伝建地区まちづくりの新段階―その現状と課題
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いま、伝建地区における保存とまちづくりに求められるもの

 

■保存をめぐる社会の変化

 1985年の文化財保護法の改正で伝建制度が生まれて以来、全国で86地区が重伝建地区に選定されました。制度が生まれた昭和40年代までは、保存とまちづくりは対立概念的に捉えられていましたし、現在でも解消されてない部分がかなりあると思います。本来なら、同じ目標で取り組まねばならないテーマのはずですが。

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大分・4つの町の写真
 
 しかし、伝建制度をめぐる状況は大きく変わりました。大分の4つの町の写真をあげていますが、この中に伝建地区が一つだけあります。分かりになりますか。この4つの町は由布院、豊後高田、日田、豊後竹田の写真ですが、それぞれ景観を活かしたまちづくりを手がけているところです。このなかで伝建地区は日田だけです。

 写真を見ても、どの町が伝建地区なのか、よく分からないんじゃないかと思います。伝建が発足した当時は、町並み景観を保存し活かす制度が伝建しかなく、伝建がセントラルな制度であったことは間違いないと思います。しかし、今や町並み景観を活かす法律は様ざまに出てきています。写真の町並みも、街なみ環境整備事業のほか、中心市街地活性化関連、観光振興関連などの行政的な補助をそれぞれ受けています。

 近年では、景観法・いわいる歴まち法などが新たに作られました。そうなってくると、伝建地区の独自性は何かということが問われることになります。伝建の存在意義が相対的に大きく変わってきていることは、みなさんも感じておられることでしょう。

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いわゆる京町家再生の事例
 
 これは1999年に京町家再生の事例を調査したときの写真です(永井淳子・三村友恵・増井「商業事例に見る京町家再生に関する研究」『展示学29号』2000.5)。この頃から話題になる町家再生の事例が出てきて、その後も町家を利用したレストランや店舗が京都の町なかにどっと増えてきました。その流れに疑問を感じることがあって調べてみたのです。

 京都の町家はずっと減り続けてきましたが、1990年前後からは町家があれば何とか利用できないかという話が普通に出てくるようになってきたと思います。ですから、その流れに合わせて建築家や都市デザイナーの表現も変わってきました。例えば、本来だったら隠すはずの仕口やホゾを見せる、2階の天井を取り払って小屋組を見せるというやり方です。建物の痕跡をわざわざ建築表現として町家再生の中に入れていくというやり方が15年前ぐらいから見かけるようになりました。

 大阪の空堀に行きますと、家中こういう痕跡を見せているような例がたくさんあります。多分、建築家さんの思いとしては、建物の履歴をどう表現するかというときに、屋根裏だとか今まで隠していたものを見せることで家の歴史を見せやすい。歴史を見せるオプションが増えていることだろうと推察します。

 美山町(現南丹市)はけっこう都会からの来住者が多い所で、その半数ぐらいが萓葺き民家に住みたいという希望を持っています。そういう人びと、いわば新住民がどんな暮らしをしているかの調査をしたときに、やはり面白い改造の仕方をしている方が多くおられました。萓葺き屋根に大きく開けた窓を開ける例があったり、あるいは茅を維持するために下から煙でいぶさないといけませんから、今までは竈やいろりだったけれどバーベキューコンロで良いじゃないかと、週に1回必ずバーベキューをするお宅もあります。いろんな価値観を持っている方が美山に住んでいることが分かりました。

 例えば、薪ストーブは新しい住人は必ず取り入れ、それを直接屋根裏に引き込んで茅の保全を図るということをされています。しかし、旧来の住人で家の改造をするときに薪ストーブを入れた家はまったくありませんでした。新住民だけの傾向です。


■歴史遺産の保存・継承をめぐる最近の動向と伝建地区

 京都にしても美山にしても多様な価値観を持った人が新しく歴史的なものを扱うという事例を示したもので、とても興味深いことです。旧住民にとっては思いもつかない暮らし方であり、使い方だと思うのです。

