質疑応答
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文字のデザインの件でお聞きしたいのですが、看板に書かれた文字の内容に関する印象をみたのか、それとも「和」とか「高級」といった文字のデザインの印象をみたのでしょうか。
山崎(立命館大学):
今回の実験では、看板のデザインを排除することを目的として、なるべく白地に同じ字体で書いてみました。
ヨーロッパと日本での広告・看板の在り方の違いを考えてみると、日本は本当に寛容です。道路空間への私的な滲み出しも多くあります。それに対してヨーロッパでは、これらは厳しく規制される傾向があります。日本的な価値観を前提にしていくのか、ヨーロッパ型に近い方針でいくのか決めていかなければならないのでしょうか。
山崎(立命館大学):
日本型でもそこそこ楽しい場所があります。場所によって考え方が違ってくると思います。風景が大事な場所は看板を小さくし、逆に賑わいのある場所では多少看板があってもよいと思います。
ただ派手な看板の出し方や出す場所には工夫が必要です。見える場所を限定し、町全体をパノラミックに見たときには出てこないようにすべきです。
ロンドンのピカデリーサーカスには、真っ赤な壁面全体の大きなネオンがありますが、周囲の建物の高さが揃っているので、その場所では見ることができますが、遠くからは見えません。こういったやり方で場所を限定しながら、風景を維持する方針と、賑わいを創出していく方針を使い分けていく必要があると思います。
田端(大阪芸術大学):
京都市の全域について掲出基準の枠組みづくりを考えましたが、幹線道路とまちなかの通りでは考え方が全然違ってきます。また山麓部の景勝地とか観光地とかも異なる見方が必要です。特に伝建地区では広告物の掲出は禁止されています。自家用の広告物は禁止地域でも出せるのですが、そういった自家用のものも最近は色彩や形態に関して制限を設ける必要があるのではないかという意見が出てきています。場所の持つ景観特性をきちんととらえて、綿密に考えていく必要があるわけです。そういうなかで、活力のある町を演出するといった屋外広告物の持っている役割が位置づけられる必要があります。
先ほどご紹介した屋外広告物規制区域等指定概要図にあるように、紫色は四条河原町周辺に掛かっていて、屋外広告物も最もにぎやかにできる場所です。これ以外にも詳しく述べさせてもらった道路沿道型のコントロールゾーンもあります。伝建地区など看板が原則的に禁止されている規制地区の設定もなされています。つまり面的な規制区分として5種類程度を設定することで基本的な方向づけが可能であるということも言えるわけです。
山崎(立命館大学):
京都では老舗などの文化財的な看板を保存して掲出する場合は、面積にカウントしないというルールがあります。ただし、取り外す際には届出が必要になります。
藤本(京都市立芸術大学):
窓内からの広告の規制や自販機の色の指定もしています。
山崎(立命館大学):
そういう意味では京都は先進的なのかもしれません。
文字が持っている意味を考えると、日本らしい雰囲気の場所では和風の意味を持つ文字がよく、煩雑なところではヴィヴィッドな文字情報であってもよい気がします。環境にあった文字情報であれば評価は良くなる気がします。
しかし原論的な話をすると、そもそも情報が無い方がよいのかもしれません。
情報がありすぎて煩雑に感じてしまうのか、それとも看板を小さくしても文字情報の効果があるから煩雑に見えてしまうのか、どうなのでしょうか。
山崎(立命館大学):
それらの内容は、これからの研究のテーマになってくるのかもしれません。アルファベットが入っているスマートな看板や、地域の環境に合った飲食店の看板では評価は上がります。もっと学生以外の多様な人たちに対して調査をする必要があるでしょう。
鳴海(大阪大学):
スペインでは、農村地帯へ行くと看板の文字情報が禁止されています。そのため、ワインのメーカーが自社のシンボルである大きな牛の姿を描いた看板を出しているといったことがあります。山の上に大きな絵に描いた牛のなどが並んでいるわけです。
それと、私は盛り場に行った時には看板と表構えで店の良し悪しを判断します。店の名前、字体、色などがファサードにちゃんと合っているかどうか、良い店かどうかわかります。だから看板が無いと困るのですが。
山崎(立命館大学):
その場所とは直接に関係ない広告は別ですが、自家用の看板に関しては小さくても必要だと思います。町並みや建築のデザインは多く議論されていますが、看板・広告に関する議論はあまりされていないと思います。大阪市(1999年の施行規則)のように壁面の1/3も屋外広告物で覆われてしまったら、色彩やファサードのデザインなんてどうしようもないはずです。もっと議論をする必要があると思います。
飲食店の看板デザインによる店の良し悪しの件ですが、建築デザインのいい店はかならずしも味が良い店ではないような気がします。不思議な関係ですね。
看板・広告にはそれぞれの国の文化が関係しているようで、デザインの良し悪しだけでは結論が得られないようにも思います。香港、台湾、韓国、日本などは、世界的水準からみても、とても看板が多くあります。日本でも江戸時代には広告規制があって、訳のわからないもの、華美なもの、風で飛んで怪我をするようなもの等はだめだという規制がありました。数に関するそれほど強い規制はなかったようですが、昔の絵などをみる限りでは、そんなに悪い状況ではなかったように思います。
途上国に行くと、先進国の製品の大看板が町中に溢れています。今は開放経済になったため一般途上国のようになっていますが、かつて社会主義時代には、スローガンなどが書かれたものも溢れていていました。日本の江戸時代にはそういった状況が無かったということから考えると、看板が少ない方が上等な文化だといったことが言えれば、もう少し良くなるような気もします。そういった考え方についてはどう思われますか。
山崎(立命館大学):
