大阪の埋め立ての進展とその環境
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3 集落の状況

 

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図3:泉尾新田と南加賀屋新田の事例
 
 埋立地全体で28ほどしかなかった数少ない集落の状況をみてみよう。改めて仮製図を見ると、一部の例外を除いて集落形状が線状であることがわかる。これは、埋立地特有の事情によるもので、家屋が堤防あるいは堤防と一体化するようにかさ上げされた高地に建てられたことに由来する。とはいえ、数は少ないが塊状の集落も存在する。線状型と塊状型の例として、それぞれ泉尾新田と加賀屋新田の事例を見てみよう(図3)。

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図4:線状型集落の事例(泉尾新田)
 
 泉尾新田は、延享2(1698)年北村六右衛門によって開発された面積約106町歩(105ha)、石高719石の新田である。大正区史によると、東側の三軒家に接した部分と、北西部の尻無川に面した部分の二ヶ所に集落が形成されたとある。 仮製図には確かに2ヶ所に線状の家並みが見られる(図4)。 土地利用の内訳は、水田32.5%、畑64%、宅地3.5%であり、集落の面積は合わせて3haを超えていたことがわかる。 人口は明治9(1876)年に427人であった。

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図5:加賀屋新田の居村
 
 加賀屋新田は、泉尾新田と同じ延享2(1698)年加賀屋甚兵衛によって開発された面積105町3反歩(104ha)、石高152石の新田である。新田の開発履歴を示す図の中に、居村と書かれた四角の区域が見られる(図5)。

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図6:塊状型集落の事例(加賀屋新田)
 
 仮製図と照合すると、確かに塊状の集落が確認できる(図6)。明治19年時点で東西南北とも210m程度の台形状をしている。うち北東の角にある区画は、現在は加賀屋緑地として残っている会所と推察される。明治9(1876)年の人口は462人であった。

 集落はどのような家屋で構成されていたのか。資料が描き出す集落の状況は、一般的な農村のイメージとはかなり異なっている。それには、臨海部埋立地の特殊な事情が係わっていたとみられる。

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図7:加賀屋新田会所跡
 
 臨海部新田農村の経営は、新田所有者である請負人が耕作人から小作料をとり、年貢を納めるかたちが一般的であった。耕作人のうちかなりの部分が外部からの出稼ぎである出作であった。新田内の田畑屋敷はすべて請負人の所有であり、支配人の住居も貸与であった。新田村における集落形成は、こうした特殊な経営方式を反映し、新田の耕作人に貸与された家屋は、いわゆる農家ではなく、町家や長屋に類するものであったと言われる(『新修大阪史誌 第4巻』889-900)。新田村では、請負人の新田経営拠点であった会所(図7)と呼ばれる建物を中核として、仕舞屋風の町家形式の家並が形成されていた。

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図8:会所分布
 
 会所は、加賀屋緑地として現存している加賀屋新田以外に、春日出新田、市岡新田、泉尾新田、千島新田、津守新田にあったことがわかっており、これらの新田には会所を中心とした集落形成がみられた可能性がある(図8)。

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