質疑応答
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鳴海:
ええ、淡路、四国、岡山、広島あたりから大坂に魚を送ってくるのだから、料理に関しては凄かったはずです。大坂人は相当食いしん坊ですよね。だけど、近場で捕れる魚はたいしたことはない。村々の神社にお祭りで奉納される魚もボラなどの川魚が多かったようです。今はそういう傾向が弱まっているようです。
鳴海:
もちろん他にもたくさん漁をしていた村はあったと思うのですが、税金を払わない村だったのです。つまり、あまりに漁村同士がもめるからある時から許可制になったのですね。五カ村は許可を得た漁業者の集まりだったのです。
杉本:
無許可営業に対しては、取り締まりもしていたのですか。
鳴海:
新田の開発が進み、人口が増えてくると、無許可で漁をする者がでてくる。そうすると許可を得ている五カ村が訴え出る。そこで禁止令が出される。漁民同士でしょっちゅう漁場争いで喧嘩になり、神社などが間に入って仲裁することがあったようです。特に、尼崎や堺の漁民とはよくいさかいがあったようです。
杉本:
後からその五カ村組合に入ろうとした村はなかったのでしょうか。ずっと200年以上もこの五カ村だけの組合だったのですか。
鳴海:
その本によると、そう書かれていましたね。明治に博覧会に出品された「摂津国漁法図解」にその頃漁業をやっていた老舗の人たちの名前が記されており、五カ村が中心になっていますから、そうだったと思います。
杉本:
陸の方はどんどん地図が変わっているのに、漁業の組織は200年も変わらなかったということですね。
鳴海:
この絵図を研究している仲間の一人が、そのテーマに取り組んでいます。兵庫県立大学の田原先生が、考察しています。神社とお寺がどう造られていったか。神社とお寺が地図に記載されているのは、その埋立地の村に人が定着したということになります。いずれ発表されると思います。
木下:
ありがとうございます。
鳴海:
野村さんの本にはその辺はあまり書かれていないのですが、五カ村以外にも漁をやっている人はいっぱいいて、そういう人たちが集まって暮らす村もあったろうし、舟に住んでいたという人たちもいたでしょう。佃村・大和田村に雇われて漁をしている人はたくさんいました。しかし、そういう人たちは免許を持っていないから、はっきりしたことが分かりません。でも、そういう人たちがたくさんいたことは感じられます。
確か、大阪のどこかの高校の先生が家舟の研究をされていたはずです。あまり古いことは分からないですが、五カ村の周辺にそのような人たちが存在していたことは確かだと思います。ただ、立場としては免許を持っていた漁民の方が強かった。
大坂の陣で負けた人たちが漁村に逃げ込んだという話もあります。雑兵の子孫がずっとそこに住んでいた可能性もあります。漁村は、そこに暮らすだけでなんとか食べていけますからね。生きることに関しては強いのは漁村だったと思います。
鳴海:
それも別の人が研究しています。まだ、この研究はまとまっていないので、また後日研究成果をご報告したいと思います。
安治川を開削したときの様子がなかなか面白いです。人夫をいくつかのグループにわけ、まず島の中央に幅約150メートルほどの深い溝を掘り、その両端を土で固めて作業中の湧水をここに集め、水車でこれを汲みあげ排水。深くなるにつれて、梯子をかけて土砂を運びあげた。水路の開削が終わると、両岸に堤防を作り合図とともに両端の堰を撤去したということです。
絵図を見ると、堤を作っている所には寸法が書いてあります。断面が大きな台形になっています。場所によって作り方はいろいろあったのだろうとは思います。
地図をもとに何人かで手分けしていろんな研究をされているというお話ですが、どういうテーマでされているかを、簡単に教えて頂きたいと思います。
鳴海:
年代を追っていろんな種類の絵図がありますので、まずはその整理から始めています。
1)ひとつには、寸法が描かれている絵図もいくつかあって、ここの埋め立てはこういう堤防を作ってやったなどが読みとれますので、なるべくそういうのを重ねながら埋め立ての実態がどう推移したかを明らかにしようとしています。これは大阪府立大の上甫木先生が進めています。