看板・広告が大きいところは、近代化するために自国の文化を一度否定したところではないでしょうか。ヨーロッパなどの長年続いてきた文化があるところは、それなりの節操みたいなものがあります。日本も明治維新がなかったら、今のこの状況もなかったかもしれないでしょう。自国の良い文化までも一度否定してしまったのです。
金澤(大阪産業大学):
ヨーロッパには店舗ごとのかわいらしい看板がありますし、江戸時代の日本でも酒屋さんの杉玉みたいなものがありました。これには識字率の問題があると思います。サインでお店の特徴を説明していたのが、近代以降、識字率の上昇によって文字だけで情報を伝えることが可能になってきたのではないでしょうか。さらに漢字は表意文字で情報量が多いことも影響していると思います。
また他に、私がイタリアに暮らしていた頃に感じたことですが、下宿のおばちゃんが家の中では汚い格好をしていますが、外に出るときはお化粧をしっかりして毛皮などを着ていました。外に出るということは非常にパブリックな事なのです。公共空間のメリハリが強いのです。日本は逆で、どんどん中のものが外に出ていきます。これらの理由が、看板がどんどん外に出てくる理由なのかなと感じます。商売をしたいという気持ちが道路にはみ出てきているのです。
田端(大阪芸術大学):
幹線道路や大通り沿いの広告物をみていると、壁面から突き出したものが多くあります。これは近代以降のビル型建築物の出現など建物のデザイン的変化が影響を及ぼしているのではないかと感じます。庇が深く出ている伝統的な和風の建物の場合は、軒下に看板がおさまってしまうのですが、外壁のラインからはみ出す中高層ビルの袖看板や突き出し看板は、今までの伝統的なスタイルの中に新たに入ってきたもので、まだまだ上手く使いこなせていません。
また広幅員の道をどのようにしてデザインしていくかということも、近代以降のテーマだと思います。ポール式の看板などが散在する新市街地の広幅員の道では、通り景観をどのように整えていかなければいけないのかというイメージが、きちんと整理されていないと考えられます。
藤本(京都市立芸術大学):
日本の特殊性として、アルファベット、カタカナ、ひらがな、数字などの多くを組み合わせなければならないことが挙げられます。これらに写真やイラストなども組み合わせて、かつ美しく見せるためには、かなりの技術が要求されます。
景観条例や景観法を使いこなしていく中で、地域のイメージにあった建築デザインや規制の方法をあちこちで試していただいたうえで、看板が少ないから文化度を高く感じるのか、それとも多いけれどもデザインがよいから文化度を高く感じるのか、これから見ていきたいと思います。
建築デザインと違って、看板・広告をデザインする人の中にはほとんど教育を受けていない人も多いのではないでしょうか。何かデザイン資格を設けようという動きはないのでしょうか。
藤本(京都市立芸術大学):
屋外広告物士という資格(任意資格)がありますが、規則を守っているか見るだけで、デザインの質まではチェックしません。景観法の影響で、もう少し教育に力を入れていこうという動きもあります。
コンピューターのフォントが、そのまま大きくなって街中に氾濫しているのを見ると非常に気持ち悪く感じます。昔ながらの職人が作るものがよいのですが、最近では石に字を彫る時にも、コンピューターのフォントがそのまま使われてしまいます。若い人にはこういった違和感が無くなってきているのかもしれません。
藤本(京都市立芸術大学):
その通りだと思います。昔の職人のデザインは、大きさや字の並び方によって間隔を調整したり文字を細めるといった微調整をしています。大手のメーカーのロゴが美しく感じるのは、職人同様にほんとうにデリケートな調整をしているからです。それと比べて街に溢れているものは、コンピューターのフォントがそのまま大きくなっただけのものが多く見られます。
藤本先生がおっしゃっていた三つの問題点というのは、結局一つなのではないかと思います。ゆるやかな規制の結果として大型化や多様化といった問題が起こっているのです。限定された中であれば、デザインの質も高めざるを得ないでしょう。また、広告の特殊性として「見えてしまう」ということがあります。音と同じようなもので、騒音が大きい中では大きい声で言わなければ伝わらないのです。
こうした事から、広告効果の不明瞭性という問題が生まれてくるのだと思います。伝統的な日本の文化の中では、ある種の抑制が効いていたはずなのに、なぜ今のような状況になってしまったのでしょうか。一つの原因としては、壁面の賃貸料が床よりも何倍も高く、経済性が優先されて規制ができないという問題があると思います。
鳴海(大阪大学):
屋外広告士とは別に、屋外広告師、壁師と呼ばれる職業もあります。儲かりそうな壁面を探すプロで、安く借りて高く貸しているそうです。一度調査してみてもよいかもしれません。
1階より上には広告を掲出しないフランスの例のように、遠景に効く部分と近景に効く部分があるのだと思います。
昔、伝統的な町と新興住宅地の色彩調査を行ったことがありますが、伝統的な町では屋根景観がそろっていて、遠景に効いています。壁面に関しては、ベンガラを塗ったり黒く塗ったり色々なものがありますが、近景にしか効いてきません。
一方で新興住宅地では、壁面はベージュなどの落ち着いた色で処理しているのが多いけれども、屋根はばらばらです。この違いと、下層部のみに広告を掲出することは、とても関連しているような気がします。
文字のデザインの影響
大矢(都市環境研究所):
ヨーロッパと日本での広告・看板のあり方の違い
金澤(大阪産業大学):
文字が持つ情報
堀口(アルパック):
文化による看板・広告の違い
鳴海(大阪大学):
屋外広告の資格は?
山崎(立命館大学):
コンピューターのフォントの氾濫
鳴海(大阪大学):
ゆるやかな規制の弊害
丸茂(関西大学):
遠景に効く町と近景に効く町の看板・広告
丸茂(関西大学):
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