上田篤「日本人の心と建築の歴史」を語る
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輪中の村づくり

 

古代・中世の村づくり

 先ほど話題にした蓮如も「輪中(わじゅう)」というのを造っています。

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古代のムラ〜洪積大地・自然堤防(濃いグレーの部分)と条理制(黒字)・寺院(卍)(出典:田中充子「仏さまが輪中をつくり、神さまが人々を守った」『日本人はどのように国土をつくったか』学芸出版社。2005。金田章裕の図を元に作成)
 
 「古代のムラ」という濃尾平野の図面を見てください。白い太い線に見えるのが川です。木曽、長良、揖斐(イビ)の三川です。名古屋は右下にあります。古代・中世を通して、濃尾平野ではどこに人が住んでいたかが、今残っている考古学的遺跡を見ると分かるのですが、特に重要なのが神社や寺院の場所です。どこに日本人が住んでいたか、を調べる時には、まずどこに神社や寺が建てられたかを調べるのです。日本では神社や寺院が中核になって町づくりが行われてきたのですから。これが日本の民衆の町づくりなんです。

 図面に卍(まんじ)で記されているのは、古代寺院のあった場所です。これは奈良時代に当時の有力者である豪族が寺を建てた、ということなんです。だからここには豪族がいたことが分かります。

 黒く塗った所は条里制が行われた所です。濃いグレイ地になっているのは自然堤防でして、その周辺にあるのが洪積台地です。そういう条件の良いところに最初の居住地を造ったのです。


古代・中世の村づくり

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古代・中世のムラ〜扇状地(グレイ地に白地)と式内社(●丸+真ん中白)(出典:田中充子「仏さまが輪中をつくり、神さまが人々を守った」『日本人はどのように国土をつくったか』学芸出版社。2005)
 
 これは平安・鎌倉に入った古代・中世のムラです。その頃になると、式内社(●印)があちこちに出来てきます。延喜式に登録されているのが式内社で、当時の有力な神社のことです。つまり、これが印されている場所には有力な集落があったことが分かります。

 図の右上に白い筋が沢山ありますが、ここが有名な長良川扇状地帯です。扇状地は川の土砂を堆積して出来た場所で、砂や岩だらけで川が表に出ることはなく地下水となってしまいますから、水が取れません。ですから扇状地でどうやって田んぼを造るかが、古代・中世での一大関心事でした。荘園時代はほとんど扇状地との闘争です。


輪中の出現と民衆の町づくり

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中世のムラ〜古代・中世寺院(●丸+真ん中白)と真宗寺院(○+真ん中黒)(出典:田中充子「仏さまが輪中をつくり、神さまが人々を守った」『日本人はどのように国土をつくったか』学芸出版社。2005)
 
 それからさらに時代が進んで、戦国時代になると真宗寺院が登場します。「中世のムラ」の図面は、古代・中世(主に鎌倉時代まで)の寺院(●印)と真宗寺院(○印)の分布を現しています。

 当時、真宗を支持したのは最下層の人々でした。親鸞が「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言ったように、悪人も救おうとした宗教でしたから、信者には、土地もないような百姓、泥棒もしている悪人、放浪している人などが多くいました。そういう人たちを集めて戦国時代に蓮如が町づくり、村づくりをしたんです。

 その場所は誰も住みたがらない低湿地帯でした。台風になったらすぐ洪水になるようなところですが、そういう場所だと空いていたんです。ここでドーナツ状に土砂を固めて中に耕地を設ける「輪中(わじゅう)」を造りました。戦国時代、真宗門徒はたびたび信長に抵抗していますが、戦闘になったときも信徒たちは輪中に立て籠もっています。

 おそらく自分たちの土地を持たない当時の最下層の人々を、蓮如が「開拓して自分たちの土地を持とうじゃないか」と指導したのでしょう。蓮如は月のうち2回はみんなを集めて議論させ、開祖親鸞の前で輪中の作り方、管理の仕方を決めていったと思います。民衆の町づくりの一番典型的なのがこの輪中です。そして輪中が一番多いのは濃尾平野なんです。

 これも夜、神の前で議論して決めていく「夜は神が造る」のやり方じゃないでしょうか。これが日本の民衆による町づくり・国づくりの基本的な形だった、と私は考えております。そうでなかったら民衆はお互い疑心暗鬼になってしまいます。これこそが日本の町づくりの哲学になるんじゃないか、と思います。

 では今日はどうするか、と言われると、今じゃ誰も宗教なんて信じなくなっていますので、それはまた別です。ただ今まではそうだった、ということです。

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