まともに見ようよ 川と地域と私たちの生活
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

高瀬川を歩く

 

画像mi002
 
 私は1952年に高瀬川のすぐ近くで生まれました。昨年国土交通省を辞職し、現在は高瀬川のほとりの樽徳商店の奉公人をいたしております。

画像mi003
 
 これは木屋町の二条で、高瀬川です。この高瀬川がどこから流れているかを、説明いたします。

画像mi004
 
 これが今出川通りの賀茂大橋です。賀茂大橋から少し下がった所に堰があり、そこに取り入れ口があります。ここから鴨川の河川敷の下をトンネルで流れていきます。

画像mi005
 
 河川敷の中をトンネルで流れてきた水が、丸太町の少し下で、顔を出します。

画像mi006
 
 ここから下流は分岐して、1つは禊川に、もう1つは高瀬川の方に流れていきます。ここに今、がんこ寿司の二条店があり、その庭の中を流れていっているわけです。元々は角倉家の家で、その後山県有朋の別邸になり、それが現在はがんこ寿司になっているということです。

 冬場になると鴨川の水が大変少なくなります。禊川に流れるのと高瀬川に流れるのとを、ここで操作するのですが、高瀬川にほとんど水が流れないんです。昨日雨が降りましたので、今日は若干ありますが、一昨日まで高瀬川にはほとんど水がありませんでした。

 これには困っております。どういう操作をしているのか、京都府に聞いても、京都市に聞いてもよくわからないとのことでした。ですからここで、ずっと待っておりましたら、老人福祉協議会のボランティアの人が軽トラックで来られて、操作されているんです。

画像mi007
 
 高瀬川をずっと下っていきますと、正面通という通りがあります。上の写真は正面橋です。この正面というのは、秀吉が奈良の大仏よりも大きな大仏を東山に造ったのですが、その時の真正面の通りが、この通りであったため付いた名称です。

 現在、大仏はなくなっていますが、方広寺の「国家安康の鐘」が残っております。この鐘は、「家康」という字を分けたといちゃもんをつけられ、大阪冬の陣のきっかけになったという鐘です。樽徳商店はこの正面橋を2〜30メートルほど南に下がった所にあります。

画像mi008
 
 桜の時は本当にきれいです。嵐山など京都には桜の名所がたくさんありますが、私の家の前の通りは無名ではありますが、なかなか良い観光スポットです。

画像mi009
 
 高瀬川には鷺や鴨も時々来ます。

画像mi010
 
 今日は朝から子どもたちが川の中に入って水生生物を調べていました。

画像mi011
(出典:石田孝喜『京都高瀬川』思文閣出版)
 
 これが大正の初めくらいの七条通です。高瀬川には高瀬舟が並んでいます。炭や米を積んで、高瀬舟がにぎにぎしく行きかう写真です。右端の家は、いまだにこの格好のままあります。

画像mi013
(出典:石田孝喜『京都高瀬川』思文閣出版)
 
 ちょっと写りが悪いのですが、市電が走っています。木屋町の二条から五条まで明治28年に市電が敷かれました。大正9年に河原町通を拡幅し、そのときに河原町通に市電をもっていきました。それまでは木屋町通に市電が走っていました。

 大正9年に時を同じくして高瀬舟がなくなりました。ですから大正9年までは舟が行きかい、市電が走るという、まさに京都市内の大動脈がこの木屋町高瀬川筋であったということです。

画像mi014
 
 私の家は吉野杉を高瀬舟で運んできて、樽を作って、京都市内の酒屋さんや伏見の酒屋さんに売っておりました。

画像mi015
 
 現在、杉の丸太から(これは桶ですけれども)側面の板を割り出しています。そんなところから樽作り桶作りの修行をやっております。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