梅田北ヤード2期のグリーンパーク構想
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1 梅田北ヤード再開発をめぐる理念

 

篠ア

 今日は、私が「梅田北ヤード2期のグリーンパーク構想」というテーマで報告させていただくことになりました。現在、私は関西経済同友会の「梅北委員会」の委員長を務めております。関西経済同友会が、この梅田北ヤードに関わってから10年になります。私は2001年からこの梅田北ヤードに関連する委員会の委員長として、関わってまいりました。

 昨年には、経済同友会が梅田北ヤードの2期開発に関して5つのモデル図を添えて提言をいたしました。今日はその提言である「グリーンパーク構想」をどのように進めてきたか、それまでの経緯、そして私たちがどのようにグリーンパーク構想を考えてきたかその理念をご説明し、JUDI関西にご助力をいただいたモデル図についても説明していきたいと思います。最後は、これから私たちの思いをどのように実現していけるのかについて、みなさまのご意見も賜ることができればと思っております。どうぞよろしくお願い致します。


■関西経済同友会梅田北ヤードに関する4つの提言

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 この図は、10月3日に撮影したスカイビルの方向からみた梅北です。奥右手は新しい駅北ビルです。奥左側の工事中の建物が1期のビル群です。まだ貨物駅の機能は残っていますけれど、2期区域と1期工事の様子をスカイビルの7階から写した写真です。

 今日はこの再開発事業をめぐる10年あまりの経緯とグリーンパーク構想についてお話しして、その課題を検討していきたいと思っています。

 私が所属しております関西経済同友会という組織は、大阪で活動している経済人の団体ですが、経済人が個人の立場で参加して、個人の立場から関西あるいは日本の発展ために活動していくことを目的にしている社団法人でございます。会員は700名あまりで、いろんなテーマの委員会が20あまり活動しております。その中の「梅北委員会」が梅田北ヤードの再開発に関わっているのです。

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 当初は「大阪活性化委員会」という委員会が、2001年にスタートし、その年の11月には北ヤードを動かそうという緊急提言を発表いたしました。それから10年間ずっと活動して来ました。その中から2008年には「第2期開発区域を水と緑のグリーンパークに」という提言をいたしまして、昨年2010年12月27日にグリーンパークの絵を添えた提言を行ったという流れです。

 こういう活動を行ってまいりました。なぜこういう活動に至ったかを順を追って説明していきます。


■梅田北ヤードに関わる委員会の活動 第1フェーズ

 2001年の頃というのは、俗にバブル後の失われた10年と言っていましたが、本当に日本経済が大変な不況の中にありました。その2年前には山一證券が倒産して、それに銀行の不良債権問題が大変な課題でした。日本経済はこれからどうなるのかという時に、梅田北ヤードの再開発がスタートしたのです。

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 梅田北ヤードそのものは、私たちが活動を始めるより以前の1987年に旧国鉄が民営化されることに伴って貨物駅を廃止し、吹田の操車場跡地に全面移転することが決定されていました。そして梅田貨物駅の用地は国鉄清算事業団に引き継がれることになったのです。しかし、全面移転に対して吹田市で反対運動が起こり、この再開発は14年間ほど塩漬けになっておりました。ちょうどその頃は、バブルがはじけたということもあって、日本中で不動産が不良資産になっていたという状況です。

 しかし、このままではいけないということで、2001年5月7日に当時の小泉首相が所信表明で「都市再生を行うことで経済改革を進める」と発表しました。その翌日には、首相を本部長とする都市再生本部が設置されました。

 私たちの委員会もちょうどそのすぐ後に立ち上がったのですが、私たちは「大阪活性化委員会」という名前で、大阪の都心の再活性化を目指して、都市問題をテーマにした委員会活動をスタートさせたのです。これが2001年6月のことです。

