町並み景観とまちづくりを京都で考える
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質疑応答

 

 

今だったら規制も受け入れられるのでは

山崎

 伝建地区の周辺も、 周辺だからといって伝建地区に馴染ませるための地区規制がないんですね。 そういうことも「したらどうか」と私は今まで言ってきたのですが、 市の人は「そんなことを市民にはとても言えない。 よその地域から見ていい風景になるよう、 自分の所に規制をかけるなんて論外だ」と言ってきたんです。 しかし、 今の時代だったら言えるんじゃないか。 言ってみると、 「文化財の周辺に住んでいるのだから規制も仕方ない」と案外納得して受け入れる人も多いんじゃないかと思います。


今、 京都のまちづくりの現場では

桐田

 私は三条通の界隈を中心に都心の9学区で「歩いて暮らせるまちづくり推進会議」の事務局を務めています。 自宅も都心にあります。

 今日のお話はどれも、 もっともだと思いながら聞いておりました。

 最後の方で出てきた町のブロックの中にオープンスペースに近い空間があるというお話についてですが、 十数年前、 自宅のすぐ裏に十数階のマンションが建つことになって反対運動を率先してやったことがあります。 それまではたまたま高い建物がない地区だったのですが、 そこへ大きなボリュームの建物がドカンと建ってしまうと、 日照や通風の問題だけでなく、 それまであった真ん中のオープンスペース的な空間を全部壊してしまうことになるんです。 みんなで共有していた真ん中の空間をマンションが全部収奪して、 商品化して売ってしまうという構造になってしまったんです。

 そういう構造を何とかしなければならないとはみんな分かっているのですが、 京都市の場合難しいのは、 地権者がどんな小さな土地でも自分のところの資産価値がどうなるのかをまず優先して考えてしまうことです。 最近では、 御池通りの高さ制限を45mから31mにするという話もあったのですが、 アンケートをとると地権者の7割が反対でした。 規制をいったん弛めてしまうと元には戻らないという例だと思います。

 なぜそうなるのかというと、 御池通りにはそこそこ大きな繊維問屋が建ち並んでいるのですが、 そうした所は土地の資産評価に応じて銀行からの借入額が違ってくる、 そういう担保価値の問題も絡んでくるからです。 そうした事情も含めて考えていかねばならないのです。

 もっとも、 そうして問題を放置しているといずれは自分の所に跳ね返ってくるわけで、 先生のおっしゃるように市民の間でもこうした問題は徐々に理解されつつはあります。 ただし、 規制を強化したいと行政からはなかなか言えないんです。 だから、 私たちがやっているように住民も勉強して地域単位で横に連携しながら、 地道に声を出していくことが必要になってくるんでしょうね。 行政はそういうきっかけ作りをあちこちでやっていくことから始めないと、 物事は動かないだろうと思います。 ただ、 行政も都市づくり推進課を作ったりしていますが、 まだ住民側に深く突っ込んでいく所まではいってないのが実情ではないかと思っています。


京都式市民活動のややこしさとは

鳴海

 古都保存法も含め、 まちづくりの正論を言う人は大勢いますよね。 ところがそんなことには関心がないという顔をする人はもっと多いのです。

 私が京都で勉強していた頃思ったのですが、 市民がまちづくりに関心を持って活動すると政治的に利用されやすい状況がありました。 つまり、 景観やまちづくりは政治の問題なのでややこしい、 だから一般の人は声を出さないという構造も一方にあるのではないかと思うんです。 見識のある人や学校の先生もあまり発言されないようで、 それは京都にとって不幸なことじゃなかったと思います。 その点はいかがお考えですか。

山崎

 つまり、 政治的にややこしいというのは共産党が出てくる場合ですね。 保存運動をやると、 たいていは共産党が応援してくれますから。 で、 他の政党は応援してくれないわけですよ。 (共産党が参加していると、 それだけで拒否反応を示す人がいるから問題なわけです)。

 これも外国の人から見ると、 ずいぶんへんてこな話だとビックリするんです。 欧米では、 景観保存を訴えるのは保守派というのが常識なんだそうです。 特にイギリスだと保守派の人ほど開発反対で、 緑を残せと主張します。 ところが、 日本は保守派が開発派ですから。

 私たちも昔、 景観問題で活動したときには共産党が応援を申し出てきたこともあり、 時に応じて断ったり、 応援してもらったりしていました。 市民の中には、 政党の色は気にせずに一緒に景観運動をやっている所もあります。 加藤周一さんなんかは、 共産党でもどこでも平気で言いたいことは言うという感じで活動しておられました。

