山本:
つい先日、学位をいただきました博士論文の概要を紹介させていただきたいと思います。
先ほど鳴海先生にご紹介いただきましたが、ちょうど30年前の今日、私は京都から打ちひしがれた思いで千里ニュータウンへやってきました。と言いますのは、当時オイルショックで就職が難しく、唯一できたばかりの設計事務所に採用されて千里にやってきたのです。そのあと28年間は生活環境問題研究所におり、今は大阪大学にいますが、今日は私が初めて千里ニュータウンに来た記念すべき日だったと思い、感慨深いものがあります。
まずは私と千里ニュータウンとの関わりをお話しした方がご理解いただきやすいかと思いましたので、簡単に説明いたします。
私が最初に千里ニュータウンを知るきっかけになったのは、大学1年のときです。昭和44年、大学紛争のまっただ中で、半年間くらい授業がなくてうろうろしていたときに、友人が主催していた自主ゼミで千里ニュータウンに行こうという話がありました。しかし、私は行きませんでした。当時の私は、千里ニュータウンをあまり面白い街とは思っていなかったようです。
その後、先ほどお話ししたとおり、1976年に大学院の修士課程を終了後、就職で千里ニュータウンにやって来ました。千里ニュータウンの開発がきっかけで出来た研究所・設計事務所で、千里ニュータウンのど真ん中にありました。それで、10年くらい経った頃から必然的に千里ニュータウンの仕事に関わるようになりました。
千里ニュータウンのまちびらきから25年目にあたる1987年に「ニュータウン世界フォーラム」が開かれました。このとき、鳴海先生をはじめ内外のいろいろな研究者たちによって「ニュータウンはこれからどうあるべきか」についての議論が行われました。私は事務局の中心メンバーとして働いたのですが、とても楽しい仕事でした。ちょうどその頃、日本のニュータウンにもいろいろな課題が見え始めた頃であったと記憶しています。
このフォーラムがきっかけになり、鳴海先生と一緒にニュータウンの課題に関する調査をしました。多摩、千葉、高蔵寺、三田、神戸、広島など全国のニュータウンをいろいろ見学し、どこでも似たような課題が出てきていると感じました。このとき鳴海先生から、「ニュータウンには一般市街地とは違うマネジメントが必要だから」と言われて、それがどういう意味なのか、ずっと考え続けてきました。
それから90年代後半には千里の再生あるいは活性化が叫ばれるようになり、再び様々な調査が行われました。私はこれまで行われた調査の、おそらく7〜8割に関わっていると思います。
国土交通省の「歩いて暮らせる街づくり事業(2000年)」を通じて「ひがしまち街角広場」が2001年に生まれました。これは今では千里ニュータウンにおける住民の交流やまちづくり活動の中心的な場になっています。また、2002年には千里ニュータウンのまちびらき40周年の記念事業である「千里ニュータウンまちづくり市民フォーラム」が市民によって開催され、これを契機に「千里市民フォーラム」が2003年に結成されました。私は、これらの活動にも参加しました。また、高齢者等の住み続けと住み替えの支援活動を行う「千里・住まいの学校」というNPO的な活動を仲間と一緒に立ち上げているところです。
以上が私の千里ニュータウンとの関わりですけれども、なぜ論文を書くようになったのかということを少しお話します。私ごとですが、2000年に妻を45才で亡くしました。私はそのときに50才でした。人間、50才くらいになると自分の過去を振り返ってみることを始めるそうですけれども、私もそのとき自分が一体これまでどんな仕事をやってきたのだろうと振り返り、何か私がやってきたことの一つでもいいから、きちんとしたものにまとめたいという思いが募り、論文を書こうと思ったわけです。
最初はなかなか忙しくて書けません。そんなとき、ある先生に「大学に入ってしっかり授業料を払うことで論文を書く動機も生まれる」と言われ、2002年が明けたばかりの寒い冬の夜、JUDIセミナーが終わって皆でぞろぞろ飲みに行く路上で、鳴海先生に「実はこんな考えをもっているのですが」と相談すると、「じゃあ博士課程を受けますか」言われまして受験し、入学を許されました。
その後、研究所を一昨年の8月に退職し、その後は行くところがないこともあって毎日大学に通って研究活動に専念しました。今は博士課程を終え、3月に学位もいただきましたが、昨年から文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」というプロジェクトのための特任助手という肩書きをいただき、従事しています。
私と千里の関わり
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