 私たちが活動を始めて、最初に危惧したことは「首相が言う都市再生とは東京再生に過ぎないのではないだろうか」という疑念です。と言いますのも、都市再生と言った時に東京はいろんなプロジェクトをすっと出してきてのですが、大阪はプロジェクト提案がなかったのです。当時の太田房江知事は、国の都市再生本部から「大阪はどんなプロジェクトを出すのか」と問われ、大阪に戻ってから「何でもいいからプロジェクトを出しなさい」と部長級を集めて言ったというのですから、ノーアイデアだったことがうかがえます。私たちは、大阪は都市再生に関して立ち遅れているという意識のもとで、「世界都市・大阪」をつくろうといろんなヒアリングを行いながら、都市再生を考えていきました。

 その中で、私たちは御堂筋が気になっていました。当時は銀行再編によっていろんな銀行が統合されていく時期でしたから、ビルの1〜2階は空室が多くなっていったのです。2001年の御堂筋にあるビルの1〜2階の空室率は12%でした。御堂筋までゴーストタウン化してはいけないと、私たちは都心再生を考えました。

そして、もうひとつ大事なのは、御堂筋と同時に梅田北ヤードでした。24haが手つかずのままある。私たちはこの24haの北ヤードが都市再生のかけ声のもと、例えば汐留のような処分がされたのでは大変なことになる、ばらばらな街ができるという危機感がありました。それで、2001年11月に緊急提言を行って「北ヤードの切り売りを避け一体的開発を」と呼びかけました。

 当時の閣議決定で、北ヤードの土地は2、3年後には売り切ってしまうようにとされていました。当時の不況の中で国が都市再生を言っている中、北ヤードを急いで処分すれば、土地の切り売りになってしまうのではないかという危惧があったのです。ちょうど汐留がそんなふうに1区画ごとに土地が売られ、高層ビルがどんどん建ちつつある時期でした。汐留のビルひとつひとつは大変立派なものですけれど、街としてはどうなのか。こうした汐留の状態を私たちは反面教師として捉え、北ヤードも同じような土地の切り売りをしたのでは大阪の顔になる大事な土地がとりかえしのつかないことになると考えました。むしろ百年先にも誇れるようなまちづくりをするために、ここを大阪の都心再生の最重要プロジェクトとして捉え、計画的に一体的な土地利用を図っていきたいと考えたのです。土地の切り売りを回避し、公的な機関によって土地を一括取得し、プロジェクトを推進する協議会を早急に立ち上げて欲しいとするこの緊急提言を2001年11月に発表したところです。


■大阪都心再生のための提言

 その後も、大阪市や大阪府などいろんなところに働きかけました。関経連の秋山会長にもお願いして、懇談会をつくることをお引き受けいただき、2002年3月には「大阪駅地区都市再生懇談会」が発足いたしました。ここには府、市、経済団体、当時の都市再生機構(URの前身)にも参加してもらいました。

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 また北ヤードの土地は国鉄の資産処分委員会で処分が決まるということでしたから、国鉄民営化をされて債権監理委員会委員長をされていた亀井正夫さんや、小泉首相のブレーンとして都市再生戦略チームの座長をされていた伊藤滋さんにも働きかけました。伊藤さんは当時、国鉄資産処分委員会の委員長もされており、私たちは経済界の立場から北ヤードをぜひ動かしたいと訴えました。

 亀井さんにお会いした時は、吹田が反対しているから北ヤードは動かないとおっしゃったのですが、私たちは吹田市長とお目にかかっており、市長からは「全く反対する気はない」と聞いていました。当時の阪口吹田市長が「吹田の操車場跡地は北摂の顔になるようなまちづくりをしたいと思っている。そのためには北ヤードの機能も引き受けるけど、まちづくりのために関西をあげてバックアップして欲しい」とおっしゃっていました。そういうことであれば、私たちも北ヤードの再開発推進と吹田のまちづくりに力を尽くしましょうと話し合いました。そのことを東京で亀井さんに伝えまして、北ヤード再開発の動きが出始めたわけでございます。

