都市の自由空間
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質疑応答

 

 

■社会実験(カフェ)の恒久化に必要なものは?

篠原(大阪ガス)

 先生のお話の中に出たミニ社会実験に関わっておりました。御堂筋のジュースバーや尻無川でのリバーカフェは、有期限の社会実験だからということで許可が下りました。つまり短期間だから成り立ったという面がございます。

 それを恒久的な活動にするためには、仕組みやルール、また資金が調えられるかが重要な要素になってくると思われます。そういう管理面や仕組み、ルールで参考になる事例がありましたら、ご紹介いただきたいと思います。

鳴海

 いずれの事例も断片しか見ていないので詳しい情報が提供できませんが、ユニオンスクエアのフリーマーケット場合はNPOが協議会を作って会費を取り、活動資金にあてているそうです。「近郊の農場の作物を消費することでどれだけ農家が助かるか」というペーパーを作ったり、マネジメントもやったりして、面白い活動をやっているようです。

 ブライアントパークの場合も、ホワイトさんは「組織作りが要になる」とおっしゃっていて、けっこう時間はかかるけど成功しているところは必ずそういう組織があります。日本にはそういう実効的な組織がまだ出来ていないので、自主的にそれを担うような小振りの組織が出来れば社会実験の恒久化も可能ではないかと思います。


■人のための道路を取り戻せるか

前田(学芸出版)

 先ほどの先生のお話の中で「街路は通過する場であるとともにコミュニテイの場という2つの役割を持つべき」というお話が紹介されました。また、一週間ほど前に大阪大学の新田先生が開かれた国際会議でも「イギリスでは道を通過するための機能と、プレイス、つまり人が楽しむための機能に分けて考えている」という報告がありました。

 議論はずっと前からあり、海外では実践しているところも出てきているのに、未だに日本の道はほとんどが車優先で、路地ですら子どもが遊んでいると怒られる状態になっていると思います。

 これから道を我われの生活の中に取り戻していくことができるのか。四条通でも歩行者のための道にしようという実験が行われたという話ですが、果たしてそれは実現できるのか。そういったことについて、もう少し先生のご意見をうかがえたらと思います。

鳴海

 このことはこれまでいろいろ提案もされ、議論もされてきたことと思います。しかしながら感じていることは、お役所が本当にそう思ってはいないのではないかということがあります。交通政策は、基本的にお役所と警察で仕切っています。そういうところがまだ、重要性を理解していないのだと思います。ありきたりの意見になりますが、地区ごとに点検して車が楽に走れない道路を造っていくべきだと思っています。それをどういうふうにやっていくかについては、なかなか難問ですが。

 子どもや高齢者にとっては、道は生活の中でかけがえのない空間ですから、道が、車主体の道路だけになってしまっている状態はとても腹立たしいことです。それを回復できるように提案していきたいと思っています。最近はそういうことを主張する人も増えてきて、関心のある市長さんなども出てきていますので、可能性はなきにしもあらずというところです。「人のための道路を取り戻す」ということは、一時に比べたらやりやすい状況かもしれません。

 提案と同時にやらないといけないのは、道路交通法を変えることでしょうね。もう一度みなさんもこの法律を読み直していただくと、けっこう変な規則がたくさんあることに気がつかれるでしょう。例えば「道路で立ち止まって立ち話をしてはいけない」「酔っぱらって千鳥足で歩いてはならない」など、人の勝手でしょうと言いたくなる条文がたくさん並んでいます。

 「道路に寝そべってはいけない」というのもあって、寝そべるという表現にも腹が立って、もう放って置いてくれと思います。一時、都心から酔っ払いを締め出そうと、本当に千鳥足で歩く人を取り締まったこともあります。道路をそのようにしか捉えない姿勢が問題だと思います。そういうふうに法律が使われないためにも、法律をもっと正常に戻していかないといけないと思います。


■市民の側からルールを変えていきたい

桐田(歩いて暮らせるまちづくり推進会議・京都)

 最近は景観計画が話題になっていて、その中でも景観重要公共施設という項目の中で「河川・公園・道路」があります。ここでは「占用のあり方」が定められていて、使われ方を管理者と利用者が協議して決めなさいということになっています。やはり、公共空間は「管理する」という意識が全面に出ているのだなと感じます。

 私は30年ほど前に、鹿児島で「街路利用システム」という調査をしたことがありました。その時に街路の多目的利用はできないかと調査したのですが、街路に出てくる看板や商品について、警察は「取り締まる」という感覚でした。あまり街路の使い方を制限されるとみんな生活できなくなるじゃないかと言いましたら、「困っても構わない」という返答が担当課長から返ってきて驚いたことがあります。いまだにそういう意識はあるんですね。

