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石器時代から現在に至るまで、ずっと家が積み重なっている土地です。作法があるから、こうした景色ができてきたのではないかという議論がなされました。
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江川さんは、「間合い」をデザインする視点について話されました。バルコニーが離れていることで、そこから重り合う風景が生まれているのです。バルコニーがあることで会話が生まれています。 赤い服の人が生き生きと見えるのは、人や植栽をひきたてる地味な建築の色彩によるもので、建物が主役ではないことを色彩を通して考えられるという杉山さんの意見もありました。
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藤脇さんは、千里ニュータウンの中に白い家を建てて住んでおられます。これは異質なのか、そうではなくて時代を超えた連続性を獲得するものなのか。表面的なデザインではなくて、深いところで繋がっていく新しさという議論にもなりました。根本的なところで繋がっていれば、表面的にもつながったものになるのです。
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デザインは付加価値なのか、それとも価値なのかという議論にもなりました。バブル期以前の舗装材は全国同じでおもしろくなかったが、その後の地域の個性を生かすという名目でひどいデザインが行われてきた例もあります。 街のデザインには「人間の個性というものではない美しいデザイン」があり、街は自己組織化の美しさを持っており、個人の個性と重ねて語ることには違和感あり、という印象深い意見もありました。
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大衆にわかりやすい具象的なデザインをすることに罪があるのかという議論も出ました。 藤枝―藤色―藤の花という安易なデザインが出るのだけれども、案外おじいちゃんおばあちゃんに対しては好意的に感じられている。江川さんほか数名からは、力のあるデザインならば具象的なものでもおのずと良いものになり、要は「デザインに力があるかどうかが問題なのではないか」という意見も出ました。そして、どうしたら力のあるデザインが生まれるのかという議論にもなりました。
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村岡の事例ですが、楽しんでやったデザインの重要性も話題になりました。そしてここから、みんなの気持ちが働いたのは何故なのかという議論にもなりました。
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何を思ってデザインをすればよいのかという話になりました。 場所性・風土からデザインしていくことは、ここにおられる皆様は当たり前のようにされていることなので議論をしてもしょうがないとおっしゃって、それ以上にどういった気持ちでデザイナーが取り組むかという熱いお話がありました。 「作る人間のメッセージをどこまでそこに持ち込めるか」「できていくもののために戦うこと」「デザイナーはデザイナーとしてのしっかりした規範を持った中に創造性というものをきっちり持ち続けることが最初じゃないか」などです。
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三田のアルカディアの例です。「デザインは意図を視覚化することであり、感じられないものを感じられる空気の場を作ることである」というお話でした。植栽が道に陰を作ることや、タイルの目地を粗くしてコケがはえていく事例は、設計図面に表れてくるものではない、でも大切なデザイン。イメージを意思として持つことが大事だということなのです。
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これらの話の結論として次のことがでました。形のないものを見えるようにする。感じにくいものを感じられるようにする。起きていなかった行為が起きるようにする。ということです。
デザインをする人が、近い将来起きるであろうことを信じないことが問題なのです。つまり、デザインの力を信じることによって、いいデザインが出来るということが結論です。