上田篤「日本人の心と建築の歴史」を語る
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『日本人の心と建築の歴史』の書評から

 

日本の欠点〜責任の所在の不明確さ

 この本に対する書評を3つ紹介させていただきます。

 1つ目は池内紀さんの書評(毎日新聞2006.1.29)です。その中で、池内さんは、「無残としか言いようのない現在の状況のなかで、語られるのは罰則や法規や技術のことばかり」と書かれています。まさに現在の姉歯問題、耐震構造疑惑の問題です。

 この問題は建築業界にとっての大問題です。国土交通省が罰則を強化するなどと言っていますが、そのようなことが問題ではありません。最大の問題は建築家が発言していないことです。「建築家はこうあるべきだ」「建築家は反省すべきだ」など何でも良いと思います。しかし全く発言していない。

 そして最も不思議なのは、建築確認申請を出した一級建築士が誰なのかが出てこないことです。あの規模の建物の建築確認申請を出すときには必ず一級建築士がおり、その一級建築士はマンションの平面図、配置図、構造計画など全て把握しているのです。姉歯は、その人から雇われて構造計算を担当した一分担者にすぎない。

 本来なら、確認申請にサインした建築家が責任をとる必要があるのですが、なぜその建築家が表に出てこないのでしょうか。そこには、ゼネコンが設計事務所の資格をとって関係している可能性もありますし、名義だけ貸している可能性もあります。このように、一級建築士の確認申請を出した人のことが国会ですらあまり議論されないのです。しかも、このような確認を認めた役所も責任がある、などといわれ、訳の分からない状況になっているのです。

 この訳の分からない状態つまり無責任社会が、今日の日本の最も危機的な点なのです。

 一方、欧米では責任の所在は明確になっています。その責任は一構造担当者ではなく、建築家にあるのです。日本では、建築に問題が生じるとゼネコンが後始末をして、建築家は現場の対策を考えるくらいで済みます。しかし欧米ではゼネコンなどといったものはほとんどなく、全て建築家の責任になるのです。したがって人が死ぬようなことがあると建築家は牢屋に放り込まれてしまう。そこで建築家はみな保険に入っています。欧米の建築家の設計料が高いのは保険料が含まれているからなのです。だから仮に「鉄筋を減らせ」と言われても建築家の責任になりますので、そのような話には乗らないのです。

 このように日本の最大の問題は、責任の所在が不明確な点にあるのです。このようなことを池内さんは言われているのだと思います。


心が投影されて形になる建築

 2つ目は武澤秀一さんの書評です(産経新聞、2006.2.19)。武澤さんは、「心が空間に投影されて形となり、人がそこに住みこむ、そのようにして建築は成立する。少なくとも上質な建築は」と書かれています。

 私は最近遅まきながら、韓国ドラマ「冬のソナタ」を見て感激しました。ぺ・ヨンジュンとチェ・ジウは二人とも建築家で、色々な事情で二人はなかなか結ばれないのです。住む家のない二人は、世間の目を逃れて安宿に泊まったりして過ごしている中で「大きな立派な家をつくりたいね」と言ったぺ・ヨンジュンにたいし、チェ・ジウは「あなたの心が私の家です」と言いました。武澤さんの「心が投影されて形になる建築」をつくりたいということにつながると思います。


建築史ではなく日本史

 3つ目は田中充子さんの書評です(『社叢学研究』第4号)。田中さんは、「この本の内容についてはいろいろの感想があるけれど、率直な意見としてこれは『建築史』の本ではない。では何かといえば『日本史』の本だ」と書かれています。これには参りました。

 たしかにこの本では建築学、歴史学、考古学、宗教学、民俗学と真正面から対決しています。3月18日に京都精華大学で、この本を巡って歴史学の上田正昭さんと対談をします。そして4月には東京で考古学の花形である小林達雄さんと、5月には宗教学の山折哲雄さんと対談をします。私は歴史学、考古学、宗教学の現代のオピニオンリーダーと直接対談でき、意見を聞けることを楽しみにしています。今日は建築の皆さんにお話をしているのですが、田中さんに言われてみるとまさにその通りで、この本は建築史ではなく、日本史の本だったと思います。

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