バルセロナ旧市街の再生
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質疑応答

 

 

■受け皿住宅の権利関係、補償、受益者負担について

角野(関西学院大)

 多孔質化では、オープンスペース化していって、そこに住んでいた人たちにはちゃんと受け皿住宅が用意されているというお話でした。しかし、とは言うものの、元々非常に権利関係がややこしいところで、地主は地区外、又貸しの又貸しという状態でしたよね。そういう中で権利の整理やちゃんとした補償はできたのかをお聞きしたいです。

 また、それに関連して、当然オープンスペースができると周辺の魅力が上がって地価も上がるわけですが、そういう受益者負担の仕組みは事業の中に組み込まれていたのでしょうか。

阿部

 補償については充分になされているとは言い難い面があります。そこが再開発に対する批判の要因にもなっています。立ち退く人は、補償をもらってどこかに転出するか、住み替え用住宅をもらうかの二者択一でした。当時、責任者として事業にあたったプランナーの方によれば、85%の人が住み替え用住宅をもらい、残り15%の人が補償金を得て転出していったということです。しかもその額も微々たるものでほとんど追い出したという状況だったようで、そこは全くちゃんとしてないです。

 しかも、対象となったのは相当な社会的弱者ですし、もうひとつの問題として実際には相当数の不法移民が住んでいたのですね。だから、実態を誰も把握できてないのです。市としては、人口センサスでは地区の登録人数がこれだけだから相応分の住戸は供給しましたよというロジックなんです。実態としては、相当数を追い出したことになるのでしょう。だから、ある意味、綺麗事の話ではあるのかもしれません。

 また受益者負担ということについては、新市街地などで事業を進める時は原則、受益者負担で作っています。旧市街での多孔質化の事業の時に、オープンスペースに面した建物の価値が上がるということについて、事業者負担は事業の中に盛り込んでいるというよりは、新たにできた空間に面することになる不動産に、既存の路地等に面している不動産よりも高い税率をかけて、それで受益者負担の形をとるのが一般的かと思います。要するに、建物の開口がどこに面するかで、税金が異なる、ということです。


■計画の連続性について

波々伯部隆(アール・アイ・エー)

 1世紀にわたる都市計画道路の実現という側面があったと思いますが、その位置指定の話を解除せずに主力整備するところと間をつなぐような街路の整備をする時に、計画の連続性についてはどういう捉え方だったんでしょうか。北側のエリアと南側の広場的に整備された間の道路的な位置づけは、この時点でいったん無しということになって、それに代わる細い街路に置き換えたということでしょうか。

阿部

 そうですね、置き換えるというか、位置指定は解除する中で、穴抜き的にもう一度地区を作り直しますということで、この設計にしたのです。ですから、都市計画道路の読み替えということは言えますが、事業的には全く別の事業になっているということです。

 車の通し方ですが、従来の都市計画道路構想のように、縦方向にスムーズに抜けさせるのではなくて、既存の街路をうまく歩行者専用と共存道路に色分けして、自動車も走る交通動線を1980年代半ばの段階でプランニングし、実際につくりだしています。


■誰のための再生事業だったか 地価が上がるとなかなか旧住民は残れない

大場(大阪市立大)

 私はドイツが専門なんですが、とある文献を読んでいた時に「既成市街地に多孔質化を取り入れる時、なぜこういう発想が出てきたのだろう」と疑問に思っていたのですが、今日はその意味が良く分かりました。ありがとうございます。

 ところで私の質問はジェントリフィケーションに関連したことですが、こうして旧市街地を再生していく過程で誰のための再生事業なのかということが気にかかるのです。つまり、デラックスなリノベーションや新築が進むと、生活の質が上がって居住性も豊かになり、住民は入れ替わってしまいますよね。

 一方で、街づくりの仕掛けとして、お話の中で大学を誘致するのは有効なプランだと話されました。しかし、学生は可処分所得も少ないので、こうした豊かになった住宅には住めません。住めるところは限られてくると思うのですが、そのへんの組合せはどうなっているのでしょうか。

 つまり、ちゃんとした住宅に修復しようと思ったら、社会住宅のような仕掛けを作らない限り、なかなか旧住民は残れないと思うんです。一方で、市場論理で新築や修復を繰り返すと、それはそれで住民層が予期せぬ形で入れ替わってしまうのではないかと思います。バルセロナの場合はどのような事情になっていますか。

