1 メルカテッロは人口1500人の山奥の町、元気で陽気な752 
          井口 勝文 MASAHUMI INOKUCVHI 京都造形芸術大学

 
なぜ再びメルカテッロに行くのか? 
 中部イタリアの山奥に隠れた桃源郷があることを、JUDI関西は知っていた。桃源郷の町の名はメルカテッロ スル メタウロMercatello sul Metauro(メタウロ川沿いのメルカテッロの意。同名の他の町と区別している)、マルケ州の西の端にある人口1500人の町である。12年前、1997年にJUDI関西の一行28人がそこを訪れて、その有様をJUDIニュース44号に報告しているから、ご記憶の方もあるだろう。
 ローマ〜フィレンツェ〜ミラノを結ぶイタリアの国土幹線をアレッツォArezzoから外れて、山越えのバスに揺られて2時間。そのバスも一日に2本(学校が休みの期間は一日に1本)しか走らないという僻地の町だ。わが国であれば間違いなく「限界集落」のタイトルを頂戴するはずの山奥の小さな町が、どっこい元気で、陽気で、リッチで、みんなが幸せそうに暮らしている。「これは見に行かなくちゃあならない」と、思い立って行ってみたのが12年前のことだった。
 その後コンパクトシティとか、コミュニティ経済とかが取り沙汰されて話題にはなってきたけれど、掛け声と局地戦での単発的な勝利だけでは焼け石に水。 わが国のおおかたの農村や都市の生活はますます惨めになる一方で、まさに限界だ。地方では過疎化、高齢化が進む一方で多くの都市の中心市街地は空洞化、郊外ではロードサイドショップが大繁盛して日本の社会はほぼ完全にファースト風土化(三浦展)してしまった。
 この勢いは無論日本だけにとどまらない。2005年の海外セミナーで訪れたブータンを除いて、アジア中にアメリカ発のグローバル化旋風が吹き荒れて、成す術もなく彷徨うしかない。
 さすがに西ヨーロッパの国々では、「グローバル化」(実は「アメリカナイズ」の換え言葉)に惑わされることなく、何とかローカル路線に踏みとどまっている。いや、踏みとどまろうと頑張っている。その結果、日本の現状と比べると、「イタリアではこんな小さな町でもずっと立派に自分で生きている」、という風に見える。「やれば出来るんだ」、そんな勇気をもらうために、もう一度メルカテッロを訪れて気力を取り戻そう。
 JUDI関西の一行20人は、そんな思いで、再度メルカテッロに行くことに決めた。

■町の起源は13世紀の計画都市
 この地方一帯に砦を構えて割拠していた豪族が、ローマ教皇庁からの呼びかけもあって、一箇所に集まって市壁を構え、自治都市コムーネを結成したのが1257年という記録が残っている。
 町の人たちはこの年をもってメルカテッロの町の起源としている。
 メタウロ川とその支流であるサン・アントニオ川の合流する平坦地に町は建設されている。このあたりは当時すでに教区教会や修道院が建てられ、交易の場所にもなってこの地域の中心的な場所になっていた。そこで、この場所に、自分たちの都市を建設するとすることに決めたのである。交易の場所(メルカートmercato)であったことに、町の名前は由来している。
 豪族たちは砦を出て都市に移住して館を建設する。町の庁舎もこのときに建設された(1880年に大規模に改築)。中央広場や道路がグリッド状に整えられているのは、メルカテッロが自然発生的というよりもこのように平坦地に計画的に建設された都市であることによる。