 私個人が気をつけているのは、 政党色ではなく、 マンション反対運動に参加することです。 というのは、 一回体験したことですが、 反対運動のリーダー格の人が突然立場を豹変させてしまったことがあったからです。 それまでは一番きついことを言っていた人がある日突然何も言わなくなる。 そういう反対運動は気をつけないといけないと思っています。

桐田

 鳴海先生が言われたような町に住んでいます。 都心のど真ん中、 中京の真ん中ですので、 お行儀良く、 大きな声を出さず、 腹の中でいろいろ思っていても決して顔には出さず暮らしています。 京都の言葉で言うと「お口別嬪」です。 ただそれは私の住んでいるところでして、 ブロックを外れるとまた違うのです。 ブロックごとにそれぞれ色合いが違います。

 私の活動もそうした地域性や住民性を考えながらやっていかないと、 何事も動きません。 京都の難しいところです。 特に政治的な色合いはつかないよう、 細心の注意を払っています。 一度どこかの政治色がついたと思われると、 たとえそれが誤解でもいっぺんに活動がやりにくくなるのは目に見えていますから。 ですから政党が協力を申し出てきたこともないことはないのですが、 丁重にお断りしています。

 また政党色に限らず、 京都人は自分たちが住んでいる所に外部の人間が入り込んできて地域をかき回すことを嫌う傾向が強いということもあります。 そこへ共産党府政が長年続いたことと結びついて、 共産党アレルギーが強くなったということもあるんじゃないでしょうか。

 ですから、 表で言っていることと本音が同じなのか違うのかを常に意識しながら動いていくところが、 京都の難しさかなと思います。


「伝統と斬新が共存する京都」というイメージについて

玄道(歴史街道推進協議会)

 今日のテーマには触れられてないことについてうかがいます。

 京都には現代建築の巨匠達がデザインされた建物もたくさんありますよね。 京都という土地柄は伝統を大切にしながらも、 時代の先を行く斬新なものを取り入れる面があると思います。 ベルギーからそんな建築を見るため、 わざわざツアーを企画して毎年やってくる専門家達もいます。 伝統と最先端が同じ町にあるという二律背反するような京都の土地柄について、 先生のお考えをお聞きしたいと思います。

山崎

 今でこそ京都は「古都」と呼ばれる町ですが、 江戸時代には京都は日本一の工業都市だったんです。 西陣の着物、 清水の陶器、 扇子等々、 様々な品物が作り出されていました。 ですから、 デザイナーという職種は京都に集中しており、 新しいデザインを生み出すのは常に京都だったのです。 つまり、 京都の人は日本で一番新しいものを作ってきたのは我々だという自負があるんです。

 明治になったときも、 京都はいち早く市電を通したり、 電気を灯したりしました。 それも「新しもの好き」という土壌の延長上にあるわけです。 京都は誰よりも近代化したいという気持ちが強かった町だと思います。

 ところが、 こと景観問題にからんでくると、 その性質はまずい方向に向かったんじゃないかと私は思うんですよね。 「京都人は斬新なものが好き」という性質をおだてる著名人も出てきました。 たとえば伊藤ていじ先生は「京都のデザイン原理は何か」という京都市の委託調査の中で「京都らしさとは新しさである」と言ってしまったんです。 伊藤ていじ先生は工学院大学の学長もした建築史の先生で、 民家の研究を日本で最初に幅広くされた人です。 そういう人が「京都らしさとは新しいものを生み出すことである」と結論づけていて、 私はそれを目にしたとき、 こりゃアカンと思ったことがあります。

 京都はものすごい文化の集積がありますからそれを守るべきなのに、 肝心の京都市民にその意識がなかったのですね。 そんな所へ「京都らしさは新しさ」と言う人たちが出てくると、 ますますその傾向に拍車がかかって、 ある時期から文化や景観を壊す方向に向かってしまったんです。

 15年前までは、 ある程度の地位にある人でも「私らは保存に興味がない。 古いものに頼って生きたくない。 どんな立派なお寺でも必要があればつぶしますよ」と堂々と公言していました。 京都市の局長クラスの人でも「京都は観光都市ではない。 生産都市、 商業都市だ。 景観は優先度の低い問題だ」と言っていました。 また市民アンケートでも「景観が大事」と答えた人は、 商業・工業発展、 交通整備と答えた人よりずっと少なく、 4%ぐらいしかいませんでした。

 そもそも、 「景観」を「福祉」や「産業」と同列に並べたアンケートにも問題があったと思いますし、 その中で4%も「景観」と答えた市民がいたのは多い方じゃないかと言ってくれた人もいましたが。 とにかく、 たかだか十数年前までは京都の景観問題を口にするのは大学の先生ぐらいだと言われたものでした。