阿部

 ある時期にはソーシャルハウジングを集中的に作っていますし、その後は民間の市場ベースで作っています。住宅はそのモザイク状でできています。そこをトータルでどういう居住地にするかのビジョンは、無いと言わざるを得ません。

 ジェントリフィケーション問題についても皮肉な結果になったと思います。今ソーシャルハウジングに住んでいる人たちというのはかつて追い出し対象になった建物に住んでいた人たちです。彼らは今ソーシャルハウジングにいるから同じ旧市街に住み続けられるのですが、その時幸運にも立ち退き対象にならなかった人たちは、普通の住宅だったので今地価が上がって住み続けられないという状況になっています。だから、元々住んでいた人たちは今ではけっこう旧市街から抜けてしまっています。再開発の対象地になったスペイン人だけが、住み替え住宅で旧市街地に住めるという状況です。

 もうひとつ、大学が来るからここに学生もたくさん住むという話もありました。バルセロナはかなり留学生に人気の街なので、学生用のフラットも沢山ありますが、問題なのはデラックスな学生用フラットが増えていて、とても普通の学生には手が出ない。パリあたりから来た金持ちの学生とかが優雅に住む感じです。映画「スパニッシュ・アパートメント」で描かれたように、半分遊学気分で来たような学生さん用の優雅なフラットです。界隈の再生策の一環として、大学生の寮を整備することも多いですが、当然部屋数は限られます。だから、苦学生は全然旧市街には住んでなくて、郊外に住んでいます。そのあたりは、充分に戦略的に政策が展開されているとはとても言えない状況です。

 だから「誰のための再生事業か」と言うと、かつては胸を張って市民のためだと言えたかも知れませんが、いまは明確に言い切れるだけのビジョンは誰も持ち合わせていないと思います。かつては、とにかくみんな平等にひどかったので、実感として広場を作り、建物を修復するというレベルの話でしたが、都市環境が改善され、生活の質の高い都市というイメージが流布する中、市場との調整をとる必要が出てきている段階で、ビジョンがあったかと問われるとかなり心もとないところがあります。いろんな人がバルセロナモデルを賞賛して、なんとなくみんなが成功していると思っていますが、「それは違うだろう」と言う時にまず言われるのが旧市街の住宅事情です。今日、主にお話ししたラバル地区はまだましですけれど、場所によっては、例えばラバル地区からランブラス通りを挟んで向かいにあるゴシック地区は市内でも相当高い家賃の地域になってしまいました。日本人もとても住めない家賃帯のものが多いですね。


■バルセロナ再生事業を日本の中心市街地に落とす時、何がポイントになるか

柴山(柴山建築研究所)

 滋賀県の大津市から来ました。

 私は阪神淡路大震災の時に、神戸市の真野地区というバルセロナと同じような修復型のまちづくりを進めていたところと縁があって、住宅設計という建築の方からまちづくりのお手伝いをしていました。私も区画整理や再開発よりは、修復型まちづくりが日本の旧市街地には合っているんじゃないかと思っています。それで、10年前か20年前にいろんな先生方に「大津の町のように人口が減っている場合、どこの街が参考になるか」と聞いたら、バルセロナという答えが返ってきたんですね。そこで、2007年にバルセロナを訪ねてみました。でも、まだこういう本がなかったからか、私自身に知識がなかったからか、よく分からなかったんです。結局、リチャード・マイヤーなど建築家の作品を見に行く結果になりました。

 今回、学芸の前田さんからこのセミナーを案内頂いて「これや!」と思い、本も頑張って読みましたが、難しすぎてよく分かりませんでした。今日はセミナーをお聞きして、かなりよく分かったつもりです。

 そこで、阿部さんにお聞きしたいのですが、バルセロナの例を日本の事業に落とし込んでいこうとしたら、どういうことがポイントになるでしょうか。今、大津も中心市街地について4、5年前からなんとかしようといろいろ手を打っています。日本の地方都市はどこも中心市街地活性化が命題になって、法律の中でやっていこうとしているのです。バルセロナと同じようにある程度歴史があって、身近に自然にも恵まれているような都市で、市街地を再生しようとしたらどういうところがポイントでしょうか。非常に難しいとは思いますが、それを教えていただきたいと思います。それと、京都なんかにいないで、ぜひ大津のために助けて欲しいと思います。なぜみんな京都なのかなと思います。