 このように土地保有者へも働きかけながら、また国の都市再生本部にも働きかけ、私たちは2002年4月に「新世紀の都心創造〜大阪都市再生へ」という提言を行いました。この提言でイメージしている大阪都心のビジョンとしては、(1)水都・大阪、(2)生活首都・大阪、(3)商都・大阪、(4)観光都市・大阪、(5)知識産業都市・大阪というもので、御堂筋とその周辺の活性化を主張致しました。御堂筋、道頓堀、水辺、北ヤードそれぞれの提言をいたしております。

 北ヤードの開発については、先ほども申しましたように土地保有は長期的なまちづくりが考えられるよう、公的なところが保有すること。そして国際コンペでマスタープランを作り、プロジェクトとして早く立ち上げ、市民参加のまちづくりのムーブメントを盛り上げようという提言内容でした。

 これを受けて、何よりも必要だったのは大阪市のリーダーシップです。当時は磯村市長でしたから、磯村さんに市長直轄の「大阪市都市再生本部」を作って欲しいと提言しました。その提言書を市長に手渡し、それから3ヶ月後の2002年7月に市長を本部長とする「大阪市都市再生本部」が創設されました。

 私たちが5月に市長にお会いした時には、市長は大阪市だけで都市再生本部を作っても仕方ないから京都、神戸と一緒に3都市で「京阪神都市再生本部」を作りたいとおっしゃっていたのですが、2002年7月に国から大阪の「都市再生緊急整備地域」が指定されたことからこの「大阪都市再生本部」が設置されたというのがその時の経緯でございます。


■北ヤードが「都市再生緊急整備地域」に

 こうして、北ヤードを含めて大阪の都心が「都市再生緊急整備地域」に指定されました。都心の大阪駅周辺、中之島、御堂筋周辺、難波、阿倍野、南港、このあたりが市内で緊急整備地域に指定されたところです。

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 ここでちょっと都市再生のおさらいをしておきますと、その考え方は小泉首相が「官から民へ、国から地方へ、構造改革を」と言ったように、その構造改革の一環として民間の力を都市再生に生かすことが決め手だと言えるでしょう。それまで地方に手厚く振り分けられていた投資を都市に振り向けよう、それも民間の力で。そして官は民間の力を都市再生に振り向けるために必要な都市基盤を重点的に整備してバックアップしていく。つまり、20世紀の負の遺産を解消し、21世紀の新しい都市創造に向けていくことをプロジェクトの視点とする発想でした。

 この緊急整備地域に指定されると、民間事業者は都市計画の提案ができ、都市再生の特別地区としていろんなメリットがあります。これは後ほど詳しく説明します。それから、6ヶ月間で都市計画決定ができるという非常にスピーディな事業展開ができる体制になります。また民間事業者への金融支援もありますし税制の措置もあるという、都心再生を緊急に推進していくためのメニューが揃っている制度です。

 ここまでが、梅田北ヤードに関わる第1段階です。それまではなかなか動かないと思われていました。何故かというと、貨物ヤードの機能を大阪市は吹田市に移転させたい、吹田に100%持ってほしい、しかし吹田市にとってそれは迷惑施設になるという考えが大勢だったからです。それを本来調整するのが大阪府の役割だったのですが、府は大阪市マターだとしてやりたがっていなかったということもあったと思います。その中で、吹田市に半分、大阪市は百済に半分持っていこうということまで、吹田市長さん等との話し合いの中で決めて、それで動くようになりました。


■梅田北ヤードにかかわる委員会の活動 第2フェーズ

 私たちは、これで自分たちの提言をもっていろんな関係機関に働きかけた結果動き始めたと思いました。これからはそれぞれのプレーヤーに動いていただこうということで、2002年6月からはフォローアップ活動をしていくために大阪活性化委員会を「梅田北ヤード研究会」という名称に変え活動をつづけました。

