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この写真は左京区にあった「ちびっこ広場」です。こうしたちびっこ広場が京都市内には450ヶ所ほど作られました。この政策に熱心だったのは京都市と横浜市です。どちらも革新市政と呼ばれた市長さんがいた時代です。 なぜこうした広場が作られたかと言うと、当時子どもの自動車事故が社会問題になっていたからです。子どもの遊び場や公園を整備することが追いつかなくて、当時の建設省が「都市内の公共的な遊休地をどんどん子どもの遊び場にしていただきたい」という通達を出したのです。それで、こういうちびっこ広場的な場所がたくさんできました。同時に河川敷も公園にしたらどうかということも通達の中にはあって、その後、淀川の河川敷公園などがどんどんできていったという時代でした。
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図面は大学4年生の時のものでお見せするのは恥ずかしいのですが、卒業設計の「河原町みちにわ計画」です。裏寺地区を作り直して広場にしたらどうかという提案で、明らかに黒川紀章さんの影響が出ていますね。 人が歩いて楽しめる街を現代の京都にも作りたいという思いで、友人と組んで設計しました。 この計画は、新建築が主催していた卒業設計のコンクールの予備審査で通りました。予備審査では2枚の図面を提出しました。東京に行ってみたら「追加の図面を出してください」と言われました。ほかの人たちは図面を10〜20枚は用意していたのです。特に恥ずかしいとか感じませんでした。そういう提案だったわけですから、そんなことも懐かしい想い出になっています。
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修士論文『移動商業施設』で京都の街路市を取り上げました。これは左京区の田中公設市場前の街路市です。こういう露店開設場所が、1969年には京都市内に67ヶ所あり、一日平均15ヶ所、1ヶ月では述べ450ヶ所で市が開かれていました。月に百カ所で開かれていました。開催は、日切りや曜日で様ざまですが、京都市内のそこら中で市が開かれていたわけです。最近になって調べてみると、そうした市のいくつかは、フリーマーケットに変わっているところもありました。いまだに姿を変えながら商売が行われているわけで、なかなか興味深い現象です。市は街路から撤退し、社寺の境内で開かれるものが多くなっているようです。
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左が東寺の「弘法さん」(毎月21日)、右が北野天満宮の「天神さん」(毎月25日)の様子です。最近でこそ骨董市の性格が強くなっているようですが、私が調べたときはいろんなものが売られていました。 この調査をやっているとき、テキ屋の親分にもヒヤリングに行きました。寅さんは国民的な英雄ですが、テキ屋は普段反社会的な存在と思われているようです。しかし、それは実際とは違います。「恐い」と思われるには理由があるのですが、今はそれを述べている時間がありませんので省きたいと思います。
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