1 梅田北ヤード再開発をめぐる理念 |
今日は、私が「梅田北ヤード2期のグリーンパーク構想」というテーマで報告させていただくことになりました。現在、私は関西経済同友会の「梅北委員会」の委員長を務めております。関西経済同友会が、この梅田北ヤードに関わってから10年になります。私は2001年からこの梅田北ヤードに関連する委員会の委員長として、関わってまいりました。
昨年には、経済同友会が梅田北ヤードの2期開発に関して5つのモデル図を添えて提言をいたしました。今日はその提言である「グリーンパーク構想」をどのように進めてきたか、それまでの経緯、そして私たちがどのようにグリーンパーク構想を考えてきたかその理念をご説明し、JUDI関西にご助力をいただいたモデル図についても説明していきたいと思います。最後は、これから私たちの思いをどのように実現していけるのかについて、みなさまのご意見も賜ることができればと思っております。どうぞよろしくお願い致します。
今日はこの再開発事業をめぐる10年あまりの経緯とグリーンパーク構想についてお話しして、その課題を検討していきたいと思っています。
私が所属しております関西経済同友会という組織は、大阪で活動している経済人の団体ですが、経済人が個人の立場で参加して、個人の立場から関西あるいは日本の発展ために活動していくことを目的にしている社団法人でございます。会員は700名あまりで、いろんなテーマの委員会が20あまり活動しております。その中の「梅北委員会」が梅田北ヤードの再開発に関わっているのです。
こういう活動を行ってまいりました。なぜこういう活動に至ったかを順を追って説明していきます。
しかし、このままではいけないということで、2001年5月7日に当時の小泉首相が所信表明で「都市再生を行うことで経済改革を進める」と発表しました。その翌日には、首相を本部長とする都市再生本部が設置されました。
私たちの委員会もちょうどそのすぐ後に立ち上がったのですが、私たちは「大阪活性化委員会」という名前で、大阪の都心の再活性化を目指して、都市問題をテーマにした委員会活動をスタートさせたのです。これが2001年6月のことです。
私たちが活動を始めて、最初に危惧したことは「首相が言う都市再生とは東京再生に過ぎないのではないだろうか」という疑念です。と言いますのも、都市再生と言った時に東京はいろんなプロジェクトをすっと出してきてのですが、大阪はプロジェクト提案がなかったのです。当時の太田房江知事は、国の都市再生本部から「大阪はどんなプロジェクトを出すのか」と問われ、大阪に戻ってから「何でもいいからプロジェクトを出しなさい」と部長級を集めて言ったというのですから、ノーアイデアだったことがうかがえます。私たちは、大阪は都市再生に関して立ち遅れているという意識のもとで、「世界都市・大阪」をつくろうといろんなヒアリングを行いながら、都市再生を考えていきました。
その中で、私たちは御堂筋が気になっていました。当時は銀行再編によっていろんな銀行が統合されていく時期でしたから、ビルの1〜2階は空室が多くなっていったのです。2001年の御堂筋にあるビルの1〜2階の空室率は12%でした。御堂筋までゴーストタウン化してはいけないと、私たちは都心再生を考えました。
そして、もうひとつ大事なのは、御堂筋と同時に梅田北ヤードでした。24haが手つかずのままある。私たちはこの24haの北ヤードが都市再生のかけ声のもと、例えば汐留のような処分がされたのでは大変なことになる、ばらばらな街ができるという危機感がありました。それで、2001年11月に緊急提言を行って「北ヤードの切り売りを避け一体的開発を」と呼びかけました。
当時の閣議決定で、北ヤードの土地は2、3年後には売り切ってしまうようにとされていました。当時の不況の中で国が都市再生を言っている中、北ヤードを急いで処分すれば、土地の切り売りになってしまうのではないかという危惧があったのです。ちょうど汐留がそんなふうに1区画ごとに土地が売られ、高層ビルがどんどん建ちつつある時期でした。汐留のビルひとつひとつは大変立派なものですけれど、街としてはどうなのか。こうした汐留の状態を私たちは反面教師として捉え、北ヤードも同じような土地の切り売りをしたのでは大阪の顔になる大事な土地がとりかえしのつかないことになると考えました。むしろ百年先にも誇れるようなまちづくりをするために、ここを大阪の都心再生の最重要プロジェクトとして捉え、計画的に一体的な土地利用を図っていきたいと考えたのです。土地の切り売りを回避し、公的な機関によって土地を一括取得し、プロジェクトを推進する協議会を早急に立ち上げて欲しいとするこの緊急提言を2001年11月に発表したところです。