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 2002年7月に大阪市長が「都市再生本部」を設置されてからは、「大阪駅地区都市再生懇談会」が「大阪駅北地区まちづくり推進協議会」へ名称変更されて、国際コンセプトコンペが2002年9月に実施されました。コンペの入賞作品が決まって、市が2003年10月に全体構想を発表、2004年7月に基本計画を発表、同年11月には推進機構の発足、同年12月に区画整理等の都市計画決定と順調に動いているようでした。

 その間、私たち同友会も提言を最初に行った責任から、大阪駅地区再生懇談会やまちづくり推進協議会にメンバーとして参加しながら、意見を述べたりフォローアップをしてまいりました。

 ただ国際コンペはすぐに実施してもらったのですが、その後の動きが先行開発地域だけを考えているように見えました。ですから、まずは全体のコンセプトをつくり、民間だけでやっていくのではなく公共のかかわりやファイナンス面も含め市民参加など開かれた形での推進が必要ではないかと考えながら各界にフォローアップとしての意見提出などを行っていた次第です。

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 その中で都市計画が決まり、2006年に入ると、民間事業者を募集することになりました。みなさんご存知だと思いますが、2006年5〜10月にかけて先行開発地域のBブロック、A・Cブロックそれぞれの事業者を募集し、5月にBブロックがオリックスを代表とするグループに、つづく11月にはA・Cブロックが三菱地所を代表とするグループに決定致しました。土地の引き渡しは翌2007年6月に行なわれています。

 その後、2008年2月に先行開発地域の都市計画案が決まってくるという経緯ですが、この間のいきさつについて少し詳しく話させていただきます。


■大阪北地区国際コンセプトコンペの実施

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 まず、2002年の国際コンペにはみなさんご関心があられたり、参加された方もいらっしゃるかと思います。これは国際レベルで21世紀のモデルとなるまちづくりを推進し、優れたアイデアを世界から集め、大阪のまちづくりについて情報発信をしたいということで国際コンペが企画されました。

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 2002年12月から翌2003年1月までの期間で、条件は一般公開競技・24ha全体を対象とし、提案内容はコンセプトと土地利用、施設や機能、都市環境アーバンデザインが要求されました。コンペ委員長には元大阪大学総長の熊谷先生、委員には今日もお見えになっている鳴海先生を含め14名で審査をしていただきました。このコンペには海外からも含め1千近い作品が集まり、その中から3作が優秀賞に選ばれました。そして、この応募作品全ては、中之島公会堂で披露され、中でも優秀賞作品の展示が大阪ターミナルビルで実施されました。

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 大変たくさんの応募があり、優秀賞作品、入賞作品それぞれに特徴があるのですが、共通していたのは「水と緑」をふんだんに取り込んだまちづくり提案だったと私は受け止めています。

 もうみなさんご存知でしょうが、日建設計の林直樹さんのチームが「Metropolitan Compost平成のまちづくり」のテーマで優秀賞を取りました。これは淀川から水路を引いて、街をかなりフレキシブルにコンポスト化して作り、街の発展にあわせて更新もうまくできるようにするというものでした。桜並木を街全体に植え、その並木を淀川までつないでいこうという提案でした。

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 上は白井順二さんの提案で、同じく優秀賞です。森ビルの社長さんがこのコンペのためにアメリカにおられた白井さんを呼び戻して、参加させたと聞いております。白井さんは「浪速の万華鏡ルネッサンス」というテーマで、水路に浮かぶ6つの島をイメージした「水都」の絵を描かれています。水路に浮かべたボートで街を行き交うという大胆な発想ですが、水都大阪の新しいまちづくりが評価されました。後ほど白井さんからお話をうかがう機会があったのですが、このコンセプトは地上から車を排除し水路をめぐらせるということでした。

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 これはアルゼンチンからの応募で、Mario Robertさんによる「ALVAREZ」という作品です。森を街に取り込んで高層ビル群の間に大きなオープンスペースを設けています。ビルの外だけでなく中にも上にも緑を取り込むという提案でした。大変ユニークな発想が評価されました。


