大阪の埋め立ての進展とその環境
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4 社寺立地からみた臨海部新田村

 

 臨海部埋立地における人口定着状況が少しわかってきたが、少なくとも明治9年の時点において臨海部には2万人近い人口がいたわけで、それが11の集落に集中していたわけではあるまい。とすれば、縮尺2万分の1の仮製図では集落とは認められない規模で家屋が点在していたと考えるべきであろう。臨海部埋立地は、全体として集落形成が進まず、堤防上に家屋が点在する地域であったと言うことができよう。

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図9:新田における神社の分布
 
 こうした点在する人口の定着状況を把握するために、社寺の分布状況を調べることにした。社寺に着目した理由は、社寺は農村の普遍的要素と考えられるためである。実は、某学会に投稿した論文にこう書いたところ、その根拠を示せと言われて少々頭にきたが、一般的には社寺は普遍的とは言えないまでもありふれた存在であろう。農村においては、神社は農耕祭礼に欠かせないものであり、村に神社が存在しない場合でも、近隣村の神社を祀ったり、御旅所があるなど、日常生活になくてはならない存在であった。また、寺院は寺請制度を背景に、戸籍管理の役割を担っており、人口定着と密接な関係をもつものであった。社寺を人口定着の指標と見ることができるのではないかと考えたわけである。実際に江戸時代につくられた新田の図を見ると、集落の記載はないが神社を示す鳥居が記されており、人々の生活の営みが感じられる(図9)。

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図10:神社の有無別にみた村数
 
 臨海部新田村に立地する神社の総数は42社で、1村に2社ある村が2つあった。村別に見ると、神社が立地する村が40(62.5%)、立地しない村が24(37.5%)であった(図10)。

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図11:寺院の有無別にみた村数
 
 寺院は総数27寺で、最大6寺が立地する村があった反面、寺院が立地しない村が多かった。村別に見ると、寺院が立地する村が15(23.4%)、立地しない村が49(76.6%)であった(図11)。

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図12:社寺・会所の分布
 
 臨海部埋立地は、村別に見ると、およそ三分の二に神社が、および四分の一に寺院が立地する地域であったことがわかる。人口の定着が進んでいなかったことを反映した結果となっている。社寺の有無を地図上に落としてみた(図12)。人口の定着状況が少しはイメージできるのではないだろうか。

 さて、臨海部新田村は、一般的な内陸部農村と比べて、どのような特徴をもっているのだろうか。社寺の立地状況を比べてみることにしたい。臨海部、内陸部ともに、典型的な農村の姿を抽出するために、大坂三郷周辺町村266から三郷に近く市街化の影響が強いものや平野郷町および住吉村等の46を除外した161ヶ村について社寺の有無を見てみた。その結果、神社については、内陸部では80%以上の村に立地しているのに対し、臨海部では60%程度であることがわかった。また、寺院については、内陸部では85%以上の村に立地しているのに対し、臨海部では20%に満たないことがわかった。臨海部新田村の特異な性格を表している。

 臨海部埋立地域における典型村の素描を試みると次のようになる。6割の村には神社があるが、8割の村には寺院がない。これは、既に述べたように人口が少なく、しかも出作が多いことの反映と思われるが、無戸籍者の存在を暗示してもいる。社寺についてもう少し細かく見ると、臨海部新田村の神社の半数が住吉神を主祭神としており、内陸部農村の場合1割以下であるのと対照をなしている。また、寺院の多くが浄土真宗であり、内陸部で半数以下に過ぎないのとは少し異なった傾向を示している。こうした点に臨海部埋立地の特徴を見ることができる。

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