それを、 新しい計画の中でどういうふうに反映させているのか、 これは独善的な読み方かも分かりませんが、 私自身はそう感じていると、 そういうことを申し上げます。
写真17は、 ハーローニュータウンの中のクラークヒルのタウンハウスプランです。
L型の住戸が2つでセットになったコートハウスの計画で、 480戸の住宅です。
このように整然と並んでいるのです。
我々が建築を学んだ当時の考え方で申しますと、 非常にすばらしい、 すごいなと思ったわけです。
実は、 今から24、 5年前に訪れたのですが、 その時にはすごいなと思って見ていたんです。
今考えると、 なにを考えていたんだろうかと、 ちょっと反省しますが、 これだけ考え方が変わるのかと、 自分自身でも驚いているのです。
2つの住宅が整然と4列並び一番最小の単位を構成します。
それがさらに集まって次の単位になります。
その単位が2つか3つ集まって、 1つのクラスターを形成する、 そして、 大きな通りを挟んでまた次があるというふうになっています。
道路のヒエラルキーがまずきっちりできていて、 例えば、 車の入るルート、 人も車も入れるルート、 それから本当に歩行者だけのルートというふうに、 きっちり段階的に組み立てられています。
中央にはすごく大きなコモングリーンがあるのですが、 みんなの共有のオープンスペースですから、 たまたま住戸がコモングリーンの隣にあってもそれらの各戸の庭から直接活用することは「まかりならん」ということになっています。
これはルールからいえば当然そうなのですが、 そうしますと、 一度住宅から道路に出て、 そしてコモンに入っていくという動線が計画されている。
全然人気がないと言いますか、 生活のにおいが全く表ににじみ出していない、 こういう空間があるのです。
非常に教条主義的と言いますか、 理屈通りなのだけれども生活がない。
例えば、 写真19の通りは車は入らなくて、 椅子とテーブルがセットになったストリートファニチャーがあって、 プラントボックスがある、 砂場がある。
本当に絵に描いたような姿があるわけですが、 現実には全く情けない姿を露呈してるわけです。
これだけ違います。
写真21は全く人気のない、 通りに面して全く表情を表に表わさない、 本当に理屈通りのコートハウスができているわけです。 昼ですからまだいいのですが、 夜こういうところを歩きますと、 恐ろしい感じがして、 通りからポッと人がでてくると、 ドキッとする、 そういう感じです。
写真22のように犬や猫もまっすぐ歩くことしかできないすばらしい風景が展開している。 その風景のなかに、 たまたま台所があって、 窓があって、 人影がちらっと見えたり、 明かりが漏れたりするとほっとする、 そういう感じです。
人間の恐ろしいところは、 一度これでいいんだと思ってしまうと、 その呪縛の中から抜け出すことができないということです。 私自身も正直言って、 ずいぶん長く、 自然発生的な集落のここち良さや日本や海外の古い街の雰囲気と、 我々が今日作り出す新しい街の味気なさのギャップを何となく不自然だと思いながら、 その原因がどこにあるのかまたどうすればそこから外に出られるのかわからず、 七転八倒しようやく今その罠から抜け出したという感じです。 そのことについて、 一番最後の中庄のプロジェクトでご説明します。
右のあたりに、 新しい建物がありそうな感じがする。 左の方も何となくちらっと見える、 でも大部分が田園牧歌な風景を展開しているわけです。
写真24はニュータウンの中にある、 いわゆる景観インフラです。 小川と言いましても作った小川ではございません。 本当に有機的に、 おそらく地球が生まれて46億年だといわれますが、 その中でつちかわれて自然が作り上げた風景です。
団地内の幹線道路も古い道路をそのままうまく活用しています。
写真25は16世紀からの藁ぶきの伝統的な住宅で後ろに納屋があります。 ここに住んでいる方が自慢しているもので、 ニュータウンの中に全く異質な空間があるのです。
こういう農家の庭先には、 石がごろごろと並んでいる。 そこにシバザクラかゼラニウムか、 そういう花が咲いている。 これを、 建築家が関わって作れば、 壁はまっすぐでなければいけないとか、 色々なことを言ってきれいに作ってしまう。 ところが、 これは長い時間の中で育て来た環境なのです。 崩れたという言い方もありますが、 自然とまさに共生している姿そのものがここにあるわけです。 自然のメカニズム、 変化のメカニズムにとけ込んだ環境がある、 というふうにいえます。
写真26は、 約人口5万人くらいの田園地帯に20万人くらいが新たに加わってくるというニュータウンの、 いうならばオールドタウンのセンターというふうな感じです。 周辺には、 古い集合住宅が並んでいます。
そういうところに建てられた、 3階建ての住宅の一つの例です。
写真27は、 正面から見たところですが、 1軒の間口がおよそこれくらいです。 そして3階までが1つの住宅なのですが、 同じものが繰り返し繰り返し並ぶ。 もしこういう住宅だけがこのニュータウンの中にズラッと計画されますと、 本当に味もそっけもないものになってしまうわけですが、 古い集落あり、 豊かな自然あり、 そしてそこに培われた生活や文化がある。 その中に新しく住宅を組み込んでいくことによって、 ここに住んだ人たちもかつてからある環境を享受することができる。 そういう関係がそこに生まれてくるわけです。 新旧が見事に複合している、 重なっている、 といえると思います。
