都市にミュージアムは不要か?
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

2。運営受託までの経緯

 

画像ka08
 

財政難のなか売却も検討される

 そもそもこの美術博物館は、市政50周年を記念して90年に創られました。95年に大震災があり、その震災復興のための借金をどんどん返していかないといけないという中で、2003年10月に行財政計画が発表されて、そのときに先ほど申し上げた文化振興財団を解散しました。それから文化振興財団の施設は民間に委託することになりました。

 美術博物館の場合も、民間委託先を探して、それが見つからない場合は売却も辞さないという話がありました。いくらなんでもそれはないやろ、ということでとりあえず当分は休館するというような話が起こりました。2003年10月のこの発表を、我々も聞きつけたわけです。

 我々だけではなくて、市民の中からも色んな反応がありました。その中の一つとして芦屋市立美術博物館を守る会が出てきました。

 守る会が発足してから、ここが署名運動を行いました。13,000人ほどの署名が集まりましたが、このうち市民は3,000人くらいで、残りは海外を含む全国から色んな方々の署名が集まったものです。WEBでの署名もありました。これは「Save the Ashiya City Museum of Art and History」というウェブサイトを立ち上げて集めたものです。

 私自身は、親しくしてた学芸員から「潰れるかもしれないけれどなんとかするのを手伝ってくれませんか」という話があって、活動を始めました。そのときに映画監督の大森一樹さんも活動に入られました。これが芦屋の面白い所なのですが、その学芸員と大森さんとが同級生だったんですね。その後、我々が立ち上げたNPOの主体になった人達も同級生だったりします。だから、そういう小さな頃からの芦屋のコミュニティから動きが始まったということに特徴があったかと思います。

 で、それで大森さんと我々とで、「芦屋にとってミュージアムは必要かどうかちゃんと考えましょうよ」という活動を始めました。

 ワークショップを立ち上げて、単に突然発表して民間委託とか休館・売却とか言った話をするのではなしに、存続をするのかどうか、あるいは残すとしたらどういう方法が考えられるかという事について、もう少ししっかり考えませんかという提案しました。我々は現状のまま残せと言ったわけではありませんでした。

 色々議論してやっぱりいらないのであれば止めた方がいいと思っていました。ただし、別のグループはやはり存続運動という形で動いていました。ですから、必ずしも市民活動の足並みが一致していたわけではありません。色んな市民グループが立ち上がって、2004年度の夏から秋にかけて、それぞれが活動を活発化させていきました。

 そして2005年の2月頃には、美術史学会と美術評論家連盟によって、市に対し「はっきり存続すべきである」という意見書が提出されました。このような動きを受けて、存続させたい、運営を何とか続けたいというようなお話が出てきたのが2004年度末でした。


芦屋ミュージアムマネージメントが運営受託

 このように色々な市民活動があったわけですけれども、その中でとりあえず支援するためのNPO法人を立ち上げようということになりました。

 2005年6月の段階では、当然市の方は並行して民間の運営委託先を探しておられたと思いますが、なかなか美術館の運営に手を挙げる所はなかったわけです。そこで9月の市議会で市が存続させるということを決めたのと同時期に、我々が正式にNPO法人芦屋ミュージアムマネージメント(AMM)を設立しました。そして、2006年4月にここが運営を受託することになったわけです。

 しかし2005年9月〜2006年4月までの半年間は、実は意見調整やなんやかんやで、すったもんだした時期なんです。その過程では、まだAMMがどのような形で運営を受託するのかは何も決まっていませんでした。我々も運営受託させて欲しいとは言いませんでした。

 半年間何で一番もめたかと言いますと、職員の処遇についてです。あまり詳しい話は出来ないのですが、財団に雇用されていた職員をどのように引き継ぐかということで大もめにもめていました。

 またその過程で、市の方は指定管理者ではなく、市が直営の形を続けた上で、運営業務をNPO法人に委託するという選択をしたわけです。

 指定管理者ではないというのはどういう意味かというと、要するに受託する側に権限はないということです。つまりビルの清掃と同じようなレベルで、NPOが運営を受けているわけです。

 それから予算の問題については後で触れますが、厳しい状況です。言い訳ではないですが、とにかくものすごく厳しい事になりました。また最初の半年間は雇用の問題、それから市とAMMとの役割分担つまり業務委託内容とその進め方の問題の調整ばかりで、2006年からどんな展示をするのかについては何も語られませんでした。普通ミュージアムといえば、前年度あるいは前々年度に色々企画をして根回ししていくわけですが、そういった作業がほとんどありませんでした。

 学芸員はもちろん「あんなことしたい」「こんな事したい」という意志や希望は持って活動していたわけですけれども、それがとにかく少なくとも2005年度の終わりまでは何一つ公式には決まらなかったということでした。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