阿部

 僕が大津にできることがあれば、いつでも飛んでいきたいと思っています。

 確かに、日本の地方都市の中心市街地再生については、こういう講演をすると常に出てくる質問ではあります。

 柴山さんはとにかく「バルセロナが参考になるよ」と聞いたのですね。当然、バルセロナと大津では建物のスケールも違いますし、敷地のスケールや接道の状況も全く日本とは違いますので、直接参考にできるということはないと思います。

 ただ、バルセロナのコンセプトとして、ある地区を重点的に、徹底的に手を入れるという、一種の不平等プランを実施してもよいということと、既成市街地では「壊しながら」「小規模な空間を産み落とし」「それらをネットワーク化する」ということがありました。日本の場合は敷地も細分化されてそれが難しい面があるにしても、例えば上尾の例のように敷地をうまく全体で使いながら、ブロックとして作っていくというやり方があると思います。また、敷地単位を超えて空間と空間を結びつける歩行者中心の回遊動線をどのようにつくるかとか、地区共通の中庭的空間をどこに作るかといった議論が出ると思いますが、そうした議論を経ることで、その空間が界隈としてひとつの資産になっていくというのがバルセロナの経験が示唆するところかと思います。発想の転換と、既存の事業の枠組みを地区のスケールにあった空間づくりを可能にするように組み合わせていく狡猾さが求められているのだろうと思います。

 また、今日ご紹介したバルセロナの新市街地で中庭を取り戻す事業では、街路側をセットバックするのではなく、裏側をセットバックするやり方は、その空間の価値がどう出るかという意味ではなかなか良かったと思います。設計的な観点からはそう思いますね。街路側ではセットバックでできた空間の使い方も実はなかなか難しいですし、下手すると自転車置き場になってしまいます。それよりは、ある程度の単位を決めて後ろ側の空間をうまく出し合うというのは、空間の新しい作り方としてヒントになるかなとは思います。


■多孔質化が効果あるのは、石造の密集というヨーロッパ的な問題だったからかも

中村(ランドデザイン)

 今のお話にも少し関連すると思いますが、日本の都市とバルセロナを比較した場合、日本は低層で木造が密集しているのが問題だと思います。バルセロナのように中層のビルが建て詰まっている例は、日本にはあまりないんじゃないでしょうか。

阿部

 バルセロナにも日本のような2〜3階建ての低層で建て詰まっている所はあります。旧市街ですと産業革命時代に一気に増築されているので密度が高くなっていますが、ちょっと郊外に行くと、歴史的市街地の一部で日本と同じような問題を抱えているところがあります。実はそういう所の方が、再生のプロセスとして日本の密集市街地の改善と似ています。

 ただ、おっしゃるように石造で6階建て以上が建て詰まっているのは日本では珍しいでしょうし、ヨーロッパ的な問題かもしれません。逆に言うと、この多孔質の観点もそれぐらいの密度で固まっていたからこそ、抜いた時に劇的な変化が生まれて、分かりやすい効果が出たと言えるかも知れませんね。バルセロナを歩いていて多孔質化の効用を感じるのは、暗い中を歩いていたら急にパッと目の前に光のあふれた空間に出てくる時なんです。そこに行くまではあまり人の活動は見られなかったのに、そこでは子どもが遊んでいたり、お店があったりする。僕もついそこでビールを飲んでしまったりするわけです。そういう空間の劇的な変化に出会えることが歩いていても楽しいですが、そういう空間のドラマ性は低層では作りにくいかなと思います。単純な前提の問題としてそう思います。


■多孔質化事業の仕組みについて

千葉(Kまち工房)

 多孔質化事業の仕組みについてお聞きします。これは都市計画的に位置づけられて強制権を持っている事業だったのでしょうか。それとも、法定事業ではなく、予算措置をして任意事業としてされた事業だったのでしょうか。その辺の仕組みはどうなっていますか。

