デザインによってできたこと
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質疑応答

 

 

司会(鳴海)

 今年の秋は、今日のテーマをネタにフォーラムを開催いたします。その時へのご注文でもよろしいですから、ご意見・ご質問をいただきたいと思います。


メモリアルな建築とストリートな建築

久保(久保都市計画)

 長町さんが最後に出された美術館について、「何故この場所にこうあるべきなのか」について疑問点を出されました。このとき、あるセミナーで神戸大学の安田丑作先生が「メモリアルな建築」と「ストリートな建築」というような言い方をしておられたのを思い出しました。

 建築写真はその建築だけトリミングすることが多いですが、実際に我々が見るものは、「メモリアルな建築」であっても他の建物と混在している姿を見ています。「ストリートな建築」というものは比較的わかりやすとしても「メモリアルな建築」をどう考えるかについて特に議論すべきことがありそうです。長町さんの問題提起はそこにあると思ったのですが、その辺はいかがですか。

長町

 それについてはおっしゃる通りだと思います。目的の話と類似する話だと思います。

 例えば、周囲を切り離して写真を撮りたくなるようなものは、単独の存在感がありすぎるか、もしくは場所性を読み取らずぶっきらぼうにつくられた可能性があります。後者の場合、その街にはいらないものかもしれません。もし、ストリートとして写真を撮りたくなる状態を意図的に作るならば、そこには知恵や教養が必要になってきます。撮りたくなるように、整えていかなければいけませんから。

 特に私が今回投げかけたかったのは、デザインをやっている人たちに「デザイナーが期待に応えるとは何なのか」ということです。ストリートでもメモリアルでも、力を発揮するためにはどうしたらいいのか、どういう気構えでいけばいいのか、その辺が私の気になっているところです。


ワンコンセプトのまちづくりは可能か

会場より

 長町さんの話で「ひとつのコンセプトだったらまとまる」とのご指摘がございました。メモリアルなことだったらそれでいろいろできるでしょうが、街の場合はひとつのコンセプトでは全くできないのが普通です。

 特に中心市街地だと、1人の建築家が何かの形にまとめることは、私は不可能だと思います。だから、複数のコンセプトがある中で、どういったデザインが出来るのかを考えて行くべきだと思います。その時、金澤さんのお話の時代感覚や自然性を、共通の認識の中で、あるいは制約された中でデザインしていくところに私は興味を持っています。そういった所はどうなんでしょうか。

長町

 極めて私見ですが、新たにゼロから作るものと、今続いていくものをどう作るかではちょっと話が違います。新たに作るという立場から言うと、今やっと出てきているのがマスターアーキテクトというシステムです。1人のコンセプターを座長にして、何かを作り上げていく行為は都市デザインの中でいろいろされていると思います。

 つまり、合議制の結果、なんてことない詰まらないものが出来上がるのではなくて、マスターの意志のもとに実力のある人が集まってきて全体として力強い個性あるものを作るのが理想じゃないかということです。そういう意味で、ワンコンセプトとはコンセプトの問題で、1人で作るということではないです。

 過去は1人がワンコンセプトだったわけですが、今は多くの人がワンコンセプトを持つことは可能ですよね。ワークショップをやったりするのと共通の話じゃないでしょうか。

 継続的な出来事に対しては、マニフェストのような話になっていくと思います。これはフォーラム委員会でも議論になって、「ではまちのマニフェストをどう作るのか」「どう切り込むのか」という話になりました。そこはみなさんで議論できたらと思っています。


デザイナーの責任と採用システム

難波(兵庫県)

 長町さんの話の「デザイナーの責任」という言葉に衝撃を受けました。直接描く「デザイン」に携わらない我々責任を持たない立場の人間からすると、自分の意図が具現化されていくデザイナーはうらやましい気がします。

 ところで、成功したipodにしても、企業には「このデザインにしよう」と採用するシステムがあってそれが世に出てきているわけですよね。

 まちづくりの場合、採用システムが良い方向を向いていなくて悪い方向ばかり向いているから、段々まちが悪くなっていくという仮設をおくと、デザイナーがいくら責任感を持っていても、採用システムのベクトルの方向性いかんによっては結局迎合していくしかないのでしょうか。自分のデザインを貫いたら採用されず、迎合せざるをえないなら、割り切れないでしょう。

 この辺が議論できるならやって欲しいと思います。

鳴海

 それは特に誰かに答えを求めるものではない、ということですね。


街のデザインの考え方

前田(学芸)

 例えばipodは、誰かが買って自分の所有物になっていくわけですよね。プロダクトの場合、自分でいろいろコーディネートしてトータルとして「いい感じ」になる、つまりそこには主体があるんです。

 しかし、街の場合はいろんなものがそれぞれに主張する感じで並んでいて、誰かのものになるわけでもない。トータルに選択するという主体もメカニズムも今はない訳です。

 なのに、金澤先生は街のデザインも個々のプロダクトデザインと同じような視点で語られました。都市環境デザインの先生として、こんなことでいいんですか。

金澤

 私の挑発にのっていただいて、有り難うございます(笑)。

 まず、プロダクトデザインも含んで、デザインはこうあるべきという議論の仕方は間違っていて、そんな枠ははずすべきだというのが私の主張です。

 前田さんが言われた「プロダクトと街のデザインは違うのではないか」との問いには、「創造性を発揮することに違いはない。ただし街のデザインは、地区の特性に応じて創造性を発揮する程度とルールは異なるべき」が答えだと思っています。

