質疑応答
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世界遺産のコアやバッファは誰がどんな風に決めたのですか。 道の両側のどれだけをバッファにするとか、 この部分は抜いてしまおうというのはどうやって決めたのでしょうか。
神吉:
基礎作業は各県の調査委員会や三県合同の協議会が行いましたが、 最終的な登録の文書の責任は文化庁です。 文化庁からはかなり強い指導体制があります。
コアから「抜いた」というよりも、 日本の史跡指定等の法律上「入れるのが難しい」というのが近いと思います。
バッファの広さについてですが、 登録のための議論の中心はコアゾーンについてですから、 バッファに関しては、 私もなかなか設定の詳しいいきさつはわかりませんが、 いろんな事情があることは想像されます。 何しろ広大なコアゾーンを包む広大なバッファゾーンですから、 作業量や時間の制約もあったのではないかと思います。
難波:
決定に際し、 ユネスコが来て何か言うことはなかったんですか。
神吉:
ユネスコは登録の書類を受け付けた後に、 視察に来るんです。 アジア地域はアジア地域の担当の方が来られて、 大事な箇所を回ってもらい、 その時にも直接意見をもらっています。 。 その後は文書の審査です。 文化庁ももちろん何回も来ています。 文化庁にとっては、 文化遺産への登録は、 9回目ぐらいになりますから、 「およそここまで出来ていれば登録に適合できる」というのが分かるんだと思います。 「世界遺産という制度」に合わせるわけですから、 まずは、 その制度をクリアすること目標に準備しますよね。 もちろん、 もっと高い目指せる目標がないわけではありません。 今回の登録は十分準備されていてほとんど問題なく成功しましたが、 それがどのような観点からみても十分な内容か?というのは別の問題です。
濱田先生に聞きにくいことをうかがいますが、 私がこの前、 田辺に行ったとき、 駅前からだいぶ離れたところで再開発されたところを歩いたんですが、 なんだか閑散としていたという印象です。 お店に対する影響という点を評価されていますが、 実際にお客さんは増えたんでしょうか。 活性化効果はどうだったのかをうかがいたいのですが。
濱田:
その調査はまだしておりませんので、 実際にお客さんが増えたのかどうかは分かりません。
大学では手がまわらないので、 地元の商工会議所にやって欲しいと思っているのですが。
前田:
良い方向に向かっていますか。
濱田:
そう言われても、 寄り道もせず真っ直ぐ行くことなんてあり得ないと私は思っていますので。 最終的によくなればいいと思います。
ただ今の建物デザインはあまりよくないですね。 あれも特定の専門家が関わった結果、 ああなったんです。
橋本市の橋本川にかかる橋についてですが、 国交省でも何か新しいことをやるときは地元の喜ぶことをやると思うんです。 不思議ですね。 報告書をつくったときは国交省は入ってなくて、 地元だけで作ったんでしょうか。
濱田:
いや、 報告書作りも国交省はかなり関与しています。 ところが、 国交省が関与していても工事の発注になると、 今の仕組みでは関係なしに動いてしまうんです。 そこが私の危惧するところです。
例えば、 10億円の工事を5千万円以下に分けて分割発注し、 地元の業者をできるだけ使うようにするというふうになってしまうと、 実現が不可能になってしまう。 最終的にものをどう作っていくかは、 その場で決まってしまうんです。
だから、 特定のデザインをして地域で頑張らないといけないと言っても、 工事発注の段階ではその条件を維持して発注されるわけじゃないんです。 仕様書のスペックにきっちんと書いていれば別ですけど。
鎌田:
でも、 普通は設計図というものがあるでしょう?
