質疑応答
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司会(山崎):
私の職場は滋賀県ということもあって、 被災地から距離もあり阪神間の復興がどうなっていたかはよく分からなかったのですが、 今日はかなり広範囲にわたってどんな姿になったのか、 どんな努力があったのかが分かり大変勉強になりました。
せっかくですから、 会場からの質問を受けたいと思います。
ヨーロッパの都市、 特にドイツやチェコの都市では戦災の後、 町の姿を元の姿に復興したという話をよく聞きます。 なぜ日本では、 そんな意識が全然ないのでしょうか。 人々の意識の問題、 土地所有の問題、 行政の問題、 いろんな切り口があると思うのですが。
鳴海:
それはやはり、 人々の意識の問題でしょうね。 日本人の価値観とも関係するでしょうが、 明治維新の時も終戦の時も「過去は悪いもの」という意識が広がりました。 今でこそ骨董品がブームのようになっていますが、 大方の人にとって古いものは嫌いで、 価値がないという気持ちが根強くあると思います。
もうひとつ、 専門家の責任も大きいです。 昭和30年代に戦後のまちづくりが進んだとき、 どこも耐火構造のまちづくりが進められました。 国の政策の柱に「不燃化」がありましたので、 多くの技術者はまちの不燃化に邁進したのです。 その時、 多くの専門家が「古いものは燃えやすい。 建て替えるべきだ」と口にし、 その考え方が日本の環境づくりの根幹になりました。 その考えはその後ずっと日本を支配してきたと思います。 これが古い町を壊す最大の要因だったように思います。
なお、 同じドイツのまちでも町の復元には温度差がありました。 ミュンヘンは一番復元に熱心でしたが、 フランクフルトはそうでもありませんでした。 しかし、 フランクフルトは1980年代になってからその姿勢を反省し、 改めて文化的まちづくりを進めたという経緯があります。 戦災復興期にヨーロッパ全体が復元に走ったわけではないようです。
都市の復興を行政から見たとき、 土木畑の方がかなり指導的な立場にいたのではないかと思います。 今日の話でも、 復興の中身にはせせらぎのある町とか道路整備が出てきましたが、 土木系の人と話をしたときに景観の話とかは出てくるのでしょうか。 また、 この復興後のまちの評価について、 土木系の人たちはどのように見ているのでしょうか。
鳴海:
先ほどの道路整備による環境変化について、 見解を述べてくれたのは、 実は土木の先生なんです。 ですから、 土木の人たちも昔に比べたら発想は変わってきていると思うのですが、 それが行政までにはたどり着いてないようです。
JUDIの会員でもある田村さんも西宮の森具地区の計画に関わっていましたが、 区画整理の設計の段階では行政への意見があまり通らなかったそうです。 やはり、 いまだに行政の中では「車と道路」は強いと思います。
行政からとして、 ここで難波さんにコメントしてもらいましょうか。
震災復興に限らず一般の事業を行う場合でも、 補助金があってそれを使うにはルールがあり、 一定の基準を満たしてないと補助金は出ないという決まりになっています。 ですから補助金を得るために、 いかに基準をクリアするかが仕事になってきます。 その基準を見直さない限りは、 同じような問題は出てくることになりますね。 バリエーションがあっても、 一定の枠内でしか出来ませんから。 それに補助金は額が大きいですから、 ヘマはできないという意識もあります。
発想としては、 若い人はそれなりに景観に対する意識は持っているようですが、 10年ぐらいやっているとそんな意識もなくなってしまうというところもあります。 やはり「出来てナンボ」という意識は行政の中では強いと言えます。
鳴海:
お手元の資料「被災地域の景観復興関連施策(兵庫県調べ・2004.7)」は、 復興まちづくり10年検証のうち、 景観について各市町へアンケートをとったものの結果です。 それぞれの町の特徴は、 その実施したメニューに現れていると思います。
そのうち、 淡路島へは10町へアンケートを送ったのですが、 景観について回答を寄せてきたのは一宮町と東浦町の2町だけでした。 震災後の景観として、 淡路島は再建住宅を瓦葺きにするなど景観の持続的な復興が行われているのですが、 それはお役所主導で行われたわけではないことがこれで分かります。 住民のみなさんが自前でやっているのです。 町としては違うことをやっているようで、 東浦町の「伝承文化事業」のようにコミュニティの活性化を図る活動が淡路では多いです。
景観対策だけ見ると、 一番優等生的なのは神戸市、 西宮市でしょう。 やはり行政の中にも頑張っている人はいるのだと思います。 そんな町ごとの特徴も資料を見ていると分かってきました。
山崎:
制度で頑張っている都市は、 出来上がった環境もいいものになっていますか。
鳴海:
それは評価が分かれますね。 一番単純に分かるのは、 修復がどうだったかですが。
難波:
当時私は「密集事業」をやっていました。 淡路の一宮や東浦も「密集事業」で整備が行われました。 一宮の場合、 アドバイザーが現地に入って町の復興と同時に景観についてもマニュアルを作っていきました。 その時に町自体もインスパイアされたんだと思います。
東浦も最初の頃はコミュニティ住宅なんか必要ないという姿勢だったのですが、 住民といろいろ話をしていると「町なかに家が欲しい」というおばあちゃんが出てきたりして、 やはり作らなければいけないというふうに変わってきました。 最初は固い担当が、 復興事業をやっていく中で意識もかわってきてまちづくりに一生懸命になっていきました。 事業が人を育てたと言えるのかもしれません。
伊丹市の場合でも、 担当は土木の人で普通の道路しか作ったことがなかったのですが、 密集事業の中でコミュニティ道路を広げていくなど、 けっこう景観意識にも目覚めていったという例もあります。
鳴海:
伊丹の荒牧地区は景観的には頑張ったところですね。
震災当時は私も芦屋に住んでいましたし、 その後の復興でもいろんなお手伝いをさせていただきました。 今日は鳴海先生のお話をうかがいながら、 いろんなことを思い出していましたが、 ふたつほど気になったことを発言させていただきます。
ひとつは、 元々住んでいた人は昔の風景を失ったことを悔やんでいるのに、 新しく来た人たちは今の風景に満足しているという話です。 これは、 かなり大きな問題をはらんでいると思いながら聞いてきました。
実際、 芦屋は震災前に比べて人口は増えています。 大きなお屋敷がなくなって、 そこにマンションが続々建っていったおかげで人口は増えたけれども、 空気の量は減ったような感じです。 このことをどう客観的に評価するかが、 今後の大きな課題だと思いました。
また、 今日のお話でもう少し触れておきたい話題に、 道路整備の事があります。 今の制度は安全性を高めたりボリュームを増やすことに力点を置いていますから、 道路整備も道を広げることばっかりでした。 しかし、 そこに住んでいる人たちが反対したのは、 道を広げること自体だったんです。 神戸の森南や山手幹線も同じ理由から反対運動が展開されました。 若宮地区はわざと細い道を残そうと頑張りましたし、 西宮市では地区計画で容積率を低くする事にしました。
つまり、 人々にはヒューマンスケールな空間が復興事業の過程で失われることへの危機感があったわけです。 そんな人々の思いは、 意外と被災地以外の人々には知られていなかったのかという気がしました。 本当は我々や住民がもっと発言して、 伝えていくべきなんだろうとも思います。
再建した町は、 新しく来た人たちにいい環境だと評価されているようですが、 本当にそうだとしたらかなり問題かなと思います。
最近私は、 建築家のルイス・カーンの本を読んでいますが、 今日の話題に関係する話が出ていますので、 ちょっと紹介しておきます。
1938年の話ですから、 もうずいぶん昔の話です。 ルイス・カーンは建築家として知られていますが、 50、 60代まではアメリカの不況の中でけっこう不遇な時代を過ごした人でもあります。 彼がフィラデルフィアの再開発のコンペで入賞した時のことですが、 スラムクリアランスの手法で全面的に更地にして新しく建て替えるという案が、 住民の猛反発を呼んで挫折してしまったのです。 その時彼が反省して書いたことが、 今日の話題につながることでとても重要なことなんです。
「たとえ表面的には雑然としているように見えても、 まちが継続してあることがそこに暮らしている人々にとって、 どれほどかけがえのない意味を持っていることか」「建築(多分、 これには土木構造物も含まれると思います)は単なる技術的で合理的な産物なのではなくて、 それを超えてコミュニティを支えるものだ」。
日本の場合、 歴史的な町並みを継続させたいという傾向は一般的ではないと私も思いますが、 あの震災の時点では住民たちは自分たちのまちの風景を変えることを全く望んでいませんでした。 そこのところの視点を伝えたり、 議論したりすることの必要性を強く感じました。
司会:
今のお話についてふたつほど思うことがありました。
ひとつは、 都市が発展するとはどういうことなのか。 元々住んでいた人の生活が良くなることなのか、 それとも元の住民が出ていって新しく来た人たちが新しい建物を作って経済発展することなのか。 都市計画家はその辺を考えていないのかなと思うことが、 時々あります。
もうひとつは、 慣れ親しんだ風景ということについて。 なじみ深い景観を評価するというのはずいぶん新しいことで、 ここ20年ぐらいの間に出てきたことなんです。 それ以前は「親しみ深さ」は価値ではなく、 新しい創造性や造形性が価値を持つものでした。
ただ、 戦後に出来た町の多くは安っぽかったりします。 学生にアンケートをとると、 そうした雑然とした汚い町を「好き」と答える学生が毎年何割かはいるんです。 「なじみ深いから好き」という気持ちは分かりますが、 やはりそこを克服してほしいと思うのですが。 ただ親しみ深さだけで良しとするのは、 景観を語る上で難しい点があると思います。
