ただいまの鳴海先生のお話は興味深く聞かせていただきました。また、最初の話で出ました「ホモ・デスィナンス」という言葉は大変面白いと感じました。ただ人間はデザインをする存在だとしても、デザインをする程度に差があるんじゃないかという気がしまして、そのことを考えていました。
三人の話を聞いて全体として感じたことを申し上げますと、都市デザインあるいは都市環境デザインは個々のモノのデザインをするのとは違うという次元で見ると、空間にある種の秩序を与えることなのだと思います。これは昔から言われていることでもありますが、空間に秩序を与えるというのはけっこうシンドイ話です。
と言うのも、最近よく思うことですが、私の部屋の中にはあまり空間的な秩序がない、単純に言うと散らかっているんです。ところが、外国では大学の工学部でもこれで実験がやれるのかと思うほどきれいな所が多いし、家庭に招待されても家の中がきちんと整理整頓されている。空間に秩序を与える努力という点からすると、どうも僕だけではなく日本人は相当怠け者なのではないかという気がします。テレビの中のホームドラマでも、日本の家の中と欧米の家の中は相当違うようです。
それを考えると、都市空間に秩序を与えるのは、相当エネルギーが必要だと思います。家の中の秩序すら与えられないのに、大勢の人が集まる都市空間の秩序なんて無理だろうとつい考えてしまいます。
そこまで考えて思い出したのが、最近読んだグラフィック・デザイナーの原研哉が書いた「掃除のようなデザイン」という新聞コラムです。禅寺の美しさは紅葉の美しさではなく、毎朝きちんと掃除することから生まれる空間の静謐な緊張感だという内容でした。
日本の家は今モノで溢れかえっています。個々のモノはそれぞれデザインされて美しいのでしょうが、あふれると全く美しくない。それと同じような現象が日本の都市空間でも起こっているわけで、それを秩序立てるのはものすごいエネルギーが必要です。それは個人でどうこう出来るレベルではない。社会的なレベルでどうやったらできるかが重要なポイントになりそうです。
人間はデザインする存在だと定義したとしても、デザインというより秩序付ける存在、ホモ・オーディネイツとしての側面も持っていると私は考えてしまいます。
でもこんな考え方で、「禅寺を掃除するようなデザインを」と言うと、今の芭蕉の話のように矛盾した話になってしまうんです。掃除するとは、今あるものを取り除くことですから、デザインしないものがいいということになってしまいます。デザインそのものを否定しかねない危うさの中で、原研哉さんもデザイナーとしての仕事をされているのかと思いました。
丸茂先生の、外国と日本のドラマでは扱われる空間の雰囲気が全く違うということは、私も常々感じています。スペースの作り方、環境の作り方は欧米と日本ではだいぶ違うんです。
日本にも、たっぷりと時間とお金をかけて作られた優れた空間はたくさんあるのに、ドラマにはそんな所じゃなく、「調和がないなあ」と思える場所、まさにおさまりのない場所がたくさん映るんです。人々がそこに行けば癒される、いい気持ちになる、そんな場所はドラマには出てきません。その代わり、刺激的な空間はたっぷり出てくるんですが。
今日の皆様の話を聞いて思ったのは、欧米でも日本でも、質の高い空間、クオリティのある場所とは、調和のとれた空間だと思うんです。そこで快適な生活がおくれ、精神が癒される場所です。地域性、すなわち、その場所の真髄を表わせる、それがデザインだと思います。
日本人は空間に秩序を与えるのが苦手!?
都市デザインは空間に秩序を与えることだが・・・
丸茂(関西大学):
刺激的な空間が好きな日本人
エレーナ:
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