 これを見ても、伝建地区をめぐる社会的な役割が変わってきているのではないかと感じます。また、歴史遺産の保存・継承に関する世間の関心の高まりというものも30年前には見られないもので、このあたりの感覚は今の学生さんにはピンとこないかもしれません。

 今の学生さんは、歴史的環境の保全と活用がいわば当たり前の発想になってきてから育ってこられていますので、伝建地区は当たり前に目の前にあるという感じです。鳴海先生、田端先生などはそれを一生懸命残そうとしてきた世代で、私などはそのちょっと後から出てきた世代と言えるでしょう。歴史的な環境を見ても、感覚的な捉え方は世代によって変わってくることは確かです。

 ともあれ、このような関心の高まりから、景観法や歴まち法、登録文化財などさまざまな行政メニューも出てきました。もちろんそれに関わる人々の取り組みという努力もあります。そうすると、やはり状況変化にともなった伝建地区の新しい社会的役割も出てくるのではないでしょうか。


■伝建地区の二つの役割

社会的役割
 伝建地区にはまず文化財としての社会的な役割があります。実態としてある町並みの保存・継承をしていかねばならないこと、そのためには町並みを支えてきた仕組みの継承をしないといけないことです。目に見える建造物そのものと同様に仕組みも大事なのだと考えています。

 建築の指定文化財などはそれを支えていた仕組みを残そうという考えがありあす。例えば重要文化財の檜皮葺の建造物を残すためには、その檜皮を取るための森を作ることが必要だとされていますし、その職人の養成も重要な課題として認識されています。しかし、伝建制度では、制度それ自体が、町並みを支えていた仕組みのことまで、あまり考えてくれていません。

 それから、これはあまり指摘されてなかったことですが、今はこのように様々な行政メニューが出てきていますが、たくさんのメニューの中で、伝建地区は歴史遺産保存・活用のモデルとしての役割が社会に求められるようになっていると思います。つまり、町並みはこんなふうに使えるのですよとか、古い建物を使ってこんな商売ができますよといった成功モデルを、社会は求めているのではないでしょうか。伝建地区だからこそできる使い方と保存の仕方を示せないかを考えていく必要があります。

生きているマチとしての課題
 それから、伝建をめぐるもう一つの視点は生きているマチとしての課題です。

 「イエとマチの経営」「イエとマチの暮らし」ということが大事だろうと思います。どうも、暮らしていく上では、伝建であることはいろんな障害があり困ることがあるし、特に経営という点からすると、古い建物、それが問題だということがあります。

 伝建制度は外観保存をすごく大事に考えていて、それに対する規制と補助があります。今は制度ができて30年経ってルーチンとして動いていますから、役所としてはそれでいいのでしょうが、私が調査したところ、住む方にとっては、かならずしも良くないのですね。私の師匠である西川幸治先生などはいろんな講演会で「建物の外観だけ残せば、中は自由に変えられますよ。町の発展には何も差し障りありません」と言っていたのですが、外観保全だけではなかなか進まないという現実があります。実際、関わった方はみんな感じておられることだと思います。


■今日の話題

 ここからは仕組みの修復と修理・修景の課題についてお話ししていきます。

 一つ目は、長野県奈良井などにおける祭りと町並みについてです。これは時間がないのでさらっと流す程度に紹介します。

 二つ目は私が2003年から2年間にわたって調査した徳島県の東祖谷についてで、ここは4年前に伝建地区になりました。調査の中で、私は仕組みを整えながら進めていかないとまずいなと感じましたが、そのことについてお話しします。

 三つ目は、2008〜2009年に調査した奈良県今井町の伝建の見直し調査についてです。ここは伝建地区に決定してから15年経っていますが、その中で出てきたいろんな問題について調べてみました。

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