私から少し補足しますと、 「歴史街道」のモデル事業のプロジェクトは国交省(国土庁)系ですが、 国土庁系の方とコンサルタントの方が来られて彼らの主導で進むんです。 地元の人も交えたワークショップもするんですが、 役場に主体性のある人がいてまちづくりに情熱を持って、 積極的に機会を活用するような状況にあればいいんですが、 いなければ、 報告書が店晒しになってしまうこともあり得る話です。
私の勝手な推測ですが、 橋本市は古い町並みを壊して大規模な区画整理ができると胸を張っているところですから、 景観にはあまり興味がなかったんじゃないでしょうか。
濱田先生は街の中の話、 神吉先生は文化遺産を中心に田園環境や森林の話をされました。 我々JUDIの秋のフォーラムでは、 街と田園環境のつながりが一番大きな課題だと思っています。 街から見た世界遺産の指定はどうなのか、 あるいは世界遺産の指定地から見て街はどうしていくべきか、 また指定からはずれた地域の人々はどうなのか。 そのことについて両先生のご意見をうかがいたいと思います。
濱田:
つなぎを意識しているかどうかについて地元の人と話し合ったことがないので分かりませんが、 和歌山県全体としてはこれを契機に観光に力を入れたいと思っているのは確かです。 ただその中には、 神吉先生がおっしゃったように悪乗りしている連中がいるという話があります。
つなぎの部分は、 実際は農業をしている地区だったり、 ごく普通の街並みだったりします。 その奧が世界遺産になったから、 この部分も何とかしようという議論には今のところ至っていません。 神吉先生が指摘されたように、 今はたまたま農地で手つかずのママ残っていますが、 将来どうなるか分かりません。 だからこそ、 我々専門家が出ていって説明していくのが大事なのだろうと思います。
世界遺産に影響するからこの土地はこんな土地利用をしなくてはいけませんよ、 そのためにはこんな農業を目指して下さいとか、 そういう話になっていけば空間がつながると思います。 ただ、 そこまでこなしていけるかどうか。 まだまだ大きなハードルがあります。
神吉:
今回は入り込み客キャパシティのあまりない遺産です。 歩いて苦労して初めて意味のある道ですから、 マスツーリズムには向いていないんです。 今、 従来の観光地である白浜や那智勝浦の集客が以前より低下した状態ですが、 もうちょっと頑張ってそういう都市部に一定の吸収力を持続してもらったほうがいいとは思います。 それで山間部に過剰な負担がいかないようにしてくれるとよいような気がします。
田辺のような大きな街になると、 いろんな機能を充足しないといけないので、 歴史環境ばかりで話すわけにも行きませんが、 町なかには、 実際に、 中辺路と大辺路にのわかれる起点だとか、 熊野参詣に関するものがあります。 地元の人が「ごく当たり前のもの」だと思っているものでも、 外から来た人が「わあ、 すごい」と喜んでいるという例が増えてくると、 地元の人も「これは資源なんだ」と思い始めます。 湯浅の町並みはまさにそれを地で行ったもので、 元々はお醤油屋さんと味噌屋さん関連の地元産業が頑張っていたものの、 トータルにみた「町並み」としての意識は案外最近まで広まっていなかったんです。 それがいつの間にか口コミで街を訪れる人が増え、 褒め称えるようになると、 街の人もだんだん気になってくるんです。 大工さんも、 修理するときに、 わざわざ伝統的な大工道具を出してきて下さるなどといったこともあります。
田辺や新宮でもそんな動きが出てくるようになれば、 一番嬉しいと思います。
ともあれ、 この地を訪れた人たちがいろんなものを評価すれば地元の人も意識をするし、 そうすれば町並みもちょっとずつ洗練されていくかなと思います。 本来、 田辺や新宮などの都市部は、 山間部の集落の生活を支える役割や人材を育てる役割を果たしてきたのですからこれからも、 同様に頑張って欲しい。