 一方、我われは今京都で「歩いて暮らせるまちづくり運動」を進めていまして、道路を人に開放できるよういろいろやっています。その中で、大きな問題になっているのは放置自転車です。そもそも自転車は車道を走ることと決められていたのですが、道路が車でいっぱいになってくると今度は歩道を通ってもいいとなってきました。警察の都合のいいようにルールを変えてくるんだなと思いますが、市民の側からルールやマナーを変えていくようにしないと、先生の言う自由空間は展開できないなと思います。その点で、先生からご提案かアイデアをお話いただければありがたいと思います。

鳴海

 大きな問題で簡単には答えられないのですが、自転車について言うと最近研究会でもテーマにしたことがあります。

 最近は自転車は都市交通の中では「良い存在」ということになっていますが、ちゃんと考えないといけないという結論になりました。なぜなら、自転車に乗る人は意外に自分勝手な人が多いんですよ。そういう人たちがより勝手にできるようにするのは変だし、歩行者にとっても危険です。「地球環境にとっては優しい乗り物」と脚光を浴びている自転車ですが、我われプランナーは冷静にその自転車をめぐる状況を組み立てていくべきだと思っています。

前田

 私は自転車派ですが、自転車が歩道を走るのがそもそもおかしいと思います。

 自転車は車道を走るべきで、車は自転車をよけて走るべきだし、そのほうが歩道を走るよりも安全というのが定説です。

 自転車については、いずれ機会があればセミナーで取り上げて論争してみたいと思います。


■商店街アーケードの是非

金澤(大阪産業大)

 つい最近、浜野安弘さんの講演を聞く機会がありました。これからの都市のあり方について今日の鳴海先生のお話とポイントが重なることが多かったのですが、一点だけ違う点がございました。それがアーケードに関する考え方です。

 浜野さんは「アーケードが商店街をダメにした」と指摘して、「アーケードは商店の2階から上が見えない。建物の一軒一軒の工夫のしようがない」とおっしゃっていました。もちろん、黒石の小見世のような伝統にのっとったアーケードの姿は浜野さんも賛成でしょうが、戦後に作られたアーケードは全部はずしていくべきだというのが浜野さんのご意見でした。

 今日の鳴海先生のお話では、そういう戦後のアーケードも今後も継続していくべきだというふうに理解したのですが、浜野さんとの意見の違いについてご意見をうかがえたらと思います。

鳴海

 私の考えでは、歯抜けの商店街ならアーケードはないほうがいいと思います。ですから、今後はアーケードなしの商店街が増えていくのではないかと考えています。そういうところでは商店街を貫いているような強いイメージをもったアーケードは、かえって逆効果だし、設置費用もメンテナンス費用も出せない恐れがあります。

 一方、アーケードにこだわっているのは、いわゆる「熱いイメージ」の商店街です。例えば大阪の天神橋筋商店街や千林商店街のような、通路の幅が狭くて空き店舗がない、熱気のある商店街はアーケードがあった方がいいと私は考えています。これは日本の都市のひとつの自慢素材だと思っています。

 どちらをとるかは商店街のみなさんが決めることですが、私は熱気のある商店街は絶対アーケードがある方がいいと思っています。しかし、大方はアーケードなしになっていくんだろうなとも予想しています。


■締めくくりコメント〜「公共空間」と「自由空間」

小林(コープラン)

 「公共空間」という言葉を使わず「自由空間」としたところが、鳴海先生の頭のいいところだなあと感心しました。「公共空間」という言葉を使うと、どうしてもマネジメントの話がメインになって「公共とは何か」という話になってケンカになったりしますが、「自由空間」だとプランニングやデザインの面から取り組めます。

 私も仕事上、警察や役所とケンカになってなかなか大変なのですが、行き着くところは「自由空間」を目標にしていると思っています。鳴海先生は「地元の人が地元のためにやることなら何でもできるだろう」とおっしゃっておられましたが、たぶん全てがそこに行き着く話だろうと理解しました。

 ずっと昔に私の師匠である水谷頴介が「町住区」という言葉で「自律生活圏」を提案しており、誰がそのまちを管理して運営していくかがポイントになると言っていました。そういう事に興味のない連中が集まって金儲けのために何か始めたら、やはり取り締まるのは当然だろうという立場を私はとっています。

 ですから、そういう所を自分たちの空間として公共のものとして管理できるように持ち込まない限りは、自由空間にはならないだろうと思います。そういうことを考え始めると大都市では実現が難しいのですが、地方都市では当たり前の話だと思います。自由空間を享受したい人は、一刻も早く地方小都市に移住するべきでしょう。