■大阪駅北地区全体構想

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 コンペの6ヶ月後に大阪市が策定した「大阪駅北地区全体構想」(2003年10月策定)についてですが、私たちはコンペで素晴らしい提案を見た後でしたから、この全体構想は凡庸で20世紀の都市開発の発想だなあという印象を抱きました。

 全体構想では東西南北に十字の道路を入れて、それを中心に緑と水の軸線にしながらビジネスゾーン、商業、住居、やすらぎ・文化ゾーンを複合させていくというものです。


■大阪駅北地区まちづくり基本計画

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 全体構想をうけて、2004年7月に策定された「大阪駅北地区まちづくり基本計画」が全体の基本計画になるわけですが、(1)世界に誇るゲートウエイ、(2)賑わいとふれあいのまちづくり、(3)知的創造活動の拠点(ナレッジ・キャピタルづくり)、(4)公民連携のまちづくり、(5)水と緑あふれる環境づくりを柱としています。


■基本計画のイメージ

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 土地利用のゾーニングは、1期の7haには、駅前に人の広場を作り、賑わい・商業・ナレッジ・ホテルゾーンを作っています。2期にも地下の新駅上に駅前広場、将来の道州制にも対応できる広域の行政機能、ナレッジとしての大学院、ホテル、住宅のゾーニングがなされています。南北の軸はシンボルとして水と緑のあふれる軸にして、東西軸を賑わいの軸として位置づけています。

 私が注目した「水と緑」については、基本計画ではこのようにシンボル軸から敷地内に水を引いていく、シンボル軸は40m幅で、その中の歩道部分とセットバックした敷地部分に3列の街路樹を植えて緑の軸にするという絵でした。 国際コンペの絵と比較すると、基本計画はずいぶん後退したと実感した次第です。


■1期先行開発地域 事業者募集・選定

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 基本計画が発表された後、事業者が募集されました。募集の際の事業者の応募案というのは、「ナレッジ・キャピタルという創造の都を作り、Aブロックには商業とオフィス、Bブロックにはナレッジとオフィス、Cブロックには住宅、ホテル等」ということでした。

 この提案は、Bブロックのナレッジのところはオリックスが代表企業になっています。AとCは三菱地所が代表企業になって12社のディベロッパーが組んだチームになっています。今はテレビや新聞報道でよく見かけるので、上の完成予想図1期グランフロント大阪の図はご存知だと思いますが、応募案からは容積が拡充されています。この完成予想図は駅の北口広場と南北軸方向から見た絵です。


■都市計画の変遷

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 私たち同友会としてはこの間、フォローアップしておりましたが、その推移についてかいつまんでお話ししました。その中で2期を考えるにあたって、私たちが注目したことを少しお話ししておきたいと思います。

 それは、都市計画の中で容積率がどんなふうに拡大してきたかということです。

 区画整理の都市計画は2004年12月に決まっておりましたが、2006年2月に先行開発区域の地区計画、用途等が決まりました。それから事業者を募集したわけですが、都市計画では駅に近い方からA、B、Cブロックとなっています。それぞれの土地所有者はゾーニング計画に合わせて、Bブロックはナレッジ・キャピタルを作ることでURがディベロッパーとなって民間事業者に分譲するということになっておりました。容積率は駅に近い方から800%、600%、600%と決められていました。これに敷地面積をかけて、全体として考えると3ブロック計で660%の容積で都市計画決定されましたが、募集の際に「都市再生特別地区を申請すると、上限400%を目安として容積率積み増しを提案できる」との条項がつけられました。

 ですから、この条項が追加されたので応募案はブロックごとに1200〜800%の容積率になりました。複数のグループが応募されましたが、実際に採用されたオリックス、三菱地所の提案は1200、1000、800%になり、延べ床面積37万5千平米、全体容積が3ブロック計で1000%でした。

