大阪の埋め立ての進展とその環境
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1 はじめに

 

 神崎川、中津川、淀川の河口部は、かつては難波八十島といわれるほど島や州が発達していましたが、その様子は、篠山藩青山家文書からも読み取ることができます。一方、明治時代に作成された仮製1/20,000地形図(明治18年測量)を見ると、それらの島や州が農地、つまり新田として開発、整備され、大坂三郷周辺の地域は、臨海部も、内陸部も、土地利用のほとんどが農地となっています。現在はそれらの農地のほとんどが失われていますが、篠山藩青山家文書の絵図をひもときながら、近世以降の農地開発、近郊農業の発達の歴史と現在の都市とのつながりの一端でも垣間見ることができれば、新たな視点から地域を見ることができるのではないだろうかとうことで、少し検討してみました。

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大坂川口絵図(1669(寛文9)年)
 
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仮製20,000地形図(明治18年測量)
 
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