 しかし、 この頃は市民の意識も変わってきました。 昔はシンポジウムで「町家が大事」と言うと、 年輩の人から「どんなに住みにくいか分からんのか」と怒られたものですが、 今はみなさんうなずいてくれます。 ようやく我々の話も市民に聞いてもらえるようになってきたかなと思っています。


「景観問題」がいつのまにか「高さ問題」になってしまう京都の不思議

小浦(大阪大学)

 京都のまちづくりでは、 新しいルール作りのテーマで一緒に議論させていただいたことがあります(参照『職住共存のまちづくり』)。 その時感じたことを話させていただきます。

 新しいものと古いものをどう共存させていくかの話の時、 どうしても「高さ」の議論のみに終始してしまったのですが、 これが一番マズイと思いました。 高さを押さえればそれでいいという問題ではなくて、 環境的に町家とそうでない建物がどう共存できるかという話になるべきでした。 なのに、 京都の景観問題は何でもかんでも「高さ」が議論の的になる、 それこそが問題だと思いました。

 「高さ」だけを問題にすると、 容積率を同じにするため高さを押さえて建蔽率を上げてしまいますよね。 そうすると敷地いっぱいにベチャとした形のとんでもない建物になってしまって、 デザインの幅が狭くなる状況しか出てこないんです。

 高さを問題にするなら同時に容積率も問題にするべきなんです。 結局は全体のバランスがどうかを考えればいいのに、 京都ではなぜか「高さ」だけが議論される土壌があることを発見いたしました。 私は20mに高さを押えるなら容積率を250%まで落とすべきだとずいぶん主張したのですが、 それも認められませんでした。

 またその時ずいぶん議論されたことに、 山崎先生もおっしゃった「家の背後にある空き地をいかに守るか」があります。 それを考えろと言われましたが、 いくら考えても今の日本の制度ではできないのです。 建築線がないですから、 現在の法律の中で読み替えられるものはないかと考えたのですが、 残念ながら思いつけるものがありませんでした。 まあ、 連戦連敗だったなと思います。

 そういう中で、 「街区の中の空き地」がどれくらいあるかを調べました。 烏丸−堀川、 御池−四条の間の主に本能学区の住居(住居併用含む・共同住宅除く)を調べたのですが、 ほぼ8割方調べることができました。 結果を紹介すると、 やはり家が建て変わるたびに空き地はどんどん減っています。 しかし、 前に店があって奧に空き地をとるというパターンは残っているのです。 そういう空間構造的なものをどうやって残すかが景観的には大事だろうと考えています。 ただ、 それを残す仕組みをどうやって作るかが大問題でして、 それが今後の課題になるだろうと感じました。

 また、 最近の景観破壊と言うとやはりマンション建設が筆頭に上がりますが、 町の人はマンションを否定しているわけではないんです。 新しい人が入ってくることを嫌がっているわけじゃないというのは、 やはり京都の人は都会人の意識だなあと思います。 ただ否定はしないけれど、 「あの建て方はないだろう」というのがみなさんの気分なわけですよ。

 町家を残すことももちろん否定はしない。 つまり、 どうやって新しい家と古い家が一緒の町内で生きていくかを考えたとき、 個人の事業者さんの一定の資産価値を維持しながら、 街区全体の環境資産も維持できるというふうにしなくちゃいけない。 そこをうまくつなげる、 あるいはうまく組み立てられる方策がないのが今の京都の現状ではないか、 私はそのように感じています。

 なお、 最近の問題として現れているのが、 町家対マンションではなく、 マンションが増えたことによるマンション対マンションの軋轢です。 すでに東京でも「ドミノ・マンション」として話題になっていますが、 京都でもそういう事態になりつつあります。 本当はマンションのすぐ横のお蕎麦屋さんの方が被害が甚大なのに、 マンション同士の議論で話が進んでしまうことがありました。 業者から見れば住人の多いマンションの方が声が大きいわけで、 そこを優先してしまうのです。 そんな開発原理で進んでいきます。

 マンションに住んでいる人は、 自分の所が他人の環境をつぶして建ったことを知らないから隣にマンションが建つことに反発しますが、 元から町内に住む人から見ればかなり矛盾した行動に見えます。 ただ、 これも買う人がいるからマーケットが成立するわけで、 これからどうやって買う人を減らすかも課題と言っていいんじゃないでしょうか。