 それから、開発事業者が応募案の建築計画の見直しを求めたため、都市計画審議会が延長されることになりました。その後、平松さんが市長に就任された後の翌2008年2月の都市計画審議会で容積率を拡充することが採決されました。

 先ほどの完成予想図は公表されている資料から推計すると、Aブロックが1600、Bブロックが1150、Cブロックが1150、3ブロック計で延べ床48万平米、平均容積率は1280%になっています。それぞれの建物は立派な建物で、4棟のデザインは調和がとれ、一体的な街になってるのですが、かなり高密度になっています。

 こういう風に先行開発区域の全体の容積が変わっていきました。


■21世紀まちづくりの理念の模索 第2〜3フェーズ

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 私たちはこの間ずっとフォローアップをしながら、ウォッチャーの立場で国際コンペの入選者に21世紀のまちづくりの理念はどういうものかをヒアリングをしたり、国内外の先進事例を見学していました。私たちは経済人でまちづくりの専門家ではないのですが、21世紀の都市のキーワードは自然回帰であり、水と緑が都市の誇りとなる空間を作っていくことがまちづくりに求められていることを強く感じるようになりました。

 私たちは、1期と2期合わせて「水と緑あふれる風格あるまちづくり」を進めて行かねばならないと考えています。そういう意味で2期のコンテンツや都市デザインがかなり重要になってくると感じていた次第です。

 その時に容積率拡充の都市計画変更が決まり、1期の姿がはっきりしたわけです。容積拡充の理由はナレッジ・キャピタルという非収益施設を運営するには、収益源となるオフィスや商業などの床を広く確保しなければならないためと大阪市は説明していますが、民間事業者に土地価格を競わせる処分方式という事業スキームにその原因があると思います。その後の2008年7月に2期ビジョン企画委員会が発足しました。私も同友会の立場で委員として2期ビジョンの企画に参加させていただきました。そのお話はまた後でさせていただくとして、私たちが視察した都市の事例を少し紹介させて頂きます。

事例1 チョン・ゲ・チョン(韓国・ソウル)
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清渓川復元推進本部 ソウル市HPより 左写真DISCOVERY Man Made Marvels - Seoul Searching (2005)より
 
 まず、韓国ソウル市のチョン・ゲ・チョンの事例です。都心の高架道路を撤去して、その下に埋められていた水路を再生し、水と緑の空間を都心によみがえらせました。6km近くに及ぶ再開発でした。

事例2 ビッグディッグ(アメリカ・ボストン)
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 ビッグディッグは十数キロに及ぶ再開発です。ここは都心とウォーターフロントを結ぶ間にあった高架の幹線道路を取り払って地下に入れ、地上は公園としています。ローズガーデンと呼ばれて、ずいぶんと賑わっているのはもうみなさまよくご存知と思います。再開発の結果、高架道路に面していた時代とは違って、公園の回りには風格のあるホテルや高級レストランがどんどんオープンして賑わっている状況も見てきました
事例3 ミレニアムパーク(アメリカ・シカゴ)
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左右写真ともに平成21年4月関西経済同友会梅田北ヤード委員会第一分科会報告書より(写真提供:隈研吾建築都市設計事務所)
 
 また、21世紀都市のあり方の先進事例として、東大の石川幹子先生や建築家の隈研吾氏やまちづくり、建築家の方々から、シカゴのミレニアムパークやシアトルのオリンピック・スカルプチャー、パリのレ・アール再再開発、マレーシアのジョホールパルなどの例を教えていただきました。

事例7 ハイライン(アメリカ・ニューヨーク)
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 またニューヨークのハイラインは、廃線となった高架鉄道の軌道敷きを活用し、高密度な都心にオープンスペースを創り出し、地域の魅力を高めて周辺が変貌してきているのも視察してまいりました。