亀井さんにお会いした時は、吹田が反対しているから北ヤードは動かないとおっしゃったのですが、私たちは吹田市長とお目にかかっており、市長からは「全く反対する気はない」と聞いていました。当時の阪口吹田市長が「吹田の操車場跡地は北摂の顔になるようなまちづくりをしたいと思っている。そのためには北ヤードの機能も引き受けるけど、まちづくりのために関西をあげてバックアップして欲しい」とおっしゃっていました。そういうことであれば、私たちも北ヤードの再開発推進と吹田のまちづくりに力を尽くしましょうと話し合いました。そのことを東京で亀井さんに伝えまして、北ヤード再開発の動きが出始めたわけでございます。
このように土地保有者へも働きかけながら、また国の都市再生本部にも働きかけ、私たちは2002年4月に「新世紀の都心創造〜大阪都市再生へ」という提言を行いました。この提言でイメージしている大阪都心のビジョンとしては、(1)水都・大阪、(2)生活首都・大阪、(3)商都・大阪、(4)観光都市・大阪、(5)知識産業都市・大阪というもので、御堂筋とその周辺の活性化を主張致しました。御堂筋、道頓堀、水辺、北ヤードそれぞれの提言をいたしております。
北ヤードの開発については、先ほども申しましたように土地保有は長期的なまちづくりが考えられるよう、公的なところが保有すること。そして国際コンペでマスタープランを作り、プロジェクトとして早く立ち上げ、市民参加のまちづくりのムーブメントを盛り上げようという提言内容でした。
これを受けて、何よりも必要だったのは大阪市のリーダーシップです。当時は磯村市長でしたから、磯村さんに市長直轄の「大阪市都市再生本部」を作って欲しいと提言しました。その提言書を市長に手渡し、それから3ヶ月後の2002年7月に市長を本部長とする「大阪市都市再生本部」が創設されました。
私たちが5月に市長にお会いした時には、市長は大阪市だけで都市再生本部を作っても仕方ないから京都、神戸と一緒に3都市で「京阪神都市再生本部」を作りたいとおっしゃっていたのですが、2002年7月に国から大阪の「都市再生緊急整備地域」が指定されたことからこの「大阪都市再生本部」が設置されたというのがその時の経緯でございます。
この緊急整備地域に指定されると、民間事業者は都市計画の提案ができ、都市再生の特別地区としていろんなメリットがあります。これは後ほど詳しく説明します。それから、6ヶ月間で都市計画決定ができるという非常にスピーディな事業展開ができる体制になります。また民間事業者への金融支援もありますし税制の措置もあるという、都心再生を緊急に推進していくためのメニューが揃っている制度です。
ここまでが、梅田北ヤードに関わる第1段階です。それまではなかなか動かないと思われていました。何故かというと、貨物ヤードの機能を大阪市は吹田市に移転させたい、吹田に100%持ってほしい、しかし吹田市にとってそれは迷惑施設になるという考えが大勢だったからです。それを本来調整するのが大阪府の役割だったのですが、府は大阪市マターだとしてやりたがっていなかったということもあったと思います。その中で、吹田市に半分、大阪市は百済に半分持っていこうということまで、吹田市長さん等との話し合いの中で決めて、それで動くようになりました。
その間、私たち同友会も提言を最初に行った責任から、大阪駅地区再生懇談会やまちづくり推進協議会にメンバーとして参加しながら、意見を述べたりフォローアップをしてまいりました。
ただ国際コンペはすぐに実施してもらったのですが、その後の動きが先行開発地域だけを考えているように見えました。ですから、まずは全体のコンセプトをつくり、民間だけでやっていくのではなく公共のかかわりやファイナンス面も含め市民参加など開かれた形での推進が必要ではないかと考えながら各界にフォローアップとしての意見提出などを行っていた次第です。
その後、2008年2月に先行開発地域の都市計画案が決まってくるという経緯ですが、この間のいきさつについて少し詳しく話させていただきます。
もうみなさんご存知でしょうが、日建設計の林直樹さんのチームが「Metropolitan Compost平成のまちづくり」のテーマで優秀賞を取りました。これは淀川から水路を引いて、街をかなりフレキシブルにコンポスト化して作り、街の発展にあわせて更新もうまくできるようにするというものでした。桜並木を街全体に植え、その並木を淀川までつないでいこうという提案でした。
全体構想では東西南北に十字の道路を入れて、それを中心に緑と水の軸線にしながらビジネスゾーン、商業、住居、やすらぎ・文化ゾーンを複合させていくというものです。