 今のマーケットの中では、 文化的な価値が共有されていません。 みなさんもおそらく家を買うなら、 価格とか駅近といったことを重視して、 このマンションはどんな経緯で建ったかを気にしないでしょう。 そういうことがある限り、 今のマーケットの中では開発行為は止まりません。 だからこそ規制やルールが必要になってくるし、 実際やろうと思えばかなりのことが出来るのですが、 先ほどからの話にあるように規制に真っ先に反対するのが町内の人だったりするのです。 計画論がないわけでもないのに、 それだけではまちづくりはできないのが大きな問題でしょう。

 今述べたように、 計画論、 町の問題、 マーケットという三つの問題が京都はくっきり出ている所です。 地域の人がルール作りをしたいと思ったとき、 それを支えられる制度や法律があるのかは今後の課題だと思います。


日本には風景を楽しむ教育がない

鳴海

 ではそろそろ時間ですので、 最後に私の感想と山崎先生のコメントで締めくくりにしたいと思います。

 発表の冒頭で「目で見える環境の話」があって、 景観問題は建築デザインの問題ではないというお話がありました。 それは私も大変同感するところです。

 「良い景観、 魅力のある景観」を認識するセンスはたいていの人は持っています。 だからこそ、 センスのいいものを見たくて大勢が京都にやってくるのでしょう。 最近話題になっているいろんな都市へ遊びに行くのも、 やはり自分の感性を楽しませたいからです。 ところが、 いいものは評価できるのに「ここをいい環境にするにはどうすればいいか」という話になると、 突然能力が働かなくなるようです。 いい景観ができるか、 まずい景観を造るかは、 できてしまってから初めて分かるんです。

 最近思っていることですが、 私たち専門家は、 一般の人が普通目にとめないようなものでも「いいもの」を沢山見つけ出しています。 例えば、 有名ではないが、 古くから存在しているものには、 なかなかいい風情があります。 それを作り直さなければならなくなった時、 ガラッと変えてしまうよりも、 その良さを継承する方がいいということについて、 プロ以外の人に問いかける工夫が足りないんじゃないでしょうか。

 言い過ぎかもしれませんが、 風景を楽しむ能力は子どもの頃からの美術教育で教えるべきだと思います。 しかし、 私たちが受けた美術教育を振り返ると、 とにかく「表現しろ」「イメージを伝えろ」とか、 あるいはアバンギャルド的な方向を良しとする教育が中心で、 味わい深いものを味わう能力は誰も教えなかったように思います。

 そういう美術教育がある一方、 音楽教育では、 現代音楽なんて誰も歌えないから、 楽しい音楽を鑑賞したり、 歌って楽しい歌を歌わせられたという思いがあります。 美術教育にも、 鑑賞する楽しさ、 自分で表現する楽しさの両面が必要だと思います。 先生達は子ども達の感性を伸ばしていくことにもっと工夫を凝らすべきと思います。 自分のことを振り返ると、 美術教育では誰も何も教えてくれなかったなと思い出しました。

 今日の山崎先生のお話を聞いていると、 私たちプロは一般の人に分かってもらえる物語をいっぱい作らねばならないと思いました。 その点、 ちょっとサボっていたと反省しています。 小浦さんのお話をうかがっても、 プランナーとしてどう提案するかばかりでなく、 「分かってもらう」ためにいろんな事例を収集するのが大事なんだと思いました。 それを十分にはやってこなかったことを反省しつつも、 まだこれからやれそうだなという気も同時にしています。


本当は京都こそまちづくりがやりやすいはず

山崎

 私自身も都市計画家の端くれですから、 今日の話は都市計画の人たちを批判したわけではないんです。 ただ、 行政の人が景観問題というと景観条例や景観法で規制すればいいと思っているのは違うんじゃないかと思っています。

 京都のまちづくりは問題を抱えているとは言っても、 町家は必ず何軒か残るでしょうし、 寺社仏閣もたくさんありますから、 将来像を作るとき、 それらを基準にすればかなりやりやすいはずなんです。 基準にすべきものがない町のほうが誰かがアイデアを出さねばならないし、 そうすると必ず誰かが反発するので、 むしろ難しいんじゃないかと思います。

 しばらく前にウイーンで地区計画を決めるときの話を聞きました。 ウイーンでは200分の1の地区模型を作って、 それを見ながらみんなで議論していくのだそうです。 で、 その時他人の敷地についても「こうしよう」「こっちがいい」と口を出すそうです。 日本では個人の敷地の使い方について口を出すのは考えられませんが、 そういうやり方を日本でもやれるようになればまちづくりも変わってくるかもしれません。 口出しができるシステムが何十年も続くと、 それが当たり前になって制度も変わっていくようになるのではと私は思っています。

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