 こうした事例を学びながら、私たちは2期はグリーンパークにすべきだという確信を持つにいたりました。


■2期グリーンパークへの確信 第3フェーズ

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 ちょうど2008年7月から2期ビジョン企画委員会が検討を進め、翌2009年3月に2期ビジョンをまとめる予定になっていました。それに間に合うように、2期は「水と緑のグリーンパークに」という2008年9月の緊急提言を出しました。

 これは、グリーンパークというものがこれからの都市の価値を決めるものであるという主張を含んでいました。とりわけ今の大阪は政令指定都市の中でも一人当たりの公園面積が極端に少ない都市であり、また高密な梅田地区の中にある最後の一等地なのだから、北ヤードは緑と水のグリーンパークにして大規模な緑地空間を創出すべきだと訴えました。そのためには、1期のような民間事業者に土地価格を競わせる方式でなく、大阪市が土地保有者であるJRTTから随意契約で取得しなければなりません。

 そこで6つの資金調達方法も考察して、こういうことをやればグリーンパークが実現できますよと大阪市長に提言しました。

 私たちはこの提言を携えて大阪市の平松市長と面談しました。でも、市長は私たちの話を聞くやいなや「お金がありません」と返答してきました。「同友会さんがお金をだすならやりましょう」と。私たちはそうでなくても防災公園への国の補助とか市の資産の流動化など、いろんな資金手当の方法がありますよと提言に盛り込んでお渡ししたにもかかわらず、その一言で終わりました。

 私たちは緊急提言の後に本提言もしたのですけど、大阪市はその気になってくれないなと思いまして、別の方法で訴えることになりました。


■2期グリーンパークを主張 第4フェーズ

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 2008年にスタートしたビジョン企画委員会が、2009年7月に大阪駅北地区の2期ビジョンとして環境をテーマにする街づくりビジョンをまとめましたが、その中に都市空間デザインの言及はなく、緑も真ん中に1haぐらいが想定されているだけです。また、駅に近いゾーンは土地の高度利用を図ると明記されました。そこで、私たちはこのまま進んでは大変なことになるという危機感から、私たちのグリーンパーク構想を世の中に認めてもらい世論喚起をして市長を動かしたいと思いました。それにはイメージの共有が必要であることから、モデル図を描くべきではないか、都市空間モデル図を描こうと決めて、2009年に2期ビジョンが発表されてから半年あまりいろいろと検討し準備しました。

 私たちの委員会の中でもその間、2期区域「全部緑だ」とか「2、3割の緑があればいいんじゃないか」など、いろいろ意見が出て、なかなか意思統一ができなかったのですが、委員会の中で意見集約して、オープンスペースは少なくとも2期地区の3分の2は必要と決めました。

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 その年の12月、2009年12月に大阪市が突然、ワールドカップを招致するために、2期区域にスタジアム構想を発表されました。青天の霹靂だったので、同友会はスタジアム構想には賛成しませんでした。それまでに、グリーンパークのイメージ図を描くべきだと考え、日本都市計画学会関西支部の方に内々にお話を進めて、準備を整えてきたのです。ところが、2010年4月になって「やはりこのお話はお受けできない」と。「大阪市がスタジアム構想を進めている中、若い人たちに大阪市の構想に反するような絵を描かせることはできない」という役員会の決定で断られました。

 ただ、私たちは、スタジアムはたぶんできないだろう、ワールドカップは招致できないだろう。招致できたとしてもスタジアムはこの街にはふさわしくないと意図的に支持しない姿勢でしたので、原点に返って、空間モデル図を描こうといろいろ模索しておりました。そうしましたら、今日のセミナーの主催者であるJUDI関西の井口さんと千葉さん、斉藤さんがJUDI関西有志として募集事務局を引き受けて下さるというお話になりました。私たちは、21世紀のまちづくり、これからの百年間、大阪の誇りになるべきまちづくりをするべきだと思っていますので、これからの未来を担う若い人たちに絵を描いて欲しい、若い人たちと議論しながら空間モデル図を描きたいと思っていましたので、JUDI関西ブロック有志の方々がお力添えしていただいたのは本当にありがたいことでした。

