まちづくりの「まち医者」
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はじめに

 

■ハートビートプランについて

 私はハートビートプランという事務所の代表を務めています。この事務所は都市計画や地域のまちおこしをやっています。一つの地域に入り、長い時には数年間にわたって地域の方と一緒に将来ビジョンを作ったり、それを事業に落とし込んで実際に動かしていったりというところまで関わっています。

 例えば、高松の場合はビジョンづくりから様々なプロジェクトの事業化まで10年ぐらい関わらせていただきました。大阪は様々な地域やテーマに関わっていますが、今は水都大阪フェスの企画・運営にもディレクターチームの一員として関わっています。

 今お話ししたのが本業だとすれば、それ以外のNPO活動にもいろいろ関わっています。NPO「もうひとつの旅クラブ」には、設立以来もう10年ぐらい関わっています。ここは、大阪のまちのもうひとつの良さを学び楽しむプログラムを作って運営しています。「OSAKA旅めがね」では、大阪の各地域でまちを遊んでいる人たち、地域を盛り上げている人たちと一緒にまち歩き事業を運営しています。

 こんなふうにまちに関わる活動を長年やっていると、どっちが本業かと言われることも多いのですが、私の中ではちゃんと一つの線が通っているんです。依頼された本業をやりつつ自発的なNPOや事業運営もやっています。

 今日は、こういうセミナーに来るのは初めてという方もいらっしゃると思うので、まず私が何をやっているかを最初にご紹介して、それから今後のまちづくりにおいて、どういう人材が必要とされてきているのかを考えていきたいと思います。というのも、我々のようなまちづくりコンサルタントと言われる業種は、本当は求められていることが多いのですが、従来型の仕事ではその存在意義が見えづらくなってきていると思うからです。私としても本業やNPOを通してこれからの対応の方向性を考えつつ活動しているのですが、その辺をみなさんとも議論できたらいいと思います。


■いろんな顔

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 最初に、私の本業として「ハートビートプラン代表」ということを紹介しましたが、それと同時にここにあげたいろんな組織の一員でもあります。

 「都市大阪創生研究会」は、もう10年ぐらいお世話になっています。この研究会は鳴海先生が座長をされていて、メンバーは大阪を逃げられない企業である、鉄道、エネルギー、不動産、市などの方が中心です。大阪の未来を議論したり、いろんな提案をしたりという活動をしています。

 それから、今お話しした「NPOもうひとつうの旅クラブ」の一員としても活動しており、いろんなまちを学び楽しむプラン等をみんなで考え実施しています。「OSAKA旅めがね」は大阪のいろんな地域で活動している人の連合体ですね。今はまち歩きを事業としてやっています。

 北浜水辺協議会は、「北浜テラス」という京都の納涼床のような川床を展開していく団体で、今北浜エリアに8つの川床ができました。これも、新しいまちの楽しみ方としてみんなで取り組んでいて、大阪の新しい風物詩を生み出そうと活動しているところです。

 「水都大阪推進委員会」にはフェスのディレクターとして参加しています。今、大阪府・大阪市・経済界が大阪を「水都」として売り出すため、2009年から毎年10月に「水都大阪フェス」を開催しています。私達はその仕組みを作ったり、企画・運営に携わっています。

 私はあまりアートとの関係はなかったのですが、今年度から京都造形芸術大学で非常勤講師を務めることになりました。私が担当しているのは、まちの宝や課題を情報デザインを使ってよりよくしていくための思考方法や実践方法の演習です。


■私とまちの関わり

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 私がなぜこういう仕事をしているかについてですが、それは私が昔からまちというものが好きだったからだと思います。

 中学生の時に青春18切符を買って、いろんなところに出掛けていました。また、私は東京出身なんですが、自転車仲間と一緒に房総半島を一周したり、長野県を抜けて新潟に行ったり、自転車旅行にも行っていました。いろんなまちをめぐるのが好きになったのはその頃からです。

 高校のころ手塚治虫をよく読んで、地球環境問題に興味を持ちました。彼の有名な作品にはあまり直接のテーマとして出てこないのですが、全集には有名ではない作品が数百冊もあって、その中にはメッセージ性の強い作品も多く、環境問題に興味を持つようになりました。進学する時に、こうした環境問題を扱っている大学はどこかと探したら、それが大阪大学にしかなかったので、そこから私と大阪の縁ができたという次第です。「ガラスの地球を救え」は、手塚が書いた作品の中でも珍しく文章でメッセージが書かれているものです。

 大学に入り、旅行手段は自転車がバイクに変わり、日本中をまわりました。たまたまバイト先がピザ配達の仕事だったのですが、店長がクルーザーや水上バイクを持っていて、免許も取り舟遊びを楽しませてもらいました。

 また、海外にバックパック旅行に行きました。いろんなまちに行き、観光地というよりは繁華街に興味を持ち、一人でうろちょろしていたのを覚えています。

 様々なまちを回ったり、いろんな人の暮らしを体験したことが、その後に与えた影響は大きいと今も思います。日本や自分の暮らしているところが全てではないということを自覚しました。

 就職した事務所は、天満橋の北詰の川沿いにありました。その時のボスは水辺がすごく好きでした。絶対水辺が見えるところで仕事をしたいということでそこに事務所を構えていました。天神祭の時には半ドンで、お客さんを呼んでどんちゃんするということをやっていました。実を言うと、その嗜好を私も受け継いでいます。

 「都市大阪創生研究会」に入れて頂いたのは先ほど説明したとおりです。鳴海先生からもご指導を受けて、社会実践をやるきっかけになりました。例えば、リバーカフェは川の上に「台船」という工事用の船を浮かべて、そこをカフェにしてしまうという社会実験です。

 この取組みを通して、まちに対してある提案をして、その反応が返ってきて、それが仕組みとなって続いていくという流れを目の当たりにし、このリバーカフェの体験は私の中で大きな転機になりました。

 その後、私は独立し、本業をやりつつNPOにも参加して今に至ります。


■ボスとの出会い

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 大学の時に「都市再開発」の授業があり、そこで非常勤講師で教えに来ていたボスの石関さんと出会いました。

 駅前再開発は駅前にある木造の店や住宅を、共同ビルや駅前広場に造り替えていくのが典型なのですが、それだけじゃなくどういうふうに都市がつくられていったかという話をいろいろ教えて貰いました。

 そのレポート課題として「自分の好きな町に行って、再開発事業についてヒアリングしてこい」というのが出ました。私は金沢のまちがとても好きだったので、金沢の香林坊の再開発を取材対象としました。そこの再開発に携われたRIAのコンサルタントのお話をお聞きしたり、再開発ビルに入っている飲食店のおっちゃんのお話を聞いたりしました。そこで感じたんですが、みなさん自分のまちのことをとても自慢げに語るんですよ。自分のまちのことをこんなふうに熱く語れるっていいなあと思ったんです。

 私はそれまで、まちというものはいろんな人の活動があってその結果出来上がるものなんだと思っていたんですが、その前に「まちをこういうふうにしたい」とか「こういうふうに変えたい」という気持ちがまちを変化させ、それを自慢げに語る人がいるということに私の気持ちが動きました。また、そういう仕事があることを、その時初めて知りました。これは絶対やってみたいと思いました。もともとまちが好きで、環境問題の縮図のようなものだとも考えていたので、こういう仕事に就けば一生まちに関われるなということで、まずはバイトさせて下さいとお願いして、それからずうずうしくも入社させて下さいと言って就職したという次第です。

 こうして平成6年に「環境整備センター」に入社しました。

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