今日は、「都市デザインと都市の魅力アップ」というテーマでお話しさせていただきます。私はこの3月で大阪大学を退職し、3月4日に大学で最終講義を行いました。今日はそれとほぼ同じ内容です。
話の前半は、「都市デザインの探求」という大それたものになっています。私はこれまでいろんなことをやってきました。昔は、「あいつは何をやっているのかわからない」とも言われました。一般的に、学会などでは一つのテーマに集中して取り組むのが評価されますが、私はあまりそういうやり方をやってこず、その時代時代で関心があることをやってきました。その結果ですが、この10年くらいは特にいろんなことをやりました。
今日は、そのプロセスをお話しすることで、どういう思考の過程を辿ってきたのかを知っていただきたいと思います。 都市デザインの探求
●はじめに
ご紹介いただきました鳴海でございます。
|
アジア都市を訪問した経験が私に影響を与えたかのかを説明するために作った図です。赤い丸が1980年から2001年までに行ったところで、青い丸が2001年以降に行ったところです。 青い箇所は、中国やベトナムなど経済開放後の社会主義国の都市が多くなっています。社会主義国が経済開放すると、土地の利用が非常に混乱した状態になります。社会主義国では計画の策定やその実施は党が決定するという仕組みがあります。そのために、そもそも土地利用をコントロールするという概念がありません。従って、一旦自由化をすると、大変なことになってしまっています。ベトナムでも日本の支援で都市のマスタープランづくりなどが行われています。
|
この図で赤い丸がついているのは、私の研究室に来た留学生がいる都市です。大半は博士号をとって帰国しているので、大学の先生になるなど、社会的に指導力を発揮する人なども多く、いっしょに調査を行う機会もありました。 JUDIで何回か海外セミナーを行ってきましたが、ハノイやインドネシアなどではそうした留学経験者のお世話になりました。
|
|
1979年に阪大に赴任して、都市設計学を担当することになりました。都市設計学を担当するにあたり、当時進んでいたアメリカのアーバンデザインや、その他のいろいろなことを勉強し、何を教えたらいいのか考えていました。そして、とにかく本をつくろうと思い、赴任して2年目に本をつくりました。その際、私の恩師である上田篤先生に本の序文を書いていただきました。 「都市ではまず第一に、個人の巣よりもパブリックスペースという空間を確保することを考える。第二にその空間をデラックスにすることである。第三は空間の変化を考える。つまり、ヒダのある空間にすることである。これからはアレンジメント・デザインが必要になってくる」というものです」。 それ以降、私が環境デザインや都市デザインを考えていくことが、この時に決まってしまったのかもしれません。
|
この本を作る前には、上田先生たちとヨーロッパに行き、初めてヨーロッパの都市空間を経験し、『フィールドノート 都市の生活空間』という上田先生たちが書かれた本にも参加させていただきました。 上田先生との共編の『都市の開発と保存』という本では、ヨーロッパの歴史的な都市が、開発と保存のせめぎあいの中で、どのような都市を作ってきたのかということをまとめました。それから1978年に、私の博士論文である『都市における自由空間の研究』があります。これらの3つの本をまとめる過程で勉強したことが、『都市デザイン』に反映しています。
|
出典:中島直人『都市デザイン萌芽期の研究』 |
その図では、日本の都市デザインの萌芽期に、丹下健三さん、西山夘三さんの名前が見られ、そのお弟子さんたちが続いています。東大の都市工が出来、その人脈が集積しています。
その図の一番下の部分を拡大したのが、この図です。
都市デザイン研究会や上田さんと私、その他、江川さんやコープランなどが書かれていますが、関西の情報が少ないように感じます。それでも、全国的に活動が広がってきていると言えると思います。
丹下さんなどを初めとする都市デザインは、都市全体をつくっていこうという、アメリカやヨーロッパで生まれてきた、オーソドックスな都市設計論です。しかし、絵はいくらでも書けますが、実際につくる事ができません。そのため、具体化するためのいろいろな方法論が広まっていきました。その中で、私たちは、さきほど述べたようにパブリックスペースを考えるのだと決めて、進めてきました。
そういう都市デザインに関する研究の展開としては、景観からの視点、まちづくりの視点、空間の固有性に関する視点があります。景観からの視点に関しては、『景観からのまちづくり』があります。空間の固有性という視点は、私の書いた本のほとんどで考えています。 当時の主流的なアーバンデザインとの違いを主張するために、当時、人類学的アーバンデザインというものを考えていました。それは、もう一度じっくり考えてみないといけないのかもしれませんが、こうした観点は今でも重要だと考えています。
|