■近代以降の町の膨張と人口減少
 1860年以降のイタリア統一では全国の都市コムーネがそのまま、基礎自治体としてのコムーネを形成する。メルカテッロもそのようなコムーネのひとつであり現在に至っている。
 イタリアの基礎自治体、コムーネはいずれもこのような経緯を経ており、2008年末時点でコムーネの総数は8101である。1コムーネ当たりの人口は平均7400人である。平成の大合併を完了したわが国のそれは10倍の72000人であるから、国や自治体のあり方に関する考えが大きく異なるであろうことがこの一事からも見て取れる。
 第2次大戦終焉までのメルカテッロはこの地方の農業に支えられた中心都市であった。1950年代に最大人口の約3000人に達するが、その80%は町の外に住む農民であり、市壁に囲まれた町の中にはかっての豪族の末裔などの大地主のファミリー、そこに仕える様々な使用人、役人、手工業の職人や商人、農家に雇われる日雇労働者などが住んでいた。まだ中世以来の都市の面影を色濃く残していた様子が、当時の写真には写っている。
 1950年代にイタリア全土の工業化が進むに連れてメルカテッロの人口は減少する。その過程はわが国の経緯と何ら変わるところが無い。
 多くの農民が農業を棄てて大都市へ移住する。あるいはメルカテッロで盛んになったタバコ工場や繊維工場の仕事を求めて、町の中心市街地に移ってくる。
 メルカテッロとその周辺の町で、起こった最初の工業化は、戦前のタバコ産業であった。1950年代になるとそれが廃れて、替わってジーンズなどの品質の高い紡績業が盛んになってきた。この流れに乗って関連の中小の企業が起き、商業活動も次第に盛んになってきた。
 最近では電子部品の生産、金属加工、機械加工、木材加工、食品加工といった熟練工による地場の産業が定着している。
 第1次産業では暖炉の薪や木炭用材の伐採、製炭が特筆すべき産業として定着している。周辺の山林の保全、修景もこれによって保たれている。それらの人の手が入った山で採れる豊富な茸やトリュフも、この地方の特産品として知られている。
 このような経済状況はそれまでのメルカテッロの人口の減少傾向を食い止め、さらには中心市街地の存在感を高めている。
 1950年代後半以降は大きな都市への人口移動が進んで、メルカテッロの人口は1951年の2841人をピークにして1961年までの10年間で30%減少した。その後漸減して1991年にはピーク時の53%、1499人にまで減少した。しかしその後は約1500人で安定している。
 1950年代後半以降メルカテッロ全体の人口は減少したが、中心市街地の人口は増加した。その結果市壁の外に住宅や工場の建設が進み、市街地は大きく拡大した。町を迂回するバイパス道路がつくられたのもこの頃である。
市街地が拡大する一方で農業とその耕作地の状況も一変した。多くの農民が耕作放棄したことで、長い歴史を経てきた折半小作農業(メッザ ドゥリア)の社会構造が崩壊する。残った小作人は次第に大土地を所有し、あるいはより有利な条件で借地を増やすことで、機械化された大規模な農業経営者に変わって行った。一方で農業従事者は1991年までに1951年の8%(79人)にまで減少し、耕作放棄地が増えている。本来の耕作地の22%しか耕作されていない。その結果、潅木が茂り、葡萄の列が畑を仕切り、農業集落の親密な賑わいが見られた田園の生活風景が消滅して、メルカテッロを囲む山と田園の風景がこの半世紀で様変わりしている。
 ここで比較のためにイタリア全土の人口増減の傾向を記しておく。イタリアの人口増加の傾向は、1980年代以降は増減なしで平行状態を保っていたが、今世紀に入ってからは移民によって年率0.6%程度増加している。
 メルカテッロの人口も2001〜2009の8年間で54人増加している。中国人移民がこの地域の繊維工場に職を得て流入したことが数字に表れたものと思われる。メルカテッロにおける外国人居住者は2001年時点で38人(ヨーロッパ系19人、アフリカ系9人、アジア系10人)、全人口の約2.5%であった。現時点の数値は入手していないが、噂ではメルカテッロの中国人居住者は30人とも60人とも言う。メルカテッロは冷静に状況を受け止めており、中国人移民も次第に町の生活に馴染んでいくように見える。

■豊かな生活を守る都市計画
 1950年代以降の産業の工業化、都市への人口移動はわが国と全く同じ経緯を辿ったと言ってもいいだろう。それにもかかわらずメルカテッロは何ゆえにこれほど豊かで美しい生活風景を獲得しているのか。わが国は何ゆえにこれほど貧しく、みすぼらしい風景をつってしまったのか。その答えを
求めて我々はメルカテッロにやって来たのだった。
メルカテッロは1994年に都市基本計画P.R.G.を策定している。これはマルケ州が策定した州の風景計画の中に位置づけたものであり、このプロセスは1985年の国のガラッソ法によってイタリアのほぼ全てのコムーネで促進された。
 メルカテッロは1985年に都市建設計画P.di F.を策定していたが、それを見直してメルカテッロの山や田園を含む全域、全市民を対象にする風景計画、都市計画としたのが現行の都市基本計画P.R.G.である。
 それ以前、1988年には歴史的中心市街地の保全の方針を定めた地区詳細計画、1989年には中心市街地の小売店舗の立地を守るべく定められた商業計画、1992年には山間の城砦集落であるカステッロ デッラ ピエヴェCastello della Pieveを守る地区詳細計画が策定されている(2009年改定)。
 都市基本計画によって市街地とその周辺地区のゾーニングは次の様に定められている。
  
  歴史的都心部:6ヘクタール
  既存住宅地区:0.7ヘクタール
  新開発住宅地区:9.2ヘクタール
  都市再構成地区:0.4ヘクタール
  経済産業地区:16.8ヘクタール
  公共、公的施設地区:49.9ヘクタール