阿部

 今は多孔質化事業で広場を作るのは、ほとんどなされていません。しかし、集中的に実施されている時の話で言えば、これは法定で強制権を持った事業で都市計画として行われました。だから、地区レベルの計画で法的に位置づけられましたし、ゾーニングコードも変えてやっていきました。だから市が「収用する」と言ったら、本当に収用されていく仕組みです。だからこそ、ここまでできた。多孔質にすると言って実現されてない場所はほとんどないです。

 今は、権利関係はもっと複雑になっていますし、サービス業の話も出てきて外国資本が入っているので、逆に多孔質でまちづくりをするという例は見なくなっています。多分、もう密集市街地問題はないという認識なのではないかと思います。


■旧市街の経験は郊外でも活かされているのか

小林(ランドスケープアーキテクト)

 旧市街地がここまで再生されて、そこからバルセロナが学んだことが、実際に郊外で活かされていると思いますが、そこにどのように適用しているのかをうかがいたいと思います。

阿部

 旧市街でやった経験が郊外の事業でも活かされるということでしょうか。

 今日は説明しなかったのですが、ボイガスが最初に着任した時に重点的にやったのが旧市街地の密集化した所の再生のほか、実はもうひとつ、無秩序に広がった郊外の再生でした。この二つの問題は違う言い方をしていて、旧市街の方は「多孔質化で再生する」としましたが、郊外の方は「郊外をモニュメント化する」という言い方をしていました。

 郊外のモニュメント化とは、特筆すべき特徴のない郊外の市街地に、何らかの特徴をもたせる、ボイガスの言葉で言えば都市性をもたらす、ということです。要するに郊外の大規模な団地で、インフラも悪く共通の広場のなかったところに、しっかりとした広場を整備してパブリックアートを置くというやり方です。コンセプトとしては旧市街と共通していて、結局そこの空間の公共性をどのように持たせるかということでした。公共性と言っても、住民に共通する認識としての広場をいかに作れるかということでした。ですから、郊外と旧市街の再生のあり方は、けっこう同じやり方で作っているんです。

 今のご質問で「今、郊外が広がっているところで何をしているか」ということについて言うと、これは私がちょうど調べていることでもあるのですが、この10年でどんどん環境が悪化している郊外が急増していますので、そこでやっていることはまさに旧市街でやっていた「核となる広場を認識させて、そこに経済活動を集中させる」という方法です。旧市街の密集とは違いますから、これは穴抜きという手法はとっていませんが、ベースの考え方は同じです。これがうまくいくかどうかは分かりませんが、そういう事業に補助金をつけて、補助金ベースの政策を2004年からスタートさせています。

 つまり、バルセロナ旧市街地の成功と平行して、郊外部がどんどんひどい状況になっていったのですね。昔よりも今の方がひどいと言う人がけっこういます。ただ、ここで言う郊外とは、80年代に郊外とされていた所よりもさらに郊外のことですけどね。二重三重に問題が複雑化していて、バルセロナ市はバルセロナで成功したと言っているけど、問題を市の外に吐き出しただけだという批判はよく言われています。

 先も言いましたように、大都市圏という行政体もありますので、他の25自治体がバルセロナのあおりを食らっている状況は確かにあります。一番ひどい住宅はバルセロナ市ではなくて、隣接する自治体にあるんですね。例えば、ベソス川を超えてすぐのLa Minaという住宅団地は、治安の問題、住民の雇用や教育の問題、不衛生の問題が山積しており、近年徐々に改善されつつありますが、かつての旧市街の面影を見るかのような風景がいまでも残っています。

 このように、第二の郊外化問題が現実としてあります。それは移民の間での貧富の格差の問題でもあって、裕福な移民は旧市街のラバル地区で優雅に暮らしてたりするんですね。我われなんかはラバル地区だけを見て、移民と共存している面白い街だと思ったりするんですけど、仕事のない移民はインフラが貧弱な所でないと住めないわけです。けれど、やはりバルセロナの方が職があるので、まだまだ移民を吸収している状況ではあるのですけどね。


■周辺コミュニティとの関係

山本

 社会的単位との関係をお聞きしますが、この再生事業はもともとのコミュニティの単位があって、その地区ごとに政策決定されたのでしょうか。広場が出来た所に、カフェや子どもの遊び場ができたりしていますが、それは周辺との社会的なコミュニティの単位と関連してできたのでしょうか。それとも、おおざっぱにポンポンと置いただけなのか。