1975年ごろから、文化行政が行われるようになり、神奈川県や兵庫県が熱心に進めていました。 1981年には建設省が「うるおいのあるまちづくり」という通達を出し、世の中全体に、自然環境、歴史的環境、歩行者空間、都市景観への関心が強くなりました。そうした中で、先に出版した『都市デザイン』をベースにしながら、新しく『都市デザインの手法』という本を1990年につくり、1998年に改訂版を作りました。 1991年には都市環境デザイン会議も設立しました。1990年代の初めは、都市環境デザインの考え方が急速に社会化していく時代でした。
|
都市デザインの普及と新たな課題を追求しなければならないということで、都市環境デザイン会議の関西のグループでは『都市環境デザイン 13人が語る理論と実践』という本を作り、若い人に都市環境デザインの仕事を知っていただきたいという思いから『都市環境デザインの仕事』という本も作りました。 また新たな課題の追求ということで、ずっと続けてきたインドネシアの調査研究をまとめて、『神々と生きる村 王宮の都市』という本を作りました。これは「いい本だ」と誉めていただくことが時々ありますが、あまり売れずに絶版になってしまいました。
|
そういう一連の過程の中で、阪神・淡路大震災が発生しました。そして『震災復興まちづくりへの提言』を有志で書きました。復興計画や現場の調査で大変だったのですが、有志が集まり、芦屋を対象に提言したものです。これには随分考えさせられました。これがすぐ採用され、復興計画に活きることはありませんでしたが、大変な時に考えてみるというのは、いろいろなインパクトを与えてくれます。 1998年には都市大阪創生研究会が発足し、『行ってみたい大阪』という報告書を作りました。 そして2002年には、「新・都市の時代」という国際シンポジウムのコーディネーターを行いました。 こうした3つのものが連動して動いている中で、持続と再生のまちづくりを考えていくには、何をしないといけないだろうと考え、都市の魅力や行ってみたい都市とは何なのだろうかと考えるようになりました。
|
人は日々の暮らしを活き活きと生きていなければならないし、商売や産業が活き活きとしていなければならない。そのために、まちの環境に改善しなければならない点があるとしたら、それを改善する。まちづくりはそういった状況を作り出すことにある、というふうに、だんだん考えるようになってきたのです。
しかし、こういう要因を幾ら抽象的に分析しても、じゃあ、まちづくりでどうしたらいいかって言うと、方法がない。もっと感覚的・実感的なレベルで捉えて表現しないとまちづくりの目標とするのは難しいのではないか。わかりやすいアクション・プランをもつ必要があって、もっと我々自身が考えて提案しなければならないと考えるようになりました。
これは1924年にクルティスというドイツの文学者がヴェネツィアについて書いているものです。当時、ドイツ、フランス、イギリス等の人たちは、イタリアを目指し、イタリアを経験しないと世界を知らないという雰囲気がありました。そういう人たちはイタリア詣でをして彼らの知性と感性を磨いてきたわけなのです。行ってみたい都市とはこれくらいの重みがあるのだと感じました。
この文章のなかの、バイロンはイギリスの、プラーテンはドイツの、ミュッセとゴーティエはフランスの詩人、フォイエルバッハはドイツの哲学者、リヒァルト・ワーグナーはドイツの作曲家、バレスはフランスの小説家でもあり政治家でもありました。
だいたい同じくらいの時期に活躍して、みんなヴェネツィアに行っているのです。彼らが出くわしたかどうかは分かりませんが、クルティスという人はそういうふうに想像を巡らせたのです。
世界中で観光で支出されるお金の総額は軍事費の総額を上回ると今でも言われています。ところが、どこかで戦争やテロが起きるとそれが減るのです。観光はそういう脆さをもっているのですが、経済的発展をもたらすという事実を見直さないといけません。戦争をしていて観光ができないという大変な状況の地域もありますが。
それはさておいて、かつてパリに生まれたおいて、パノラマ館やパサージュとか、博覧会施設などがつくられました。人を集める手がかりを、いろんな都市がこれまでの歴史の中でつくってきたわけです。
そういった新しい集客施設の発明と建設は、都市の魅力の形成に大きなインパクトをもたらしましたが、それには巨額の建設経費と経営経費が必要です。マネジメントがうまくないと幾ら箱をつくってもダメだというのは、大阪をはじめいろんな都市が証明しているところであります。
たとえば世界遺産指定がとりわけ途上国でとても熱心に行われているのは観光のためです。
21世紀はツーリズムの時代ということで、世界遺産指定が経済発展のチャンスになっているので、アジアの諸国はみんなとても熱心です。問題なのは指定されてすぐ観光開発が始まることです。開発が進みすぎて、指定の取り消しが検討されている地域もあるようです。
●行ってみたい都市とは?
