『美しき村』を計画する
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1 農村景観の捉え方

 

丹波とは

 私が兵庫県の仕事に関わるようになったのは、 先ほど難波さんが説明されたランドスケープ・プランニングの頃です。 昭和64年頃から、 淡路島ランドスケープ広域計画の仕事で関わりました。

 この兵庫県の計画に一番最初に関わったコンサルタントは総合計画機構さんで、 そこがまとめた「兵庫の風景を創る」は、 作庭記の話から始まるよくまとめられた計画書でした。 その後、 環境事業計画研究所が関わり、 それを引き継ぐ形で私が担当しました。 丹波地域についても、 このランドスケープ計画の頃から関わり始めました。

 丹波は、 古代丹後や但馬も含む11郡を丹波と称していました。 文献によると但馬に続き713年丹後を分離しています。 つまり開墾され、 生産高が上がるにつれそれぞれの地域に分かれていきました。 丹波の語源は三説ありますが、 地形的に見て「田庭」と考えるのが一番妥当だと思います。

 丹波は、 ほとんど都市計画白地地域なのですが、 まず「白地地域」とはどんな地域かを考えていただきたいと思います。 ニュータウンは市街化区域ですから、 関西で言うと、 大体そのニュータウンの周りは市街化調整区域で、 その向こうにある山を越えると白地地域になっているのが一般的なところでしょう。

 つまり、 農村です。 面的な住宅開発もなく、 都市的な要素がほとんど見られないところと言っていいでしょう。 丹波地域も市街化区域はほとんどなく、 低層の住宅のみで構成されている農村地域です。 ですから、 都市計画白地地域の特徴をとらえるということは、 農村地域の環境を理解し、 その魅力を捉える、 つまり農村景観をとらえるということになります。


関西の農村の歴史特性

 私は農村の歴史特性を把握するときには15世紀以降を調べることにしています。 というのは、 わが国の集落の跡地が、 農地が出てくるのは全て13世紀以前で、 15世紀以降は河川の氾濫で消滅したところを除けば、 今の農地や山地から発見されている集落跡の事例はありません。 今の居住地が形成されたのは15世紀から16世紀の頃で、 関西では戦国時代までに今の農村の立地場所が固定化していったと考えられます。

 丹波地方は沼地の多いところで、 丹波篠山城も笹しか生えてない湿地帯をお城にして城下町を作っていきましたが、 それも江戸初期の頃です。 安定した土地利用は、 司馬遼太郎さんの話によると鋳鉄ではない刃金が庶民に普及する戦国時代からだそうです。 秀吉が刀狩りをした一因には、 農民が自由に鉄(刃金)を入手し農機具で使われたことが因としてあり、 戦国期を相前後して向上した土木普請の技術とともに開墾も一気に進んでいます。 ですから日本の大体の農村の土地開発はその頃に行われたものだろうと推察されます。

 戦国時代以降に農地開発が行われたところは、 関西の場合だいたいが浄土真宗が強かった地域です。 中世の守護職がおかれず、 その後の守護大名が育たなかった所で農民が刃金を手に入れて農機具を作って開墾していったくわけです。 加賀百万国を誇る金沢も中世は生産高が低かった所ですが、 江戸期以降に生産高が上がっていきました。

 丹波にもよく「新田」という地名が見られますが、 これは元禄期にほとんど開墾されたものです。 つまり、 赤穂浪士の討ち入りの少し前の頃です。 古い文献を見ると、 集落の石高は江戸初期に一度確立され、 その後石高が伸びたのは江戸中期以降となっています。

 ただ、 今お話した集落の成立は関西の話で、 関東の農村はまた成立背景が違います。 関東の農村景観は関西の集約的土地利用に基づく集落とは違い、 屋敷林を巡らせた一戸建てが主流です。 浜松から向こうは屋敷として独立した家屋が散居状に分布する景観が主流になります。 関西は塊村集落で、 家屋が群としてひとつの固まりのように分布しています。

 このようになったのは、 中世に自治組織を備えた「惣村」が成立したことが大きな要因になっていると考えられます。 惣村は独自の村の掟を作り集団で山や水利を管理するのが通常でした。 その成立の仕方を奈良の文献で見ると、 垣内(カイト)集落という同族の血縁集団による家屋の集まりからが始まりのようです。 今でも奈良盆地にはカイト墓地という地名が数多く残っています。 そういう地縁的な家々が何軒か集まって集落を構成していく、 それが律令制の頃です。