 ゾーニングの主眼は市街地の拡大の制御にある。メルカテッロは明確にコンパクトシティをその基本としている。居住地区は歴史的都心とそれに連続する既存住宅地区、新開発住宅地区の合計15.9ヘクタールに限っている。そしてそれらは歴史的都心を生活の重心として意識するように位置づけられている。
 歴史的都心6ヘクタールの保全は1985年の都市建設計画P.di F.で位置づけられ、1988年には地区詳細計画で保全の方法が明確にされている。既に20年以上の保全の実績があり、その間に多くの家屋の修復が進み、色彩基準が常識化し、重要建築物の修復活用が進んで、歴史的都心部の景観と居住環境は大きく向上している。
 都市基本計画では景観に関する現在の課題を、歴史的都心周辺部の既存住宅地区(0.7ヘクタール)と新開発住宅地区(9.2ヘクタール)、そしてその外側に拡がっている田園や山林地帯の修景にあるとしている。
 歴史的都心の周辺に拡大した新しい住宅地区の町並みには殺風景なところがあり、そのようなところでは都市の連続性の魅力をつくる必要があると指摘している。
 都市基本計画は田園と山間部の生活風景の回復の重要性を強調している。農業と地場産業を盛んにして豊かな生活風景を回復する必要がある。そのことによって観光農業(アグリトゥリズモ)を盛んにすることも期待出来る、としている。
 1994年策定の都市基本計画では計画人口を2200人(当時の人口比47%増)としたが、今やそれが現実的でないことは明確である。
 2200人規模の経済力を持つには、山をトンネルで抜けてウンブリア、トスカーナへ?がる東西の国土幹線の貫通が懸案だが、それもまた工事中断で遅々として進捗しない。イタリアの僻地、メルカテッロでも成長戦略は頓挫しているのだ。そのことがかえってよい結果を得ているのではないかという、諦めとも、正論とも着きかねる声が一部の市民からは漏れている。
 農業を含む地場産業を高品質の確かなものにすること、豊かな生活の風景を保全すること、それによって外部経済の活力を吸引すること。外部の動向に左右されるのではなく、自分たちが引き継いできた生活を守り育てながら、その価値をブランド化するという、したたかで楽観的な戦略がそこに見て取れる。

■みんなで町を楽しむPro-Locoの活動
 メルカテッロ最大のお祭りは7月14日の地区対抗のロバ乗り競争だ。まだ7年目と、歴史は浅いが既に町一番の人気の祭りになっている。
 その他に、子供カラオケ大会からクラシックのコンサートまでの多彩な音楽祭、炭焼きのステーキ祭り、広場でのバレーボールトーナメント、流れ星観測の夜の山歩きなど、多彩な催しが続く。これらは7,8月に集中している。というのも、この時期には大勢の帰省客がメルカテッロに帰ってくるのだ。学生たちはもちろん、遠くの都市で働く人たち、町を出て今や外国や他所の土地に住んでいる人たちが、夏のバカンスの時期に合わせて故郷へ帰ってくるのだ。彼らはそのために故郷に手入れの行き届いた住処を残している。そこに戻ってきて数週間を過ごす。あるいはお母さんが待っていてくれる実家で、お袋のパスタを食べて賑やかに過ごす。
 夏場にはメルカテッロの人口が50%増える。町役場はその対応に忙しくて、担当者は夏のバカンスは時期遅れにしか取れないくらいだ。そしてこれらのイヴェントに大きな力を発揮するのが、町おこしのNPO、Pro-Locoのメンバーだ。町の財政的補助も受けている。
 メンバーは町のボランティアの有志40人程度。その内の10人ほどの理事が中心になって活動している。この数年は音楽家で町の文房具屋のリーノ、建築家のガブリエーレのコンビが大活躍してイベントを盛り上げている。
町の祭りに年に10回以上ある教会行事は今も欠かせないが、世俗的な盛り上がりには欠ける。かつては生活のあらゆる面で教会の存在が大きかったが、今やPro-Locoを始めとする市民行事が町の楽しみの主流になっている。
 Pro-Locoは町の観光案内もやる。そのための環境整備にも意欲的だ。だから観光案内所がPro-Locoの事務所になっている。しかし本当のところ、観光客といえる客が来るのは極めて稀な事だ。自分たちが楽しんでれば他所から客も来るだろう。他所者は大歓迎だよ、何しろここは人里離れた田舎の町だから人恋しいんだよ、と言ってるように私には思われる。
 そしてメルカテッロに住む楽しさは2泊もすればすぐに分かる。住んでると癒される、そんな別世界が、長い歴史を経て今は成立している。
 JUDIメンバーの他に今年は、アメリカの若い声楽家30人が1ヶ月間、町なかで練習合宿した。オーストラリア人の数家族がやはり1ヶ月間滞在した。経済効果がどれほどかは別にして、町の人達にとってはやはり嬉しい出来事だった。

■メルカテッロが我々に示唆するもの
 このようなメルカテッロの豊かな文化と美しい風景は、つまるところ市民の郷土愛に支えられている。我々が学ぶべきは、まず自分の町や村の愛すべき文化と風景に眼を向けることの大切さである。
 自分の町や村に欠けているものを問題としてそれを手に入れようと考える「無いものねだり」に、我々は終始している。その結果、際限の無いコマーシャリズムの泥沼にはまってしまっている。自分の町や村の優れた文化と風景にこそ人生の満足をもたらすものが在ることをまず知らねばならない。そこから未来に向けて歩き始めなければならない。そのようなことをメルカテッロは我々に教えてくれる。
  
メルカテッロの位置 メルカテッロの中心市街地(チェントロ)
 
メルカテッロの都市基本計画図
A 歴史的都心部  B 既存住宅地区  C 新開発住宅地区  D 都市再構成地区  E 経済産業地区  F 公共、公的施設地区
 

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