文化遺産は「見る」という話が中心になってしまいがちですが、 熊野古道のような巡礼道は「体感」が中心になると思います。 私は大阪の天満から中辺路を通って那智までの道を全部歩き通したことがありますが、 歩いてみると日本の地形や街の出来方が体を通してよく分かりました。 昔の街は扇状地に出来ているから、 次の街に行くのは、 峠越えの道であるとか。
今回の文化遺産登録によってその指定区域だけが注目されて、 そうでないところとの差異化が進んでしまう心配があります。 大阪府下にもいいところはあるし、 和歌山市から田辺市にかけてもいいところはありますよね。
全部をカバーできないのは致し方ないとしても、 指定区域外のいい部分も積極的に評価し、 これらをつないでいくという動きをしていかないと、 いけないのではないかと思います。 他の部分部分も評価して大阪までつないでいこうとする動きはあるんでしょうか。
神吉:
実際に指定以外の地域にも語り部さんはいるし、 まちづくりを熱心にやっている所はいくつかあります。 私的レベルでは実に熱心にやっておられます。 それを制度にしていくなどの公的なものにつなげていくことが不得手なんです。 地元のまちづくりグループががんばっていること自体は頼もしいですが、 市町村などがバックアップして、 活動が継続していける公的な位置づけに結びつけることが難しいのです。
先ほど話した白浜町の富田地区に国交省が来たのは、 おそらくは、 景観法もきっかけかなと思います。 法律の説明もしておられました。 教育委員会系の、 国交省系の、 という違いは、 民間レベルでは気にしませんし、 私はうまくいくんだったら、 文化財でも景観法でもいいと思うんです。 いいやり方で新しい制度が使いこなしていけたらとてもいいことだと思います。
今は、 県も世界遺産登録に頑張って漕ぎ着けて、 やっと肩の荷がおりてほっとしているところです。 ですから今「さあ、 まだまだ」と言うのはちょっと可哀想な気もするんですね。 しかしそこをうまく次のステップに持っていけるようにできたらと思います。 いろいろな専門団体さんが来て下さるのは嬉しいのですが、 もっともっと丁寧さにこだわったうえで、 地域資源の掘り起こしや、 いろいろな制度の使い方等をレクチャーしていただけるといいのにと思います。
模索しながらやるしかないのですが、 地元にとっては、 様々な人がやってきて「評価してくれる」のが元気につながると思います。 過疎化や不況で、 過去に一度は、 地域の将来を諦めかけたことさえあるだろう地区もあると思います。 だから地元の人が元気がでることが一番です。 学生さんが「すごい」と誉めるのは、 利害も関係ないし、 よく効く薬ですから、 学生さんが沢山来て下さると嬉しいです。
両先生にお聞きします。
まず神吉先生に。 先ほど地元に人材が少なくてまちづくりがあまりうまくいかないとお話しされましたが、 湯浅町がうまく動き始めたのはなぜだったかをもう一度説明いただければと思います。
神吉:
湯浅町のまちづくりは、 最初は地元の醤油屋さんと味噌屋さん関連の方々が孤軍奮闘していて、 それがつい最近までの状態でした。 数年前から少しずつ脱皮していた感じでしたが、 まちづくりの直接のきっかけになったのは、 伝建調査です。 それまでは町並みという意識があまり広まっていなかったと思われますが、 調査に行った私たちメンバーや建築士会の面々が盛り上がっていましたら、 お住まいの方々も実は、 古い建物が好きだったことが表に出てきたという感じです。 地元の大工さんたちも元来民家の大切さをわかっていて、 今は「一軒一軒をちゃんとなおすことやね」と技術力のある職人さん達が町中の民家をなおして回ってくれています。
それに加え、 町歩きが好きなマニアックな人たちがポツポツ訪れるようになり、 それも大いに町の人を刺激しました。 面白かったのは、 奈良県橿原市の今井町の人が見に来たことが大きなインパクトだったという方もいました。 段々と町の姿が気になり、 きれいに片付けたり、 少し傷んでいる外壁をきれいにしたりというのが進んでいきました。 それをまたリピーターが誉める、 とそんな感じで湯浅のまちなみは洗練されていったんです。 大きなターニングポイントはなかったんですが、 じわじわと進んでいったという印象です。