阿部

 基本的には政策決定は区が行なっています。旧市街の区の中で決定しているのですが、その時に各住民組織単位(これは自治会ではないのですが)で要望を調整しています。

山本

 それはしっかりした単位ですか。

阿部

 いや、しっかりしてないです。個別の縦割り的権利団体があまりにありすぎて、何がなんだか分からないと行政の人はよく言っています。伝統的な自治会的組織もあるのですが、今は力を失っています。80年代に市がプラットフォームに呼んだ組織は、こうした伝統的な住民の自治会で、これはしっかりした単位したが、今はその力を失っています。そもそも自治会を構成していた居住層が地区外に散らばってしまっています。

山本

 その組織を解体しようとも強化しようとも思わず、無視して事業が進んでいるという感じですか。

阿部

 行政はそのどちらも積極的にはやっていません。そうなっているならばしょうがないという感じで。昔からあった自治会連合というのがあるんですが、この組織は今組織を相当新しくしようとしています。30代の委員長が選ばれて、改めて自治会という組織で昔のバルセロナを構築しようじゃないかという動きは見られます。しかし、ラバル地区だと地区で力を持っているのはスペイン人ではなく移民の住民団体だったりするので、なかなか意見の調整は難しいようです。その代表的な事例というのが、イスラム系住人がモスクをどんどん界隈に建てていることです。伝統的なスペイン住民がそれに反感を覚えて「モスクは困る」と言って、市当局にもかけあっているのですが、建築法上は違法ではない。これにたいして行政が「合法ですから手出しできません。あなた達で解決して下さい」と言った時、それを解決する母体としての自治会に力がないことが問題なんですね。ですから、こういった問題の時どうしようもない…というのが旧市街でよく見られる問題です。


■バルセロナとカタルーニャの微妙な関係

玄道(ツーリズム研究者)

 1971年2月にーその頃スペイン南部ではほとんど日本人を見かけませんでしたがー一人でバルセロナを旅したことを思い出します。今日は本当にいいお話をありがとうございました。

 “Visca Barcelona”はバルセロナの人たちの気持ちが込められていて、本当にいい標語ですね。ところで、2002年11月私はアメリカ合衆国シカゴへ関西の歴史街道のプロモーションで訪れたときに、デイリー市長(当時)が“CHICAGO: We're Glad You're Here!: ILLINOIS”と書いた臙脂(えんじ)色のバナーを街の至るところに掲げてウエルカムの意思表示をし、誇らしくやっていたのを思い起しました。当時のシカゴは都市公園の整備に力を入れ、市民や観光客にとって犯罪の多い街のイメージから安全・快適で魅力的な街へと変貌を遂げる都市再生の成功例として注目を集めていました。

 それでお聞きしますが、バルセロナはカタルーニャ自治州の州都であり、カタルーニャ地方の人々は昔からスペイン人である前にカタルーニャ人であることを誇りに思っていることは有名な話です。そこで“Visca Barcelona”の精神について知りたいのですが、このカタルーニャ魂がバルセロナの旧市街地の再生にも何らかの形で影響したのでしょうか。この点について、ご存じのことがありましたらお聞かせください。

阿部

 バルセロナとカタルーニャはまた微妙な関係にもあり、バルセロナ市とカタルーニャ州は政党が違って比較的対立する関係でもありました。しかしながら、民主化直後にバルセロナ・オリンピックが決まった時は、当然の事ながら協調関係をとりました。これは偶然の結果かもしれませんが、バルセロナモデル成功の要因としては、このことが良く言われています。政治的な成功体験がその後も20年ぐらい続いたことが、バルセロナが都市再生の成功事例として定着した大きな要因かと思われます。

 カタルーニャ州の立場としては、バルセロナだけに注目するわけにはいかないので、今はバルセロナにいかにお金を配分せずに、バルセロナからお金を吸収して他の都市に配分するかを考えます。ですが、今は2年ほど前からバルセロナを取り巻く状況が変わってきています。民主化後、ずっとバルセロナを引っ張ってきた社会労働党が初めて政権を失って、今は州と市が同じカタルーニャ右派になっているんです。「Visca Barcelona」をお見せしておきながら、なのですが、こういうプロモーションは無駄とは言えないが財政が苦しいときにはやらせにくいということで、キャンペーンは小休止状態です。