なぜ行ってみたい都市を問うのか
まちづくりの定義は様々ですが、一言で言えば、まちづくりとは、「まちが活き活きと生き続けるようにすること」であると考えています。都市が人びとを引きつける力
都市は人びとを引きつけるという考えは、人口動態論といった古い学問にもあります。人を引きつける要因がPull要因で、反対の力はPush要因などと言われます。都市ツーリズムの重要性
「ヴェネツィアは、その伝説の約束するところを余さず守っている。〜〜〜カフェや楽団の散らばる光り輝くサン・マルコ広場に、思いがけなくも再び行き着いたら、それはまるで夢からの覚醒のようなものだ。〜〜〜鳩に餌を撒いているところを写真に撮ってもらっている花嫁花婿や人垣越しに見渡すと、これらの大理石の敷石の上を歩んでいった著名な影たちのことが浮かんで来る――バイロンとプラーテン、ミュッセとゴーティエ、フォイエルバッハ、リヒァルト・ワーグナー、バレス。かれらはみな、ここに、彼らの魂のいくばくかを置き去りにしなかったか?」。
なかなかいい文章ですね。新アテネ憲章に見る都市ツーリズムの重視
99年のセミナーで私が紹介しましたが、1998年に新アテネ憲章というのが出されています。それまでのヨーロッパのまちづくりの方向を新しい方向に向ける一種のアジェンダをつくったわけです。その中に都市ツーリズム、アーバンツーリズムというのがとても重要だと書いてあります。Quality of lifeが上がっていくとアーバンツーリズムが盛んになる、ということを強く訴えた都市づくりのアジェンダでありました。
ツーリズムは、人々が所得の向上や余暇時間の増大に伴って求める新しい生活行動である。
生活の質(quality of life)の向上の一側面がそこにあると同時に、ツーリズムは経済的な効果ももたらす。
新アテネ憲章は、ツーリズムにとってより魅力的な環境形成のために、既にある豊富な歴史的遺産を活かすとともに、都市の資質をより高めていくことの必要性を謳っております。「観光は平和の産業だ」
昔、民族学博物館におられた石森秀三さんが、観光は平和の産業だとおっしゃっていました。ビジターズ・インダストリー
1980年代の後半ぐらいからビジターズ・インダストリーとアメリカで言われ始めましたが、日本語では集客産業と翻訳されました。集客というとvisitorとは大分違います。visitorは来てくれるという意味だけど、集客は引っ張ってくるという意味です。日本的集客産業とビジターズ・インダストリーでは大分力の入れ方のバランスが違うかと思いました。ツーリズムの新たな傾向:グローバリズムの光と陰
ツーリズムの最近の新しい傾向はグローバリズムの光と陰というべきかと思っています。
一方、これは1988年の三峡(サンキョウ)という街ですが、なかなかいい町並みが20年前は残っていて、たしか政府は町並み保存を指定していました。それが新聞等に報道されて住民がみんな反対したのです。なぜならこの近くにニュータウンができるからです。ニュータウンができたら若い世帯がたくさん入ってくるのだから、こういう古臭い商店街ではニーズに合わない。取り壊してもっとモダンな商店街にしないといけない、そういう論調で反対がとても盛んに行われました。
|
これがほとんど壊れている状態にありましたが、昨年行きますと、右の写真のように歴史的な町並みの改修が始まっているのです。結局、この街は無駄なプロセスを経験しました。
どうしてこんなふうになってきたかと言うと、台湾も経済水準が上がってくると旅に出たい、「いい日旅立ち」が日本でも流行ったのと同じで、日本だと昔の城下町のような古いまちをみんないいなと思うようになってきたのです。そのため歴史的な町、台湾では老人の街と書いて老街(ロウガイ)と呼んでいますけれど、そういう街が今とても人気が高くなっています。ちょっとでも残っていると観光が盛んになっています。
ですから、三峡の街も折角ある物を取り戻さないとだめだということで、修復を始めたのだと思います。このように古いものに魅力があるということは、社会の価値観の変化とともにどんどん広まるのですが、昔はなかなか気が付けませんでした。
一方で、ソウルの清渓川(チョンゲチョン)は、都市の魅力アップの一つの新しい方法だと思います。もともと川があったわけですが、こういうことも新しい都市の魅力アップだと思います。
|
そして、それらが互に混じり合い、せめぎあっている状況が面白いと思います。私は世界のいろんな街を見ていますが、一色に染まった都市は全然面白くないですね。このような都市、あるいは都市の部分は、そこにしかないという性質、つまり、場所性があります。私は面白さは場所性から生まれているのだと考えるようになりました。
