鳴海(大阪大学):
久保さんは、 これまで都市計画コンサルタントとして長い間仕事をして来られ、 とりわけ震災復興プロジェクトでは「住民主導のまちづくり」に精力的に取り組まれました。 その中には都市計画学会関西支部の関西まちづくり賞を受けたプロジェクトもあります。
このたび、 そういったご経験をもとに論文をまとめられましたので、 今日はその研究成果を踏まえて発表頂くことになりました。
それではよろしくお願いします。
久保光弘(久保都市計画事務所):
久保都市計画事務所の久保と申します。 よろしくお願いします。
私は神戸市のJR新長田駅北側の新長田駅北地区区画整理事業区域の東部、 約30haの地区で、 震災後ずっとまちづくりの支援を続けています。 駅の南側では再開発事業が行われています。
JUDIのセミナーでは7年前にも震災後から1年間の事業状況について報告させて頂きました。
この地区でのまちづくりの具体的な内容報告は、 「きんもくせい」の他、 いろいろな所でしていますので、 そちらをご覧ください。 今日の話は抽象的になると思いますが、 まちづくりコンサルタントとしてやっていく上でのビジネスモデルとでも言いましょうか、 つまり経験を次の機会に活かすため、 試行錯誤しながら論文としてまとめましたので、 今日はその論文に近い内容をお話したいと思います。
少しは、 実践的にお役にたてるのでないかと思っています。
そこでは「2段階都市計画方式」での区画整理の進め方について、 私なりの考え方をお話ししました。 震災復興まちづくりは、 大きな骨組みは都市計画で決め、 生活に近い部分については住民で考えるという2段階で行われたのです。
当時はまだ区画整理自体に反対する声が多くあり、 コンサルタントは行政の回し者、 というような言われ方もしましたし、 『プレイボーイ』という雑誌に相当酷いことを書かれて、 コンサルタントにとっては辛かった時期でもありました。
このセミナーを契機に、 新長田駅北地区の一つ二つ協議会の設立に立ち合わせていただき、 結果的には芋ずる式に新長田駅地区東部の10協議会のまちづくりコンサルタントをさせていただくことになりました。
震災後1年たってJUDIセミナーでまちづくり状況をお話ししたことがあり、 その時の議事録がJUDI関西のホームページで公開されています。 また、 小林郁雄さん等が発行されている「きんもくせい」にも合計15回ほど報告させていただきました。
これら震災復興まちづくりの記録をコンサルタントという立場から一度きっちりとまとめておく必要がありました。 また、 震災復興は、 本格的な住民主導のまちづくりといえますが、 住民主導まちづくりのシステムがどのようになっているか、 その全体像が複雑でよくわかりません。 単なる記録では他者に伝わらない面があります。 まちづくりの体験者として、 まちづくりのシステムの解明に取り組む必要があると思いました。
幸いに土井幸平先生(前大阪市立大学教授、 現・大東文化大学教授)からお勧めいただき、 ご指導を受けて論文にまとめることができました。 論文をまとめることは、 コンサルタントである私のためでもあり、 また次に震災が起こったときに何かの形で役に立てばという気持ちです。
もちろん学位論文というものは、 実証的なものであり、 今日お話するタイトルにつけている「複雑系」を前面に押し出して論じたものでありません。
しかし論文作成を通じて、 「まちづくり」には「プロセス」が重要であり、 それが従来の都市計画の知識では説明しにくいことが多くあることがわかってきました。 そしてまちづくりのプロセスについて議論するためには、 「複雑系」の概念を援用することが有効であると考えるようになりました。
実は「きんもくせい」が新たに今年4月からスタートしているのですが、 そこで連載させていただいています。 その連載の中で、 「まちづくりのプロセス」を複雑系の観点からより深く考えてみようと思っています。
今日は、 そのような状況のなかで、 お話をさせていただきます。
個人にはそれぞれ異なった利害があり、 異なった考え方があります。 それは今もずっと根強くあります。 原点はそこにあると思います。
区画整理事業を初めとする様々な計画は、 最終的には一つにまとめられるわけです。 それには、 それぞれの利害を調整し、 折り合いをつけていかなければならないのです。 つまりひとつの地区において、 それぞれ個人が、 学習し適応して妥協のバリアを低くしながら、 それぞれが自主的な妥協をしていくことです。 しかし、 お互いが折り合うことは厳しいものなのです。