先ほどの鳴海先生のお話の中で、 淡路の一宮が出てきました。 私も震災復興10年に向けた事業で、 花と緑で一宮のまちを飾ろうというお手伝いをしました。 スライドでも紹介されたように、 群家地区では多くの家が破壊され人々が亡くなりました。
ここでワークショップをやってみると、 数年前から商店街を花で飾るフラワーストリートが行われていましたが、 一方で個々のベースで花と緑のまちづくりをやっていたんですが、 多くの人はそれをよく知らなかった。 しかし我々専門家としては、 新しい住み手も含めてもっと多くの人々に参加してもらって、 輪を広げ花と緑を一宮の復興の手だてに出来ないかと考えていました。 けっこう悶々としながら手さぐりでやっていたようですが、 県が支援し我々専門家が入ることで、 活動の輪が広がり幼稚園の子どもからお年寄りまで広範囲の人々が参加するようになりました。 元々この地域では花と緑は身近にあったのですが、 これだけ多くの人が参加することで花と緑の楽しさやその潤いを感じることができたと沢山の人から言っていただきました。
1月17日には夜6時から10周年の記念事業が行われました。 その時、 ウチのスタッフが提案したのが、 たこ壷を13個並べ、 そこにろうそくを立てるという案です。 これはこの地区でなくなった13人の供養でもあるのですが、 その時たこ壷の回りをみなさんが作ってきた花と緑で花壇にしたのです。 記念のイベントでは13回の鐘をならしました。
私も参加型のワークショップで花と緑でいろんなまちづくりのお手伝いをしてきましたが、 今回のイベントほど感動したのは初めてでした。 まちづくりの中で花と緑を生かすこと、 それが今回のような良いまちづくりになったことで、 私自身もこの仕事を選んで良かったなと思いました。
花と緑は身近なものですが、 手法によっては多くの人々に喜んでいただける、 そんな印象を持ったことを私のコメントにさせてもらいます。
景観形成で大きな影響力を持つのは、 自治体と地権者だと思います。 一定の方向性や政策を決めるのは自治体で、 現場で建築活動や経済活動を行うのは地権者です。 ですから、 両者にプラスになることであれば景観形成も積極的に進むと思います。
通常、 自治体や地権者はその土地がお金を生み出すことを望みますよね。 自治体なら税収や路線価のアップ、 地権者なら不動産活用や賃貸収入などですが、 その辺のお金の問題も景観形成に避けて通れない話だと思います。 全てがお金で左右されるわけじゃありませんが、 ひとつの指標としてはあると思います。 その点で、 神戸の復興事業がどう動いたかに興味があります。
というのは、 京都市は今ダウンゾーニングと町家ブームを仕掛けていますが、 マンションを抑えて町家を残すことで路線価が上がって税収も増え、 消費活動も活発化しているんです。 つまり、 景観形成をしたことが市の収入につながっているんです。
神戸の中では、 震災後すぐに旧居留地が景観を守ろうとしましたが、 それが今になって路線価やそれ以外のことに影響しているのかどうか。 住宅地でも景観に対して何らかのアクションを起こしたところは、 その後どうなったか。 その辺をうかがいたいと思います。
景観形成のためには、 どうしても初期投資にお金がかかることがあるかもしれません。 ただ、 もう少し京都の事例を言うと、 清水あたりが今、 路線価が上がって消費も増えているのは、 修景に対して行政がかなり支援しているからだと言われています。 初期投資の時に行政がかなり補助金をつぎこんだことが、 一定の期間を経て経済的な効果を生みだしたと言えると思います。
阪神間の復興事業ではそうした視点があったのかどうかをお聞きしたいと思います。
鳴海:
旧居留地と中華街はそういう目標を持ってまちづくりをしていますから、 それなりの効果は出てきていると思います。 しかし、 他の地域ではそんな意識はないと思います。
公共主導でやった事業地区で、 それなりに景観に配慮してやったところは新長田の北地区ぐらいで、 頑張ってはいるけれどまだ波に乗り切れてないのが現状のようです。 それはグローバル化のなかでの地場産業の衰退という全然別の要素で動いている可能性もあります。 景観が経済効果に結びつくと思ったところは動くでしょうが、 大半のところはそこまでの余裕はないという傾向にあるような気がします。
震災復興事業が10年経って、 将来の景観形成活動の展開に関連して考えなければいけない課題が山積みの状態です。 これをどう整理しようかと思って、 今日は私が持っている10年間のデータを紹介してみました。 多分、 いくつか柱立てをして整理する必要があるなというのが今の私の実感です。
今日は、 みなさんどうもありがとうございました。
なぜ日本のまちは元の姿に戻さないのか
難波(兵庫県):
土木は景観に配慮したか
司会:
行政は景観に配慮したか
難波(兵庫県):
住民たちはヒューマンスケールな空間を変えたくなかった
江川(現代計画研究所):
花と緑による復興事業
長谷川:
景観形成と経済効果の関連性
山本(街角企画):
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