生活復興期へむけての現状での課題
結局それぞれの集落やそれぞれの支援を見ていけば、確かに着実に動いていると思うのですが、被災地全体として総合的に把握できる、あるいは調整するような仕組みがないのではないかと感じました。
ですから公的セクター、民間セクターがどう役割分担していくかという発想もないようなんです。それが良い事なのかどうかはよくわかりませんが、うまく機能しているところもあります。しかし公的セクターの役割というものが見えにくいという感じがしました。
また、地方自治の自立性が非常に強いということで、この市、県、州をまたがるような、あるいは集落をまたがるような大規模な被害に対して、誰が総合的な計画をつくるのかという、その主体がよく見えない感じでした。
地方自治ではオートノミー(自立)が基本と皆さんおっしゃってましたけれども、ではそのオートノミーの主体というのが、州なのか郡、市や村、あるいはRT/RW(自治会・町内会)なのか、課題ごとに適切な主体があるのか、テーマによってどこが行うのが一番有効なのか、あるいはテーマに>よって有効に機能する主体が違うのかとも感じました。
あるいはあまり制度や共通のしくみをつくることを気にせず、それぞれの村単位くらいで必要な事を必要な資金を調整して組み立てながらやっていく方がいいのかとも思いました。そのためには、支援プログラムの選択肢が必要でしょう。
それから現状の支援には、地域ごと、集落ごとに結構格差があるように思います。それは仕方が無いことだと思いますが、実際どこでどうなっているかとか、どんな資金があるのか、どんな資源があるのか、どんな支援をしたいのかとか、聞いてみるとNGO側にも住民側にも結構色々な思いがあるんです。
それから、ムラピ山が噴火しそうだったので、震災時にはたまたま国際NGOが入っていたのが、そのまま移行したといった話も書かれていますし、色んな民間のファンドもありますし、国際機関のファンドとか、国内の他の自治体の支援とか、とにかく色んなものがあるのですが、集落で一生懸命復興しようとしている人達が知らないんです。たまたま出会った人と、たまたま出会った支援で動いているという感じです。提供する側も、受ける側も相互の状況の全体像が、どちらもわからない状況だと思いました。
この状況を見て初めて、あの阪神淡路大震災における「きんもくせい」の果たした役割が大きかったんだな、と思いました。
「きんもくせい」は、情報を伝えているだけなんですけれども、それが実は、とても重要なのです。何が起こっているか、何があるのか、誰が何をしているのかを皆が知ることができる、そういうツールというのは、支援の差がどうとか、公平にしようとか、そういうのを抜きにして、とにかく「何が起こっているか」ということを共有すること、人と人のネットワークをつくることが、緊急時には、断片を集めることの意義を感じました。
先ほども言いましたが、技術・情報・資源の不足というところは、やはり何らかの支援策が必要であると思います。そういう意味で、何ができるのか考えてみますと、結局はコミュニティ単位のプログラムが一番有効であるということ、しかもそれは住まいと仕事、文化といったものを一体的に再建していくような、総合的再建プログラムが一番望ましいと思います。
生活再建に向けて
当面は支援を提供できる人、主体がどこにいるかがわかる、何がどこにどこまで支援に入っていて、どこが大変な状況かというようなことを少し引いたところから見て全体像を把握するしくみも必要で、それによって自立的な調整が可能になっていくような方法が望ましいこと、そのためには情報を集約して、自立的に動いている状況の情報を上手くシェアできて、それぞれの自立的な選択ができるようなしくみがいいと思います。
「何が起こっているか」ということが共有できる方法が要るというのが、私の感想です。
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