2) それから、先ほど言いました神社の研究は兵庫県立大の田原先生がされています。そもそも田原先生の関心は、治水や河川が土砂で浅くなるのを防ぐために埋め立てをするのは理解できるが、土地自身はあまり生産性は良いとは思えない。埋め立てても良田ができるわけでもないのに、なぜ町人が請け負って埋め立てていく構造になっていくのかという所にありました。それを知りたいというきっかけで調べだしたのですが、今までのところまだ、神社とお寺の話を整理している段階です。
3)次は、内陸の方の話です。明治に作られた陸軍陸地測量部地形図と比較すると、古い絵図には記載されてない村がけっこうあることが分かったんです。内陸でも農地開発が進んでいったのだろうと推測され、内陸の村の変遷も農業の変化と合わせて追跡しようという研究をされている人がいます。これは阪大の柴田さんがされています。
4)内陸の話のもうひとつは、大和川の付け替えに関連したことです。旧大和川河道や
新開池、深野池が埋め立てられて、その後田畑になりました。それも段々市街化して住宅地になっていくんですね。そして、川の流路の形や池の形がそのまま町の形になっているんですよ。それを関西大の岡先生が追求しています。
5)そういう研究と、僕が今お話しした「釣りと漁業」の研究があります。
計5本の研究になります。サントリー文化財団から助成金をもらってやりました。と言いましても、まだ全体の成果は出ていなくて、今日はその中間報告だと思って下さい。
この研究には、もう1人地理の人も参加しています。その人の関心は、主要な地図をデジタル上で重ね合わせることです。ある地点を選ぶといろんな時代の地理が見られるようにして、古い地図から大坂を読み解く仕組みを作ろうとしています。いろんな人がそれを使うと、大坂のイメージが膨らませることができると思います。
鳴海:
沿岸というか縁(へり)のところにいる魚は、僕はあんまり好きじゃないんですよ。東北の人間は、あまりそういうところの魚を食べないんです。だけど、大阪湾で捕れる魚は江戸の方とそう変わらないんじゃないですか。
井口:
でも、江戸の人間は「江戸前」と言って、ありがたがって食べていたわけですよね。
鳴海:
コハダとかキスもそうですね。
井口:
アナゴも関西のとは違っていて、江戸の寿しや天ぷらには江戸前のアナゴが美味しいという話ですし。江戸前のエビも天ぷらには欠かせないですし。そんな風に、江戸の魚は江戸の料理と結びついているんですよね。佃煮も佃村の人間がつくったわけでしょう。魚の文化が江戸にはあるように思います。
鳴海:
いや、大阪にもあったと思いますよ。ただ、調理の仕方が違うんじゃないでしょうか。
井口:
江戸前と言われるように、大阪湾の魚は良いんだぞと言うような感覚はなかったと思います。
鳴海:
確かに、いろんな文献を読んでもそういう言い方は出てきませんでした。だから、きっと大阪は西国一帯から魚を集めているから、感覚的に違うのでしょう。
前田:
その頃の大坂人は金があったからじゃないのですか。江戸はそこまで贅沢をしてなかったのかもしれません。
鳴海:
なるほど。贅沢と言えば贅沢ですよね、あの魚が運ばれてくる地域の広がりは。
鳴海:
江戸の釣りは、川、河口部、掘り割りでも釣りをしていたようです。東京湾に出ていって釣りをする絵もありました。
田中:
江戸が舞台の時代小説を読んでいると、よく移動の手段として、掘り割りから船を雇って海へ出ていくという話が出てきます。日頃から海に出る手段があったので、釣りもしていたのかなと思ったのですが。
鳴海:
釣りを研究して、小説も書いている人が、移動手段の舟と釣り用の舟についての本を書いています。結構面白い本でした。日本の釣り文化について何作か書いている人です。その人の本の中にも、大阪の事例はなかったんですよ。(江戸の舟の利用と釣りの関係については、下記の小説にリアリティがあります。長辻象平『闇の釣人(つりゅうど)―本所深川七不思議異聞』講談社)
田中:
人の移動手段が、案外市街地の中ではなかったということもあるんでしょうか。
鳴海:
江戸の場合は、川から一度海に出てそれから目的地に行くというのは、湾の形も関係しているのかもしれませんね。
鳴海:
ひとつは、魚の捕れる漁場はみんなが行きたいところなので、混乱を避けるために、この村はここへ行けなど漁場の指定はされていたようです。もうひとつ、河川改修などをしている工事現場で漁をしてはいけないという決まり事がありました。その時々で、いろんなお触れが出されていましたが、それを率先して守っていたのが五カ村だと書かれていました。