 2010年7月には、モデル図作成チームを公募いたしました。応募資格は35歳までの大学院生、実務家も含むという内容で、ランドスケープデザイナーあるいはその見習いという条件ですが、同友会は予算が乏しく(本当はこういう実情はお話ししたくないのですが…)、作成費数十万円ほどを応募したチームが均等に分けるという条件でした。ですから参加した人たちはもうほとんどボランティアですよね、制作実費も出ない厳しい条件の中、6グループが応募していただいたのですが、最終的には5グループがやってくださるということで彼らに依頼致しました。それが2010年8月で、それから4ヶ月、実質は3ヶ月間で同友会メンバーとも議論しながらモデル図を作っていただきました。

 2009年12月に大阪市がスタジアム構想を発表し、2010年12月にはワールドカップは他都市に決まってしまったのですが、私たちはそれとは関係なく作業を進めていきました。2010年7月にはFIFAが大阪に視察に来て、随分話題になっていましたが、私たちはその動きとは関係なくモデル図を作っていこうと進めていき、完成にこぎつけました。そのモデル図が今会場の後ろに展示してあるものです。

 5つの作品はどれも大変な力作です。みなさんほとんど研究室や仕事場に缶詰になり、徹夜続きだったとも聞いております。短期間にもかかわらず高い理念の下に、思いのこもった大変素晴らしい立派な図を描いていただきました。

 その5つのモデル図を付けて2010年の12月にグリーンパークの実現に市長のリーダーシップを求めるという提言をを発表しました。2011年1月には鳴海先生や佐々木先生、久保先生にもご協力をいただきまして、公開シンポジウムを開催し、広く訴えた次第でございます。


■2期ビジョン

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 2期に関しては、私たちがモデル図を作っている間にも関係機関が着々と話を進めていっていました。先ほど2期のビジョン企画委員会の提案で、2期は環境をテーマとする開発であることが決定されたと申し上げましたし、それを受けて2010年3月には2期のナレッジ・キャピタル企画委員会が報告書を取りまとめて「シンボリックなオープンスペースは環境について学ぶエンターテイメント空間や企業のプロモーション空間とすることが求められる。一般的な広場や公園とは違って柔軟な利活用が可能な仕組みやルール作りを検討する必要がある」と提言しました。

 このシンボリックなオープンスペースは、ナレッジ・キャピタル企画委員会では、ニューヨークのブライアントパークをモデルにしたような建物に囲まれた1haほどのオープンスペースを作りたいということで、そういう検討が私たちのモデル図作りと平行して着々と進んでいました。

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 私たちの提言をここでもう一度整理しておきます。2期ビジョンに求められることは、北ヤード全体としては、都心再生で大阪の活性化を促すということがあげられます。水と緑のコンペの精神を継承する都心を創造したいということです。

 今1期に事業者が「知の拠点」を作りつつありますが、一方そうしている間にも日本の人口減少が進行しています。関西圏では人口は増えておりません。しかも、相変わらず東京への人口の一極集中が激しく、なおグローバルな都市間競争が激化しています。

 そして大阪都心には開発ラッシュが続き、北ヤードを動かそうと思った10年前と比べると、例えば梅田地区にはすでにオフィスのストックは200haあります。そのうえ今後10年間に100haプラスされることになり、これはかなり大変なことではないかという発言が都市計画審議会で出ています。容積拡充の決定がされた都市計画審議会の際には、1期で容積を積み増しということになると都市のインフラを先取りすることになるという指摘があり、2期は当然そのボリュームはかなり低く抑えるべきではないかという発言が委員の一人からございました。

 こういうことも考慮し、私たちは1期・2期を全体として魅力ある街を創造していくためには、やはり2期は緑の拠点とすべきだ,、大規模なオープンスペースが必要だと考えた次第です。

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