地域計画という分野があります。 このごろはすっかり流行らなくなって、 死語になっているのではないでしょうか。 後ほど簡単に触れますが、 地域計画の世界はひどい状況で、 これでは誰も理解できないし、 信用しないでしょう。 流行らないのも分かります。 けれども計画がしっかりしないと良い地域づくりはできないはずです。 何か新しい計画論が必要でしょう。
これからの新しい地域計画の体系はどうあるべきか。 そのなかで緑条例に何が出来るのか? 緑条例の役割は何か? そういう風に考えて取り組んできました。 今日は実務者の立場からそのことをお話します。 専門家の皆さんから見れば、 恐ろしく雑駁なことを喋ると思いますが、 そこが持ち味なのでご容赦ください。 1 風景をつくる?
はじめに
兵庫県の丹波地域
篠山市
柏原町、 氷上町、 青垣町、
春日町、 山南町、 市島町
→11月に合併(丹波市)
人口=約12万人
面積=約871km2
(うち山林75%)
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さて、 丹波を横から見ると、 この左の図のように、 お盆のような形をしています。 お盆の底辺はせいぜい3km程度の幅しかありません。 お盆を取り囲む山の高さは600m程度です。 丹波の環境はこんな形をしています。 この縁のところをどのように作るか、 山や農地や集落のデザインをどのように表現し、 計画するか。 それが今日のテーマになります。 ちなみに、 淡路地域はこの右の図のような形をしています。 お盆の底に立って空を見上げる人と、 海の縁に立って水平線を眺める人とは、 考えることが違ってくるはずです。
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篠山盆地です。 盆地の幅はせいぜい3km程度ですが、 この写真は谷筋方向を見ているので、 「引き」のある風景になっています。 丹波では、 大景観といっても、 せいぜいこれぐらいのスケールです。
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よく目にする中景観。 山があって、 山すその少し高い位置に集落、 手前の日当たりのよいところが農地、 そして河川という合理的な構造が見えます。
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それよりも私に先ず珍らしかったのは、 何の模倣も申し合せも無い筈の、 数十里を隔てた二つの土地で、 どうして又是ほども構造が似ているのか、 尋ねても答えられそうな人が居ないから聴かずに戻って来たが、 久しく不審のままで忘れずに居たのである。 しかも風景は我々が心づくと否とに拘らず、 絶えず僅かづつは変って行こうとして居る。 大よそ人間の力に由って成るもので、 是ほど定まった形を留め難いものも他には無いと思うが、 更にはかないことには是を歴史のように、 語り継ぐ道がまだ備わって居ないのである。 .ri 『美しき村』 |
(1)自然的環境→農のシステム (2)社会的環境→共有空間 (3)構造と時間→ランドユニット |
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この図に中世の荘園領域を図にして重ねると、 よく一致します。 また、 現在の小学校区を重ねてもよく一致します。 要するに、 地形的な制約からコミュニティを構成する基礎的な単位は、 ずっと変わっていない。 そして、 この谷ではお茶、 こちらでは薬草、 こちらでは黒豆といった具合に土地に合った作物を作っている。 このような単位で空間を、 つまり構造と時間を捉えるということも大切だと思います。
ただ、 柳田は『村を美しくする計画などというものは有り得ないので、 或いは良い村が自然に美しくなって行くのでは無いかとも思われる』と書いています。 農村空間はひとつの構造原理を持ち、 そこにはひとつの時間が流れていました。 確かに、 そのような世界では計画は無用かも知れません。
しかし、 最近になって、 モータリゼーションの進展、 都市型ライフスタイルの浸透などを背景に、 より広域な別の構造原理が持ち込まれました。 そして、 農村空間は混乱し、 空間が意味を失っていく、 農村空間の現状をこのように捉えることができます。
それではどうするか。 地域としては、 50年前、 100年前の環境そのものに立ち戻るという道は選択しないと思うのです。 また、 それでは混乱に任せればよいという道も選択しない。 結局、 この2つの構造原理、 2つのシステムを調整しなければなりません。 法規制制度としての計画論の必要性がここにあるのではないかと考えています。
空間は計画する必要があるのか
このように、 空間には意味があります。 その構造を知り、 過去と未来への想像力を持つことで、 『美しき村』は計画できるのではないか……これが、 柳田國男の問いかけ『風景は果たして人間の力を以て、 之を美しくすることが出来るものであろうか』についての私の基本的な考え方です。
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