また、 湯浅は熊野古道を歩く人たちが立ち寄ることも多くなって、 熊野古道探索ブームに乗ったような感じですが、 それに合わせて老舗商店の売り上げも上がり、 湯浅町商工会も「この路線で行こう」と腹をくくっています。 今、 湯浅町で一番気合が入っているのは商工会ですね。
まちづくりがうまく進んだことを一言で言うと、 「自信をもった」ことにあります。 行政よりも民間の方がスピーディに動いたことが、 成功するまちづくりにはよくある例です。
湯浅を見ている他の市町村でもそういうことに気がつき始めたことが、 今後に期待が持てるところです。 秋のフォーラムでも、 あえてコアからはずれている地域を選んでいます。 なにせ文化的景観ですので、 見ただけでは何が面白いのかさっぱり分からない場所が多いのです。 事前に資料を見ていただくと、 なぜその場所が大事なのかが分かりやすくなりますので、 私どももそうした資料を準備しておきたいと思います。
一方で、 田辺周辺は農業を頑張っている地域です。 年間に1000万円くらい収入を得る農家が多くいる世界でもあります。 本格的な農業をやりながら文化遺産を重ねていくのは、 とてもチャレンジ精神のいる話ですから、 農業政策的な話に興味のある方はそちらの視点で見ても面白い地域だと思います。
続いて濱田先生に。 田辺や新宮など比較的大きい街の人たちは、 今回の遺産登録では醒めているというかあまり盛り上がってないようですね。 どちらかというと、 産業系の人たちが「儲かるのとちゃうか」と考えているぐらいですが、 遺産登録で田辺や新宮の街が果たす役割はもっと別の面があると思います。 その辺の役割は何だと思いますか。
濱田:
田辺や新宮は明治の初め頃までは、 林業の木材集積地として栄えた街です。 紀伊山地という巨大な森林地帯が街の裏にあり。 金のなる木を持っているような街でした。 今でこそ偉人として知られる南方熊楠のような、 当時は「変人」と呼ばれる人物も豊かな地域だったからこそ輩出できたんです。 彼は裕福な酒屋の息子で一度も働いたことがないそうです。
しかし、 熊野古道が世界遺産に登録されたからといって、 この地域が昔のような繁栄を取り戻せるかというと、 そう簡単にはつながりません。 木材の需要がないし、 街の中心部も衰退しています。
田辺の商店街は、 街の規模にしてはとても長く、 大きいです。 それも昔の繁栄の名残なのですが、 それを再生するのは並大抵のことではありません。 今はIT産業が来ないかと夢を語っている状況ですが、 私は田辺の成り立っている状況を今に生かすことが文化的景観を再生することだと考えています。 仮にIT産業が隆盛して、 大きなビルが出来て田辺が栄えても、 本当にそれが田辺の街にいいことかどうかは問題だと思います。
田辺や新宮の街はこの地域の生活拠点ですので、 いろんなシステムが集積しており、 昔は様々な「座」がありました。 また、 熊野詣での人たちが数ヶ月生活できるシステムやノウハウもちゃんと完備していました。 ところが、 その痕跡が今の田辺や新宮には全く残っていません。 普通、 過去に産業で栄えた地域にはその繁栄を偲ばせる「○○御殿」と呼ばれる建物が残っているものなのですが、 そんなものもない。
何故かというと、 この辺りの人たちは儲けたお金で東京や大阪に投資をしていたからです。 だから地元には大きなものは残っていないのです。 丹念に拾っていけば昔の名残はありますので、 それを掘り起こして当時の生活や文化をベースにしてつなげていきたいと思います。
もうひとつ問題だなと思うことは、 地方都市には建築主事がいないのです。 みんな県の土木の出先機関がやってしまうことになって、 地元の町や建築を見たことのないような担当者が確認のハンコを押すだけの仕事しかしないような建築行政です。 しかし、 ご存知のように、 地方都市では建築がその街をつくる要素が大きいわけですから、 指導さえすれば建築主にも過大な負担にならずに市街地の質を向上出来るはずです。 今は街がどんどんとちぐはぐになっています。 そんな状況が地方都市にはいっぱいあります。 だから、 地方都市ほど地域に根ざした建築行政が必要なのですが、 今はそんな仕組みになっていません。 そこが問題だと思います。