 奈良時代の国造りは条里制に応じて配置されましたから、 集落の家屋を配置した後に鎮守を置いていったと奈良県史にあります。 律令制のモデルとして徹底された大和は、 鎮守を先に置いたのではなく、 条理の地割りに応じて集落を政治的に配置した後、 それぞれの鎮守が出来たという地歴となっています。 ですから、 奈良の大和盆地に残る環濠集落などは、 碁盤の目状にきれいに並んだ条里の四角の中に必ずひとつ分布しています。

 そうした古代から続いた集落形成の中で、 中世の応仁の乱以降、 武士が勝手に集落の秩序を壊し始めたのでしょう。 多分農民たちの間では自分たちの村は自分たちで守らねばという気運が高まったのだろうと思いますが、 関西では惣村が成立して自治意識の強い集団になっていきます。 これは奈良、 滋賀、 兵庫によく見られたようで、 滋賀県八日市の今堀神社の古文書に惣村の詳しい内容が残されています。

 惣村の特徴を記すと、 集落がひとつの意志を持ったように密集して存在しており、 しかも一軒一軒の家は塀を作らずオープンなたたずまいで構成しています。 河内や和泉の長屋門型は江戸期ですから、 播磨のように南向き家屋が占有することなく、 方位に関係なく地形に合わせて家屋が密集して建っている丹波は、 滋賀県と同様に惣村のたたずまいが、 江戸期以降も継承される形で、 今日の集落構成につながっています。 もちろん水掛かりの悪い微高地の日当たりのいい場所に立地するのはよそと同様です。


景観把握の仕方−発見的方法

 つまり村の歴史特性を把握する方法を私なりに整理して言うと、 15世紀以降の中世の文献を当たって考えること、 そして関西と関東を一緒に考えないこと、 そして
 空間把握の方法としては、 福田アジオさんが唱えている「同心円的構成」で見ると理解しやすいと考えます。 これは福田さんが柳田國男の文献にあった「村にはムラとヤマの領域がある」という文章から考えられたものです(98年第7回都市環境デザインフォーラム関西記録「大地への取り組み」福田アジオ
大地が語りかけるもの―宿る大地とさえぎる大地参照)。

 

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領域図
 
 領域図を見るとお解りのように、 家が建ち並ぶムラの回りにはノラという農作業領域が広がっており、 さらにその外側には里山と呼ばれるヤマ領域が広がっています。 また、 日常的な里山の他、 非日常的な奥山に分ける考え方もあります。 福田さんは、 ムラ−ノラ−ヤマの領域で空間を把握されました。

 元々はムラは家が建っている所を指したのですが、 近世に定住することを旨とする行政上の都合で働く場であった農地部分と薪などを採りに行く山の部分も含めて村(集落)という圏域を構成するよになりました。

 ただ、 関東の村はノラではなく、 ハラがムラを囲んでいました。 これは放牧地が多く耕地化されていなかったので、 ハラと呼んだのだろうと思われます。 元々源頼朝が関東武士の信頼を得たのは、 個々の武士が所有する土地を保証したからですが、 関東の農村は鎌倉時代以降に開墾されていきました。 土地を保証されなかった三男、 四男以下は源義経について東北に行って乱を起こしたといったことを司馬遼太郎さんが義経で書いています。

 次に私の空間のとらえ方は「発見的方法」をモデルとしています。 これは象設計集団の師匠である吉阪隆正さんがよく言っておられたことで、 それについて書かれた論文集も刊行しておられます。 私の学生時代にも『都市住宅』という雑誌で「発見的方法」について特集していて、 それを読んで勉強した覚えがあります。

 どんな方法かというと先入観を持たず「現地に行って考える」というシンプルなものです。 つまり「解るまで現地で立っていろ」ということです。

 名護市庁舎等を設計した象設計集団の大竹康市さんが37歳で急死したとき、 大阪市立大学の富樫先生が追悼文の中で「ある漁村を岬から見に行ったときは非常に寒かった。 我々は写真だけ撮るとさっさとと車に戻ったが、 大竹さんだけは写真も撮らずにじっと見ていて30分以上帰ってこなかった」という逸話を紹介しています。 私は多分それこそが発見的方法だろうと思っています。 とにかく地域のことが解るまではじっと見ている、 そういうやり方をしていると集落の空間もよく把握できると思います。

 私がそういうやり方でとらえた丹波の風景を、 これからスライドで見ていただこうと思います。

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