漁業者ならみんな良い漁場に行くでしょう? しかし、誰かが決まりを守らないと示しがつかなくなるからという理由もあって、組合が出来たのじゃないかと思っています。
鳴海:
そういう特権を持っていたのは佃村と大和田村だけだと思います。
前田:
回りの五カ村も、近場だけじゃなくてけっこう遠くまで行っていたんじゃないのですか。
鳴海:
堺、尼崎ぐらいまでは出かけていますが、そこでしばしば喧嘩になったようです。
前田:
そういう特権を持たない人たちも随分いっぱいいて、そういう人たちは雇われ人という位置でしか働けなかったということですね。
鳴海:
そのようですね。
角野:
先ほどの地図を見ると、尼崎城はすぐ海の横にありますよね。城のすぐそばで漁業者が好き勝手していて大丈夫なものだろうかと思いました。つまり、尼崎のテリトリーと浪花の漁民との間では、どんな関係にあったんだろうかということなんですが。
鳴海:
記録によると、浪花の漁民は尼崎の連中とよく喧嘩していたようです。だから、この辺で漁をしてもお咎めは受けなかったのかもしれない。
角野:
あまりに城のすぐ側ですよね。下屋敷もすぐそこです。
田中:
だけど、今の感覚でも神崎川の河口からは実際はけっこうな距離だと思いますけど。
前田:
でも幕府の立場としては、ある程度強い方に税金をかけて公認することになるんでしょう?
角野:
尼崎の立場として「ウチのシマで何すんねん!」と言わなかったのかな。
田中:
この時期、尼崎藩の領主は青山家でして、絵図にはあまり明解な書き方はしなかったのかもしれません。
前田:
つまり、尼崎城は本当よりも大きく書かれているということですか?
田中:
絶対ということは言えませんが、おそらく可能性としてあると思います。
井口:
絵図の縮尺はかなり正確ですか?
鳴海:
かなり正確です。特に大坂の市街地部分は。また埋立て部分も寸法が書いてありますから、部分部分は正確だと思います。最初、この研究をする時、現代の地図に合わせて歪ませようとしたのですが、地理学の人がそれに反対しました。昔の人が作った図を歪ませるのはイヤだと言って、そのまま使うことになりました。地点を選べば、歪ませなくても大体分かりますので。
大阪湾岸部とは、要するに汽水域なんですよね。浅瀬がいっぱいあって、川の上流から真水が流れ込むところです。汽水域が網の目のように広がっている中で、汽水域に生息する魚たちと回りの漁民達がどう関わっていたのかという「汽水域と土地と海、魚との関係」がどういう風景を生み出していたかというお話だったと思います。僕は汽水域の風景を思い浮かべながら聞いていました。
汽水域が徐々に市街地に飲み込まれて、市街地がどんどん海に近づいていく中で、いろんな時代の漁業文化が次第に封じ込められて、陸地の中に残っていくという話でもあったと思います。陸地の中に残った漁業の記憶というものを、僕は無理矢理環境デザインにつなごうとしているんですけども、そこに何か面白いヒントはないかと思っていました。
また汽水域を埋め立てていく時に、非常に良い漁場が出来てしまうというお話も出ました。埋め立てていくプロセスの中で様々な付随的に出てくるというお話も面白くお聞きしました。
さらに、佃村・大和田村の特権は例外なのかもしれませんけれど、漁業をしている連中はかなりの広域性があるなあと思います。有名な話としては、東京の佃島はこちらの佃の人間が移り住み、そこで佃煮を広めたということがありますよね。広域性のあるネットワークの中で動き回って、いろんなものを伝えていく、作っていくという話にも気がつきました。
ただ、尼崎あたりから西が海岸線にしても海岸の使い方にしても、大阪湾とは違ってくるのかなという気が改めてしました。汽水域がなくなっていく辺りから獲れる魚や町の形、漁業の形が変わっていくのかもしれません。だから地方に行くと、美味い魚が出てくるらしい…。そういう意味でも、僕は尼崎が気になったというところでコメントを締めくくりたいと思います。
鳴海:
尼崎の漁業の資料も残っています。堺、淡路、尼崎の漁民たちが、大坂の漁民とはまた違った形で海の魚を獲って、大阪に売りに来ていたのでしょうね。
司会(前田):
みなさん、ありがとうございました。これで今日のセミナーを終わります。