 第二の郊外化で外に出た、郊外地の貧富の差を埋めるような社会的包摂プログラムなんかも、社会労働党が主導してやっていたのですが、今は財政の問題もありますので、ペンディング状態に後戻りしてしまいました。社会的大義だけで都市政策は展開できない、というのが現政権のスタンスです。

 今はバルセロナ市もカタルーニャ州も同じ政党が政権についていますので、これまでのバルセロナとは大きく異なる流れで都市政策が展開していく可能性が高いです。かつEUの問題でスペイン自体が危うい状況にありますので、都市再生の成功事例としての生きたバルセロナはひょっとしたら2010年あたりまでで、これからは歴史的な存在として振り返られる存在になるのかもしれません。とはいえ、バルセロナは生命力の強い都市ですから、今後もビビッドな存在であり続けると思いますが。


■都市計画への信頼は戻ったか

前田(学芸出版社)

 都市計画に対する市民の信頼あるいは都市計画への期待は、成功によって回復したのでしょうか。あるいは一部の人に受けたけど、全市民的な支持はなかったとか。都市計画に対する市民のイメージはどう変わったのでしょうか。

阿部

 私が見たところ、全体にまず信頼は回復したとは思います。都市計画が環境を改善しうるという実感は全員が持っていると思います。ただ、そこへ行く時の政治決定のあり方に対しては、誰もが賛同しているわけじゃありません。昔のように計画したのにそれが頓挫したまま動かないという事例はあまりないので、逆に都市計画で何かあると、すぐにみんなが意見を持ちやすいという状況はあります。その意味での存在感は持ち得ています。

前田

 そのあたりが一番日本と違うところですね。


■まとめ

鳴海

 では最後に、締めくくりとして感想を述べさせて頂きます。

 先ほど中村さんが質問した「日本では中高層ビルの密集市街地はあるか」ということですが、大阪の船場がそうだと思います。僕は何年か前に、今日紹介いただいたバルセロナと同じような方法で、環境改善の方向を提案したことがあります。中をセットバックさせることで、「裏返し作戦」と名付けました。しかし、地上げをして大きい街区でやりたいという気分があり、あまり理解が得られなかったと思います。しかし、これからは、このやり方でできる可能性があるかなと思いますので、今日のお話は非常に参考になりました。

 また今、前田さんの質問で出た都市計画に対する市民の評価ですが、市民が評価して良くなるまちづくり、やれるところからやっていく手法もなかなか評価できると思います。今度の震災復興でもこのやり方でやってほしいと思います。壮大なプランで全部のまちづくりをやっていくよりも、やれるところから良い町にしていくことを是非やってほしいと感じました。

 それと今日のお話で思い出したのですが、僕は、バルセロナでオリンピックの直前にたまたまバルセロナに行ったことがあります。その時はいろんなキャンペーンが街中で行なわれていました。確か中沢新一さんだったと思うけど、「バルセロナのバルは飲み屋のbarから来ていて、空と海の間に漂うbarがバルセロナの意味だ」と書いていたことを知り、なかなか良い町だなと思いました。

 この時のオリンピック開催地をめぐって、イギリスのマンチェスターが負けたんです。その後に、マンチェスターの議員さんたちがこぞって敵地のバルセロナを視察に来て、何が違ったのかを探ろうとしたんです。バルセロナに滞在して、「このまちづくりでは我われの負けだ」と悟って、帰国後に自分たちのまちをどうしようかとすごい勉強を始めたんだそうです。その後、マンチェスターのいろんなまちづくりノウハウが生まれたわけで、バルセロナのまちづくりは他のまちづくりにも影響したのです。バルセロナは今も頑張ってまちづくりに取り組んでいますが、やはり目に見える結果は他の都市にも伝わるんですね。やはりやり方がうまいなあと感じました。

 今日はいろいろ興味深いお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。もっと深く勉強したい人は、是非阿部さんの本を読んで頂きたいと思います。では、今日のセミナーを終わります。みなさん、ご参加どうもありがとうございました。

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