私が注目した「水と緑」については、基本計画ではこのようにシンボル軸から敷地内に水を引いていく、シンボル軸は40m幅で、その中の歩道部分とセットバックした敷地部分に3列の街路樹を植えて緑の軸にするという絵でした。 国際コンペの絵と比較すると、基本計画はずいぶん後退したと実感した次第です。
この提案は、Bブロックのナレッジのところはオリックスが代表企業になっています。AとCは三菱地所が代表企業になって12社のディベロッパーが組んだチームになっています。今はテレビや新聞報道でよく見かけるので、上の完成予想図1期グランフロント大阪の図はご存知だと思いますが、応募案からは容積が拡充されています。この完成予想図は駅の北口広場と南北軸方向から見た絵です。
それは、都市計画の中で容積率がどんなふうに拡大してきたかということです。
区画整理の都市計画は2004年12月に決まっておりましたが、2006年2月に先行開発区域の地区計画、用途等が決まりました。それから事業者を募集したわけですが、都市計画では駅に近い方からA、B、Cブロックとなっています。それぞれの土地所有者はゾーニング計画に合わせて、Bブロックはナレッジ・キャピタルを作ることでURがディベロッパーとなって民間事業者に分譲するということになっておりました。容積率は駅に近い方から800%、600%、600%と決められていました。これに敷地面積をかけて、全体として考えると3ブロック計で660%の容積で都市計画決定されましたが、募集の際に「都市再生特別地区を申請すると、上限400%を目安として容積率積み増しを提案できる」との条項がつけられました。
ですから、この条項が追加されたので応募案はブロックごとに1200〜800%の容積率になりました。複数のグループが応募されましたが、実際に採用されたオリックス、三菱地所の提案は1200、1000、800%になり、延べ床面積37万5千平米、全体容積が3ブロック計で1000%でした。
それから、開発事業者が応募案の建築計画の見直しを求めたため、都市計画審議会が延長されることになりました。その後、平松さんが市長に就任された後の翌2008年2月の都市計画審議会で容積率を拡充することが採決されました。
先ほどの完成予想図は公表されている資料から推計すると、Aブロックが1600、Bブロックが1150、Cブロックが1150、3ブロック計で延べ床48万平米、平均容積率は1280%になっています。それぞれの建物は立派な建物で、4棟のデザインは調和がとれ、一体的な街になってるのですが、かなり高密度になっています。
こういう風に先行開発区域の全体の容積が変わっていきました。
私たちは、1期と2期合わせて「水と緑あふれる風格あるまちづくり」を進めて行かねばならないと考えています。そういう意味で2期のコンテンツや都市デザインがかなり重要になってくると感じていた次第です。
その時に容積率拡充の都市計画変更が決まり、1期の姿がはっきりしたわけです。容積拡充の理由はナレッジ・キャピタルという非収益施設を運営するには、収益源となるオフィスや商業などの床を広く確保しなければならないためと大阪市は説明していますが、民間事業者に土地価格を競わせる処分方式という事業スキームにその原因があると思います。その後の2008年7月に2期ビジョン企画委員会が発足しました。私も同友会の立場で委員として2期ビジョンの企画に参加させていただきました。そのお話はまた後でさせていただくとして、私たちが視察した都市の事例を少し紹介させて頂きます。
清渓川復元推進本部 ソウル市HPより | 左写真DISCOVERY Man Made Marvels - Seoul Searching (2005)より |
左右写真ともに平成21年4月関西経済同友会梅田北ヤード委員会第一分科会報告書より(写真提供:隈研吾建築都市設計事務所) |
こうした事例を学びながら、私たちは2期はグリーンパークにすべきだという確信を持つにいたりました。
これは、グリーンパークというものがこれからの都市の価値を決めるものであるという主張を含んでいました。とりわけ今の大阪は政令指定都市の中でも一人当たりの公園面積が極端に少ない都市であり、また高密な梅田地区の中にある最後の一等地なのだから、北ヤードは緑と水のグリーンパークにして大規模な緑地空間を創出すべきだと訴えました。そのためには、1期のような民間事業者に土地価格を競わせる方式でなく、大阪市が土地保有者であるJRTTから随意契約で取得しなければなりません。
そこで6つの資金調達方法も考察して、こういうことをやればグリーンパークが実現できますよと大阪市長に提言しました。