新長田駅北地区では、 21の協議会ができ、 そのうち東部では、 12協議会ができました。 六甲道駅北地区でも8つの協議会ができています。
また森南地区では、 当初は一つの協議会でしたが、 小規模の協議会に、 悪く言えば「分裂」しました。 しかしこれを私はネガティブには捉えていません。 それぞれの異なった個人の意見が調整される場として、 小規模協議会が適しているということを示しているのではないでしょうか。
あとで述べますが、 小規模単位の自立的な協議会が、 お互いに共通のテーマに取り組みながら連携し、 やがては地区全体まちづくりへ自己組織化するプロセスがみられました。 従来の視点では、 区画整理工区を一つの協議会とすることが合理的とみるのでしょうが、 住民主導まちづくりは大きく異なります。
このようにみてくると小規模単位協議会は「まちづくり組織の原点」であるとわかります。 これが2つ目の「印象」です。
これはあたりまえの事ですが、 「まちづくりは生きているシステムである」ということです。
震災復興では、 復興のそれぞれの個人差、 それに伴う気持ちの変化など、 色んな形で状況が刻々と変わっていきます。 その過程で協議会の存続に関わる「ターニングポイント」に幾度も向かい合うことになります。
この「ターニングポイント」は、 これまでのまちづくりテーマが薄らぎ、 協議会活動の衰退の兆候に移る時期ですが、 一方では、 新しいテーマにより進化する契機ととらえることができます。 その時の状況に対応して、 まちづくりのテーマが取り入れられていくわけで、 まちづくりによる様々な計画づくりは、 タイミングを失えば取り返しがつかなくなる可能があるのです。
このため、 まちづくり全体のシステムの解明が必要と思いますが、 それがわからないという現実があります。
都市計画の一般的なプロセスとして、 計画には基本構想・基本計画・実施設計という流れがあり、 また広域的な計画から地区に至る計画という一連の流れがあり、 その中で「予定調和」していくものと一般的にはみています。
しかし、 住民主導のまちづくりは、 仮にここでは「開放系の未来」と言っていますが、 つまりどういう形で最終的にはまとまっていくかわかりません。 この「開放系の未来」というのは、 非常に大きな可能性を秘めていますが、 一寸先は闇ともいえます。
住民主導まちづくりのプロセスは、 行政主導の都市計画プロセスとは、 全く異なるものという印象を持ったわけです。
1。 はじめに
新長田駅北地区東部まちづくり
新長田駅周辺の復興市街地開発事業
新長田駅北地区東部まちづくり提案図(平成15年現在)
震災直後の平成7年5月頃から、 長田では「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」ができ、 学識経験者や住民など、 色んな立場の方が自由参加で集まり、 様々な話し合いを行っていました。 7年6月、 この懇談会が催した「長田の区画整理と再開発を考える」というこのセミナーの中で、 私は区画整理についてお話しました。 この時にも100人ほど集まって、 それは異様な雰囲気でした。 後にも先にも、 あのような場で話す機会は無いだろうと思うほどの緊張感に強いられた体験でした。
論文執筆の動機
今回の震災復興は、 住民主体のまちづくりとそれに伴う情報公開の幕開けであったと思います。 コンサルタントは従来、 行政委託による調査等をしており、 それには守秘義務があり、 ほとんど外に対して発表することはなかったのですが、 震災復興においては、 実に様々な発表の機会がありました。
8年間を通じてのまちづくりに対する印象
原点は、 個人
この新長田駅北地区東部での8年間余りを通して、 まちづくりについての印象はと言いますと、 やはり「まちづくりの原点は個人」であるということだと思います。協議会活動の原点は、 小規模組織
次に震災復興区画整理での協議会の設立状況についてみますと、 区画整理区域単位でなく、 自然発生的に町丁単位の小さな協議会が林立しました。 生活の復旧や個人間の利害の調整から始まることから考えれば、 自然な形であったと思っています。協議会が活動が終わればまちづくりは終わる、
三つ目の印象は「協議会が活動が終わればまちづくりは終わる」ということでした。「震災復興まちづくりのプロセス」は「不可逆」
ですから、 震災復興まちづくりのプロセスは「不可逆である」です。協議会のプロセスが、 計画のプロセス
このようにみてくると、 まちづくりは、 「協議会活動のプロセスが計画のプロセスである」と言えます。
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