こういう状況ですから、 田辺や新宮がどうやったら再生するかは私にとってまだまだ解けない問題です。 ひとつは、 やはり来訪者が見る外からの視点が大事だろうと思っています。 例えば、 行政の各種委員会でも地域の人だけの委員会でしかありませんから、 自分たちの目に見えないことはまず議論の俎上にものぼりません。 ですから、 外から来た人に委員になって欲しいと考えているところです。
今日の感想を一言お話したいと思います。
今日のご報告を聞いて、 地元のみなさんだけでなく、 行政、 大学の方々も一緒になってまちづくり活動をなさっていることを心強く思いました。 アクセスの問題がまだいろいろ指摘されておりますが、 それもまちづくり活動の中で解決していくのだろうと予想しております。
また、 歴史街道推進協議会の活動について厳しいコメントをいただきましたが、 それについては謙虚にうかがいました。
しかしながら、 我々の活動や組織について、 誤解されるといけませんので補足説明をさせていただきます。
「歴史街道計画」は1986年に研究が始まって1988年に発表され、 1991年に協議会が発足しました。 日本文化の発信基地づくり、 歴史と文化に根ざした地域づくり、 新しい国民の余暇ゾーンづくりの三つを柱として事業活動を展開しています。
1993年には旧建設省主導で歴史街道モデル事業が立ち上がり、 地域づくりが進んでいます。 その仕組みは、 それまでの縦割り行政の弊害をなくし、 様々な立場の人が集えるように、 行政のみならず民間の人も参加できることを目指すものでした。 そういう枠組みの事業として出発したのがモデル事業です。
ただ事業計画を策定したら資金的な支援も下りるのかというと、 必ずしもそういう仕組みになっておりませんで、 せっかく作ったこの仕組みを使いこなせなかったら意味がないということになります。 地元本位で使いこなせなかったら、 ご指摘の通り、 いろんな問題が起きてしまいます。 地元の人が「他の人に任せられない」という熱心さがあってこそ、 この仕組みが生かされるのだと思います。
また、 歴史街道モデル事業地域として指定される仕組みを参考までに申し上げます。 各府県は国交省と市町村の間にあって、 両者をつなぐ役割を果たします。 まず地元の市町村が手を挙げ、 それから各府県が希望エリアを国交省に推薦してきて、 それが国交省、 各府県、 当該市町村、 歴史街道推進協議会を含めた会合(国交省主催)で、 審議の上で取り上げられるという仕組みになっています。 あくまで地元の府県と対象エリアが一緒に手を挙げられることがスタートになりますので、 なぜこんな計画になってしまうのかと嘆かないためにも、 地元の方々がしっかりと議論を尽くしていただきたいと思います。
「歴史街道」の意義を分かりやすく言ってしまえば、 みなさんが立場を超えて議論しやすいように、 情報交換などの場を提供すること〜いわば「会議屋」〜でしょうか。 もうひとつは、 小さな市町村単独では難しいプロジェクト(端的に、 海外広報やエリア外への国内広報)がやりやすくなる〜いわば「広報屋」〜、 つまりスケールメリットを発揮できる点があります。 この二つの機能があることを分かっていただければと思います。
司会:
すみません、 時間がなくなってきたので今日はこれで終わりといたします。 濱田先生、 神吉先生、 今日はありがとうございました。
世界遺産のコア・ゾーン、 バッファ・ゾーンは誰が決めたのか
難波(兵庫県):
田辺市の再開発について
前田(学芸出版社):
橋本市の橋プロジェクトについて
鎌田:
神吉:
街と田園環境のつながりについて
宮前:
指定された以外の地域にムーブメントはあるか
久保(久保都市計画):
湯浅が元気なのは、 なぜ?
松山(都市空間):
田辺、 新宮の再生は
松山:
箱物を建ててしまうのは地元
玄道(歴史街道推進協議会):
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