのです。 これはヨーロッパの都市全体にも言えることで、 私がよく知っているイタリアの都市でも同じ傾向です。
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郊外に広がる開発
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しかも、 そうした戦後の建物は、 ヘルシンキ市の昔の町並みを取り囲むように郊外に集中して建てられています。 日本ではこういう現象をスプロールと言いますが、 ヘルシンキではそうは捉えないのでしょうか。
サラスティエ:
こうした郊外の住宅集積をヘルシンキではスプロールと呼ばないことを分かっていただきたいと思います。 なぜなら、 これはとても注意深く計画された開発だからです。 計画者のエリエル・サーリネンは衛星都市の計画をしており、 100年以上前に郊外の開発を始めており、 戦後の郊外住宅もそれに基づいて開発されました。
ただ、 ヘルシンキの隣町であるエスポーの開発は、 あまりよく計画されているとは言えませんが。
井口:
サーリネンの100年前の計画ならおそらく「ガーデンシティ」の概念に基づいていたはずですよね。 その頃のプランニングに従って、 1950年以降の開発が行われたということになりますが、 それは私ちょっと信じられない。 (サラスティエ:信じて下さいな)。 つまり、 100年前のサーリネンがこれだけの量を計画できたとは思えないのですが。
サラスティエ:
サーリネンは将来を見通す人だったので、 戦後の開発にもつながることができました。 例えば、 中心部につながる大きな道路の計画もすでにしていました。
サーリネンは中央駅を半島より内側にある今のパッシラの場所に移す計画をし(実現せず)、 そこと中心部を結ぶキングスロードも作った人でもあります。 今そんな工事をやるのは不可能です。
井口:
私がお聞きしたいのは、 サーリネンが戦後の住宅のこれほどの量を予測していたかどうかです。 人口で言えば、 1900年の10倍以上になっています。
サラスティエ:
量としては予測していなかったと思います。
井口:
では質問をちょっと変えます。 100年前に計画されたガーデンシティはそれでいいとしても、 戦後に作られた町もたくさんありますよね。 例えば、 エスポーはあまり良くない計画で、 ヘルシンキの郊外は良いと言われますが、 その違いは何ですか。
サラスティエ:
サーリネンはヘルシンキの市街地を「5本の指」というコンセプトで開発しました。 市街地の間はオープンスペースとして残しています。
また北行きと西行きの鉄道システムを作って、 それぞれの地区の人が通勤システムとして使えるよう考えました。 これも、 都市計画としては重要だと思います。
1980年代には東方向への地下鉄が整備されて、 それぞれの地区が地下鉄にアクセスできるようになりました。 ヘルシンキは、 世界でもっとも公共交通を利用する人の多い都市だと思います。
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