商業地はあまり規制がない方が良いとの事でしたが、商業地でもニューヨークのタイムズスクエア等では、むしろ「おとなしくするな」「派手にしろ」という規制があります。それに中華街などでも、暗黙のルールによって雰囲気が保たれています。
際立つことを大切にすることと、好き勝手なデザインをしてよいとすることは、同じではないと思います。例えば、道頓堀に超高層の業務ビルを建てられてしまったら、商業地の賑やかさという点からみたらアウトだと思います。このあたりはどうお考えでしょうか。
金澤:
まず道頓堀の件では、マーケットの面から考えて建つことはありません。もう少し東の方であればマンションなどは建ってきますが。
日本の場合では建築の自由を認めがちです。
また建築の学会では、商業を扱ってこなかったという意見があります。学会の中で、商業地区や盛り場系のデザインは放任してきたのです。そこに都市計画として行政などが介入していくのか、または最低限の法規制の中でやっていくのかということです。私は後者の考え方を持っています。
前田:
次回のセミナーで取り上げる京都市の御池通などでは、商業地としてもっと繁栄させたいという意向があり、建物の1階には商業用途を入れる規制・誘導を行っています。こうした取り組みもしない方がよいということでしょうか。
金澤:
デザインというのは社会的に決められると申しました。それはマーケットであったり、政治的な合意形成のプロセスであったりします。御池をどのような位置づけの中で考えていくのか、地元で議論して決めていけばよいのです。
前田:
現実には道頓堀の場合と違って、残念ながらマンションが建ってしまうのです。そうした中で、政治的に規制をかけようとしているのですが。
金澤:
商業というのは無理やり頑張っても成り立たちません。計画論として行なった商業プロジェクトは、基本的に上手くいかない。
たとえば、京都で町家と同じスケールで、ポストモダンの建物が建ち、その是非の議論がなされます。
私に言わせると、その問題よりも、中高層のマンションが建ってしまうことが問題なのです。コンテクストとして考えると、2階建ての大きさを保障するという議論をするのと、5階建てや10階の建物を議論するのでは、話はまったく異なります。マンションでは、敷地の大きさや縦方向のディメンジョンも大きく変えてしまいます。
問題は、ある特定の建築家の建築を嫌う事ではありません。論点としてずれてきているのですが、マンションが建たないように、高さ制限をしてこなかったことが問題なのです
特定の建築家を名指しして、規制するような事例はありませんが。
金澤:
何を批判の対象とすべきかと考えると、規模の大きな建物が京都のコンテクストの中にどんどん入ってくる事を、規制する事が出来なかったことです。もちろん創造性を発揮することは、場所によっては良いことだと思います。
土地利用と景観の関係の話ですが、住宅地はおさまらなければならない、盛り場は破調でなければならないというお話でした。Hundertwasserのウイーンの住宅は、破調の美しさだと思います。この例のように、用途と景観の関係はうまく対応するのでしょうか。
もう一点は、住民と合意ができれば、それでいいのかということです。住民がとんでもない景観に合意してしまってもいいのでしょうか。
金澤:
土地利用はダイヤグラムのように単純化はできないというご意見は、その通りだと思います。ただ一つ言えるのは、心理学の面からみても、人間は自分の住まいの場所は、安定的にしていたいというのが普通の考え方のようです。つまり、住まいに関しては、おさまる美しさを目指すということです。
次のご質問は、近代の建築・都市計画の問題の一つで、専門家と行政と住人の中で、だれが一番大きな主体として、地域のあり方を決めていくのかということです。合意する時には、当然行政や専門家には大きな役割がありますが、私は、最終的に決定すべきは住人であると考えています。
一方、来街者についての話をしましたが、住民以外の人もその地域をどうするのかを考える権利があるのです。地域のエゴのような論理ではない中で、地域を考えてもいいのではないでしょうか。
結局、それは一番根幹的な問題で、行政の権限や専門家の責任、都合のいい言葉だけの住民参加など、最終的に誰が何を決めるのかはっきりしていなのです。それを担うのは住民ではなくユーザーであるべきで、それがこれからの都市計画でもあります。それを応援したり、間違った方向に行かないようにするのが、我々専門家であったり、行政の責任であるのです。
際立つとおさまるは両方存在ないとおもしろくないと思います。ぶどうパンのようなもので、パンがないと食べられないし、ぶどうがなくても魅力がないと思います。両方の調和が大事になってくると思いますが。
金澤:
別の例として、歌舞伎を挙げます。伝統的な手法といった大きな枠組みがあっても、人間は創造的にやれるのです。歴史的な景観地区のように強い規制があり、高さや色、屋根勾配の制限などがあったとしても、必ず創造性は発揮できます。色々な制約がある中でも、デザイナーであれば、自分の能力や創造性を発揮できなくてはなりません。百年前の町家を何回も、繰り返して作るのは良くないと思います。
ただ、京都の社寺仏閣の周辺などの限定された地域では、強い制約条件があってもよいと思います。
人間はデザインする存在だと申しましたが、人間は何らかの形で創造性を発揮すべきだと思います。限定された地区でも、決められた形を繰り返し作ればよいのではありません。常に、何らかの形でキラッとした創造性を発揮しようとする姿勢が必要なのです。
だから、単純にこういう形はだめであるとか、こういう作家は作ってはいけないというのはよくありません。
前田:
しつこいですが、こういう作家は作っていけないという、決まりや条例をもっている町はありません。
金澤:
形態を規制するものはありますが、特定の人を禁止するものはありません。逆に、この作家なら作ってもよいという考えはあるでしょう。
質疑
商業地における規制
前田(学芸出版社):
前田:
用途と景観の対応
難波(北摂コミュニティセンター):
際立つもおさまるも両方必要では?
下田:
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