 私は神戸に住んでおりますが、神戸はちょうど大都市でも地方都市でもない中間の都市ですので、できるだけ「自由空間」を目指してやっていきたいと思っています。道路はその点、一番分かりやすい自由空間だろうと思います。公園になるともっと簡単にいけそうな気がします。しかし、河川や港湾になるとなかなか大変そうで、その辺なんかは、これ以降も先生やみなさんのお話をうかがいたいと思っています。

 久しぶりに鳴海先生のお話をうかがって、都市の中でいろいろと考えないといけないということについては、日頃つい忘れていることなので、反省した次第です。いろいろと貴重なご指摘、ありがとうございました。


■講演後の質問〜建物のなかのカフェも自由空間になりうるか

松田(兵庫県企画県民部県民文化局)

 私のお聞きしたかったのは、セミナーでは、自由空間としてのオープンカフェの例をお聞きしたのですが、建物の中のカフェ(例えばコミュニティカフェとか言われるもの)も自由空間として考えられるものだろうかという点です。

 イギリスのパブやシアトルのスターバックスなどは、サードプレイスだという言い方がされることが多いのですが、日本の場合、スターバックスを見知らぬ者同士が出逢うという場として捉えるのは難しいように思います。自由空間というよりも、私的なイエ的空間の延長のようなものでしょうか。

 やはり日本人の心性としては、オープンな中で新たな繋がりを築いていくのが苦手(或いは嫌う)という意識があるのではないかと考えています。となると、オープンカフェは、街の賑わいとしての効果はあるものの、新たな人と人との繋がりの装置として機能するのだろうか。そういう装置として、オープンカフェをはじめとする都市の自由空間を活かしていくためにはどのような工夫が求められるのでしょうか。

鳴海

 別の本でも若干論じたところです。下記はその一部です。

 先に紹介した「新・都市の時代:都市のリ・デザイン/行ってみたい都市の形成」の国際シンポジウムに、基調講演者としてアメリカのレイ・オルデンブルグ氏を招いた。オルデンブルグ教授は都市社会学者で、「第三の空間」とか「グッド・プレイス(good place)」に着目した著作で知られている。「第三の空間」とは、「第一の空間:家庭」、「第二の空間:職場」のしがらみから開放された空間のことで、盛り場や行楽地のことを指す。消極的な「第三の空間」は通勤時の電車の中などがそれに当たる。オルデンブルグ教授は、この「第三の空間」が都市の魅力を生み出すとして、「カフェ」や「バー」などに着目している。このような場所を、教授は「グッド・プレイス」とも呼んでいる。

 さまざまな都市を訪れてこうした「グッド・プレイス」に出会うことはなかなかの魅力である。「グッド・プレイス」には素敵な店の主人と、エンタテナーになれる馴染みの客が不可欠である。かつて座談会をした折、『ミーツ』の編集長であった江弘毅氏も同じような場の魅力について語っていた。「素敵な店の主人」と「素敵な馴染みの客」これがそろうのはいい店だが、こうした「グッド・プレイス」を新たにつくることはそう簡単ではない。

 (中略)。

 第3章で「グッド・プレイス」について述べたが、実はオルデンブルグ教授は、こうした「グッド・プレイス」がアメリカ社会でもだんだん消え去りつつあることを危惧している。また、「カフェ・ソサエティー」に集まる人は、互いにエンタテーナーになっているからこそ面白いのだが、現代の中産階級の人たちは引っ込み思案でクールになりつつあり、そうした人がお茶を楽しんでいる様子を見ても面白い雰囲気が生まれないと指摘する。

 中産階級は全世界的に面白くない人になってしまったというのである。こうした状況は変えられるのだろうか。

 (中略)。

 ケビン・リンチ教授は、環境を評価する次元に5つの重要な要素があるとし、その中の一つに、アクセスビリティーをあげている。これは必要とする場所や機能へのアクセスビリティーであり、必要とする人へのアクセスビリティーである。この人への、あるいは友人へのアクセスビリティーが極めて重要な要件であると考える。

 内発的社交性という概念がある。これはフランシス・フクヤマ氏が提示した概念で、これを山崎正和氏は、「人間が本来もっている社交への欲求」と敷衍して解釈している。そして、近代化は人間に孤独と不安をもたらす傾向があるとし、「個人を全体として多角的に評価する集団であり、いわくいいがたい非合理的な側面を含めて、複雑な人格が複雑なままに接触できる交遊の場」が人間には必要であると述べている。

 山崎氏のいう「複雑な人格が複雑なままに接触できる交遊の場」、あるいはオルデンブルグ教授のいう「互いにエンタテーナーになりあっている場」、そのような場が人間に必要とされているにもかかわらず、そのような意識が「内発的」なゆえになかなか顕在化しにくい。「引っ込み思案でクールになりつつある現代の中産階級の人たち」にはどのような道が残されているのだろうか。

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