だんじり祭りを歩く
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岸和田祭りに育まれて

京都建築事務所常務取締役室長/京都の近代建築を考える会代表 宮本和則

 

 昭和32年(1957年)9月14日早朝、市役所の6時のオルゴールを聞きながら、生後9ヶ月余りの私を抱いた23歳のお袋は、家の近所の紀州街道の通称S字カーブに曳き出しを見に駆けつけたという。すでに近所の人だかりで前に出ることができず、見物の人々の後ろに立ったお袋の胸に抱かれた私は、だんじりが近づくやいなや振り向きざまに前の大人の頭を小さな右手で押しやったという。母と祖母から祭りのたびに聞かされた私の武勇伝である。

 岸和田に生まれ育った祖母や母の血を引いた私はこうして祭りにデビューしたという。私の曳き初(ぞ)めは地元の倣い通り、3歳の9月14日の夜7時。魚屋町(うおやまち)の家(うち)の裏で提灯に火を入れ、ゆっくりと駅に向かって動き出した堺町のだんじりの綱先である。淡路出身の父親に手を引かれながら、一心に綱を握り絞めた私は、一人前に「えんやー!こうりゃー!」のかけ声を甲高く張り上げて、自慢げにだんじりを曳いていたことだろう。同じころ祖母や母、叔母達は夕飯の片付けを急ぎながら、だんじりを見物がてら夜店を冷やかしに出かける支度を焦っていたに違いない。

 元禄16年(1703年)以来300年余りの永きに渡り、漁師町や商人町(あきんどまち)の男達によって引き継がれてきた岸和田の祭りは、実はそれを裏で支える女達によって守られてきたものでもある。今でこそ流行(はやり)のアフロに結い上げ、捩り鉢巻きをきりりと絞めた大勢のギャル達が、黄色い声を張り上げながら昼間から綱の中程を大いばりで曳いているが、私が中学・高校のころまでは同級生の女の子で昼間にだんじりを曳いているのは、よほどのお転婆か男勝りでしかあり得ず、町内に数人の女性の曳き手が居れば多い方であった。今でも原則としてだんじりに女性は乗せないが、これは年に一度の晴れ舞台に血の気に逸って醜る男どもの危険から、穢れを理由に家(うち)の大事な女どもを守るための男の照れ隠しの言い訳なのだ。

 紀州、淡路に近く、南方系の習俗を色濃く残した港町の岸和田では、板子一枚の家業に命を張る男達の後顧の憂いを家で支える女達や、他家の男や番頭を養子に取って家業の商いを継ぐ女達の伝統が息づき、かつては西日本各地にあったという若衆宿の制度も、少年団、青年団、組、若頭の制となって残されて来たのかもしれない。

 紀州街道やお城の周りに残る江戸の風情と共に、もしかしたら古来安曇族にまで遡ることができる南方の習俗を底流に持って、庶民の暮らしのしきたりに支えられて来た祭りの成り立ちを皆さんに垣間見ていただければ、岸和田に生まれ育ち、今は心ならずも他国に住まう私としては望外の喜びである。

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