 例えば、大阪の宗右衛門町みたいな所で、デザイン上の建築制限なんて一切ないところがあってもいいだろうという話です。しかし、金閣寺のように歴史的文化財があるところはどうするか。当然、周囲の建物のデザインや用途は厳しく規制される。それは、個人の考えではなくて、社会が合意の元に決める(事実そうしている)。街の中にデザインの縛りの濃淡があってもいいと考えています。にぎわいを考えると、デザインが全く野放し状態のアナーキーな「流行」の街があってもいいだろうし、反対にとてもきつい縛りのある「不易」の街もあれば、その中間の街もあるという風に、ひとつの規制ではなく、いくつもの段階があってもいいはずなんですよ。

 建築デザインをスポーツに喩えたら分かりやすいと思うのですが、スポーツには体の動きに関してとてもルールが厳しいスポーツもあれば、かなりゆるいものもある。相撲も日本のように土俵から出たら負けというのがあれば、土俵自体がない相撲だって世界にはあります。

 ですから、前田さんが「デザインを全て開放しろ」と受け取っておられるのであれば、私のメッセージが半分しか伝わってないなと思います。極言すれば「野放しでもいいんじゃないか」ということですが、既に一定の景観形成を持っている住宅地などは景観を保つルールを今後作っていかないといけないんです。そんなことを社会的プロセスの中で決めていく必要があると思っています。

 土俵が決まったら、デザイナーはその枠の中で目一杯その創造性を発揮して欲しい。だから、AランクからDランクぐらいまでのいろんなパターンの縛りを都市の中に作っていく必要はあります。「そもそも街のデザインはこうあるべき」と単純化して議論することの方が無理があると、僕は考えます。


無数にあるデザインの解から何を選ぶか

鳴海(大阪大学)

 最後に私の感想を加えて、今日のセミナーを終わりたいと思います。

 今の話にも関係しますが、金澤さんのお話に出た若者のファッション感覚は、昔はサブカルチャーと呼ばれたものでした。ところが今は若者だけでなく、中高年もサブカルチャーにはまっていてカルチャーの王道がない時代になっています。みんな断片化したサブカルチャーのどれかにひっかかるように産業構造が働いていて、けっこうそれに弄ばれているような面があります。

 それはそれで消費が活性化すればいいという見方もできますが、その流れが都市環境デザインに入ってくる可能性があります。そういうタイプのデザインしかトレーニングしてない人が都市環境のデザインもその手法でやってしまうと、都市はどんどんそういう環境になってしまうでしょうが、それをどう考えればいいかということも重要ではないかと思いました。

 金澤さんが話されたように、デザインに解は無数にあります。その中から何をどういう視点で選ぶか。

 これについてイギリスの例を挙げると、イギリスでは工学教育がとても低迷した時期があります。解はひとつだという大学教育を一生懸命やった結果、デザイン教育が軽視され、創造性が低下してきたという現象があったと聞きます。これは社会問題として大きな話題になり、工学教育におけるデザイン重視が叫ばれるようになりました。

 デザイン教育とは、デザインに解は無数にあるけれど、質のいい解と悪い解を見分ける能力、質の高い解を追求する能力を育むことだと思います。こうした能力を軽視すると、社会の創造力が低下すると思います。イギリスも問題意識を持ってここ20年ほどは教育のなかでデザインをいろんな場面で強調するようになったといいます。

 無数にあるデザインの解から質の高いものをどうやって育てていくかというのは難問です。デザインがただ面白ければいいというわけにはいかないと思います。このことには、みなさんも賛成していただけると思います。質の高低をどうやって見分け、質の高いものを作る人をどうやって育てていくかという課題があります。

 私たちは今大学で若い人を指導していますが、学生のコンペを見ていつも思うことがあります。つまり、図面で目立つものが当選してしまうんです。実際に街の中にできたら大変だと思うようなものばかりです。

 なぜそれを危惧するかというと、賞をもらった学生が「あ、こんなのがいいんだ。これで仕事ができるんだ」と錯覚してしまい、もしそれが都市デザインの賞なら永遠に勘違いしてしまう可能性があるからです。都市デザインの学生コンペで実際に出来るとなかなかいいだろうと思われるものは、目立たないから当選できないのです。これもどうしたものかと頭が痛くなります。

 プロダクトや建築ならまだしも、アーバンデザインで目立つものしか当選できない設計競技では、多くの学生は「より目立つこと」で技を磨くことに没頭しています。そんなことも積み重なって、現代につながっているのかもしれないと思いました。それもみなさんに考えていただきたい課題だと思っています。

 もうひとつの私のお願いは、みなさんはそこそこいいものは作られますが、それ以外の無数のどうしようもないものはどうやって消せるのかということです。その手法がないんです。いい加減で雑なデザインが世の中に出回っていて、みんなお金を払って嬉しそうにしている一方、誰もがいいと認める日本の風景がどんどん壊れていくという現実があります。そんな中で、一品だけ良いのを作っても仕方がないという気持ちにもなります。どうしようもないものを消す手法をどうしたらいいのか。これも難問ですが、よろしくご検討ください。

 今日は4人の方にプレゼンテーションをしていただきまして、秋に行うフォーラムがけっこう楽しみになりました。乞うご期待で、みなさんもいろんなご意見を寄せていただければと思います。今日はどうもありがとうございました。

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