出典:オルデンブルグ |
日本だと赤提灯とか、昔あった銭湯とかですね。女性ですと美容院とかでしょうか。そういうのがいい空間になるのではないか、そういうお店が多い街がいい街だというのが彼の主張ですが、アメリカでもこれが崩れているのです。
オルデンブルグさんにいわせると、アメリカではこういう所で楽しめないサラリーマンが増えているそうです。真面目なのかビジネスライクなのか、なぜかこういう所でお茶飲んでいても、楽しそうではないというのです。どうしてなのだろうか議論したのですが、みんな引っ込み思案で、恥ずかしいらしいと言っていました。彼等は、人と喋りもせず、忙しそうで、黙って一人だけでお茶を飲んでいて、楽しくない。自分だけの時間を過ごすことが出来る店が増えているということもありますが、アメリカでもGood Placeがなくなってきていることが分かりました。
「歴史的遺産はヨーロッパ都市の文化と個性を決定づける主な要素」である。 「都市空間の質」が人々を引き付ける磁力になる。 「都市空間の質」は「広場や街路といった公共空間の質」によって決定される。
新アテネ憲章。
|
これはパブリックスペースのことなのです。はじめの方にお話したように私はパブリックスペースをテーマにしようと決めていました。アーバンデザインでは建物も大事だけれども、パブリックスペースが大事だと思っていました。同じ着想かと思います。
そこで日本の都市の「文化と個性を決定づける主な要素」は、どこにあるのだろうかということを、もっと考えないといけないと思いました。
街路は、全く異なる二つの要素を同時にもたらしました。それは地域を通り抜ける通過ルートの要素と、交流という地域コミュニティの場としての要素です。これが同時に存在しうるのが街路の高度なマジックなのだといいます。これは、なかなかいいコンセプトだと思うのですが、車ではこれができないのです。車は融合しあわない。そういうことはみんな何となく思っているのですが、なかなか発言しないのです。楽しくしようという戦略が生まれてこないのです。「自動車交通をうまくさばく」、これで終わってしまいます。
「自由空間」とは、多くの人びとが通行や遊びに利用する、道路や広場などの空間のことです。人びとが自由に利用できる空間という意味で自由空間と呼んでいます。
「ミチ的な空間」における活動が豊かでなければ、都市は都市たる意味を失ってしまいます。というのは、都市における「ミチ的な空間」は、単なる交通のみの場ではなく、そこは、自然と出会い、人と出会い、さまざまな仕事や情報と出会う場であるからです。
日本にもいいところがあります。「界隈」は日本的な空間で面白いし、魅力的です。「歩きやすく、活気のある街路」は、失われつつあるとはいえ、まだ日本の都市には残っています。人々はそこに生まれる賑わいを愛しています。
これはオルデンブルグさんの言っている「Good Place」とも共通している視点だと思います。
我々がつくった『景観からのまちづくり』の中でも、「見る景観」と「生きる景観」という考え方を書いたのですが、ベルクさんはちゃんと読んでいました。「生きる景観」というのはなかなかいい視点だとかありました。本人が読んだのか、調査を手伝った人が読んだのか分かりませんが、そのように引用してありました。
●改めて日本の都市の魅力を考える
そこで、自由空間という視点から、改めて日本の都市の魅力を考えてみたいと思います。界隈
ヨーロッパの中世都市やバロック都市のような形態は持っていませんが、日本都市もまた、その歴史によって文化と個性を決定づけられています。日本的環境と人間の関係
日本的環境と人間の関係については、オギュスタン・ベルクさんの『都市の日本』という本の中で論じられていて、なかなか鋭いです。
日本人は、環境の実体よりも、「環境と人間の関係、あるいは環境によって引き出された人間と人間の関係、さらにはそれによって生み出される事柄」に関心があるのではないか。
今はお花見の季節ですが、桜を鑑賞することがいいのではなく、桜によってみんなで酒を飲むことの方が、日本人は好きなんじゃないかということを言っているのです。桜のほうは散ってしまって、あるいは桜の木が切られてしまっても、桜の木や花よりも、お酒を飲む事に気が行ってしまっている。日本人の気分には、そういう特徴があるのではないかと言っています。
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
学芸出版社ホームページへ