私たちはこの提言を携えて大阪市の平松市長と面談しました。でも、市長は私たちの話を聞くやいなや「お金がありません」と返答してきました。「同友会さんがお金をだすならやりましょう」と。私たちはそうでなくても防災公園への国の補助とか市の資産の流動化など、いろんな資金手当の方法がありますよと提言に盛り込んでお渡ししたにもかかわらず、その一言で終わりました。
私たちは緊急提言の後に本提言もしたのですけど、大阪市はその気になってくれないなと思いまして、別の方法で訴えることになりました。
私たちの委員会の中でもその間、2期区域「全部緑だ」とか「2、3割の緑があればいいんじゃないか」など、いろいろ意見が出て、なかなか意思統一ができなかったのですが、委員会の中で意見集約して、オープンスペースは少なくとも2期地区の3分の2は必要と決めました。
ただ、私たちは、スタジアムはたぶんできないだろう、ワールドカップは招致できないだろう。招致できたとしてもスタジアムはこの街にはふさわしくないと意図的に支持しない姿勢でしたので、原点に返って、空間モデル図を描こうといろいろ模索しておりました。そうしましたら、今日のセミナーの主催者であるJUDI関西の井口さんと千葉さん、斉藤さんがJUDI関西有志として募集事務局を引き受けて下さるというお話になりました。私たちは、21世紀のまちづくり、これからの百年間、大阪の誇りになるべきまちづくりをするべきだと思っていますので、これからの未来を担う若い人たちに絵を描いて欲しい、若い人たちと議論しながら空間モデル図を描きたいと思っていましたので、JUDI関西ブロック有志の方々がお力添えしていただいたのは本当にありがたいことでした。
2010年7月には、モデル図作成チームを公募いたしました。応募資格は35歳までの大学院生、実務家も含むという内容で、ランドスケープデザイナーあるいはその見習いという条件ですが、同友会は予算が乏しく(本当はこういう実情はお話ししたくないのですが…)、作成費数十万円ほどを応募したチームが均等に分けるという条件でした。ですから参加した人たちはもうほとんどボランティアですよね、制作実費も出ない厳しい条件の中、6グループが応募していただいたのですが、最終的には5グループがやってくださるということで彼らに依頼致しました。それが2010年8月で、それから4ヶ月、実質は3ヶ月間で同友会メンバーとも議論しながらモデル図を作っていただきました。
2009年12月に大阪市がスタジアム構想を発表し、2010年12月にはワールドカップは他都市に決まってしまったのですが、私たちはそれとは関係なく作業を進めていきました。2010年7月にはFIFAが大阪に視察に来て、随分話題になっていましたが、私たちはその動きとは関係なくモデル図を作っていこうと進めていき、完成にこぎつけました。そのモデル図が今会場の後ろに展示してあるものです。
5つの作品はどれも大変な力作です。みなさんほとんど研究室や仕事場に缶詰になり、徹夜続きだったとも聞いております。短期間にもかかわらず高い理念の下に、思いのこもった大変素晴らしい立派な図を描いていただきました。
その5つのモデル図を付けて2010年の12月にグリーンパークの実現に市長のリーダーシップを求めるという提言をを発表しました。2011年1月には鳴海先生や佐々木先生、久保先生にもご協力をいただきまして、公開シンポジウムを開催し、広く訴えた次第でございます。
このシンボリックなオープンスペースは、ナレッジ・キャピタル企画委員会では、ニューヨークのブライアントパークをモデルにしたような建物に囲まれた1haほどのオープンスペースを作りたいということで、そういう検討が私たちのモデル図作りと平行して着々と進んでいました。
今1期に事業者が「知の拠点」を作りつつありますが、一方そうしている間にも日本の人口減少が進行しています。関西圏では人口は増えておりません。しかも、相変わらず東京への人口の一極集中が激しく、なおグローバルな都市間競争が激化しています。
そして大阪都心には開発ラッシュが続き、北ヤードを動かそうと思った10年前と比べると、例えば梅田地区にはすでにオフィスのストックは200haあります。そのうえ今後10年間に100haプラスされることになり、これはかなり大変なことではないかという発言が都市計画審議会で出ています。容積拡充の決定がされた都市計画審議会の際には、1期で容積を積み増しということになると都市のインフラを先取りすることになるという指摘があり、2期は当然そのボリュームはかなり低く抑えるべきではないかという発言が委員の一人からございました。
こういうことも考慮し、私たちは1期・2期を全体として魅力ある街を創造していくためには、やはり2期は緑の拠点とすべきだ,、大規模なオープンスペースが必要だと考えた次第です。