写真28は、 戸建て住宅なのですが新しく作られたもので、 なんの不足もないと思います。 ランドスケープもきっちりできているし、 緑も豊かだし、 密度は低いし、 建物自身もなかなかきっちりした住宅という感じです。
でもこの住宅が、 生活していて本当に心が豊かになっていく、 そういう環境になるまでには、 やはり50年、 100年というオーダーがたぶん必要なのだろうと思います。 住戸内環境についてはまた話は別だと思いますが、 特に自然との関わりを考えると、 そういうことが言えるんじゃないかと思います。
写真30は、 いわゆる計画的に作った環境でありながら、 最初から先ほどの集落が持っているような、 ある有機的な環境を作っていこうということを目指した計画で、 ルシアンクロールによって計画された例です。 このあたりに少し白く見えている部分がありますが、 実はこれが住宅です。 この住宅の1つ1つのエレメントを取り出してみますと、 非常にたくさんのタイプの住宅があります。 エレベーションを並べてみますと、 全く違う様相がある。 プランにおいても、 同じようなことがいえます。
これは、 1人1人の生活者の意見を汲み上げて作られた住宅です。 いわゆる住民参加型の住宅なのですが、 ハーローニュータウンのクラークヒルの計画のような価値観でこういうものを見ると、 雑然としている。 「え、 建築家がこれを設計したの」「なにこれ」という感じになる。
ところが、 そこに住む人達を優しい気分にしてくれる、 包み込んでくれる、 なにかあることを意識させない、 そういう環境を作っているんです。 視覚に訴えて美しいという話と、 心にしみて美しいというのか、 優しいというのか、 そういう環境の違いが、 ここにはっきりと読みとれる。
例えば、 外壁1つ採り上げてみても、 様々です。 色も様々、 屋根の形もバラバラです。 それはなぜかと言いますと、 人間が自然の部分であるとよくいわれますが、 その部分である1人1人の意見をくみあげて、 100%満足されているかはともかくとしまして、 そういうプロセスの中で作られてくる住宅というのは、 やはり自然な様相を呈してくるということがいえると思います。
ここに3軒の住宅がありますが、 1つ1つみんな違います。 先ほどの、 直線的で一元的だという言い方に対して、 曲線的で多元的だ、 多中心的だという言い方をしましたが、 まさにそういう価値観で作られた住環境だろうと思います。
写真32の少し大きな木のある周辺に先ほどの団地があったんですが、 そのすぐ前に集合住宅があります。 非常によくできていると思います。 屋根も、 瓦もきっちり収められた、 外壁も板張りで、 全て問題なくできてるように思いますが、 ただ価値観が違います。 やはり、 先ほどのルシアンクロールの住宅と比べてみますと、 均質で画一的で固定的だということは否めないのです。
集落を自然発生的だという言い方をすると、 それは必ずしもあたっていないという言い方をされる向きもありますが、 細かく突き詰めないで概観しますと、 例えば、 1人1人の住み手が自分の意志によって、 色を決め、 階段の形は伝統的な、 地域にあるものを活用し、 という形でつくられるとしても、 必ずしも自分自身が考えて作ったという構築物ではないということは言えると思います。
写真34は箕面ですが、 お百姓さんがずっと昔から住んでおられる集落です。
このように、 集落というのは洋の東西を問わず、 空間がヒューマンな感じで、 スケール感も非常によく似ています。 空の切り取られ方だとか、 道路の折れ曲がったところの雰囲気だとか、 光だとか影だとか、 そういう1つ1つのエレメントを比較してみると、 同質の空間がそこにあります。
世界中どこでもかまいません、 いわゆる自然の地形や、 その地域にある建築資材を使い、 伝統的な工法にのっとって、 自分たちが住むための環境を作っているようなものは、 ほとんど同じような空間の質があり、 建築家が関わっていない、 都市計画家が関わっていない空間だということがいえると思います。
例えば、 寝屋川の文化住宅は老朽化して、 スラム化しているから潰せといわれますが、 ミコノスの集落では白く壁を塗ってあるだけで、 みなさんは時間を費やして金を払って、 遊びに行く。 どうしてこう違うのだろうか、 という感じがしないでもない。 ここで、 大事なのはものの古さとか、 ものが作り出している不潔感ですとか、 いろいろなものがあるんだろうと思いますが、 そういうことよりも、 空間の形式に私自身は着目しているのです。
例えば、 この建物とこの建物が少し軸がずれているとか、 右の路地に入る、 左の路地に入る。 計画的に作られてはいないが、 こういう空間が作られている。 先ほどのルシアンクロールの計画はたぶんそういうものなのだろうと思います。 どちらの価値を、 我々は今後大切にしていくかという問題が1つあると思います。
写真37のように、 晴れた空を有機的な線で切り取っていく。 建物のシルエットも美しいけれども、 価値化された空も美しい。 こういう環境を計画的に作っていければと思います。
曲線的、 多中心的な環境
そういう近代主義の住宅づくり、 街づくりの考え方に対して、 同じイギリスでも一番新しい、 1960年代からスタートしたミルトンケインズの団地の風景を比べますとよく理解できますが(写真23)、 これがニュータウンなのですが、 えっ、 ていう感じです。集落の風景
次に、 集落の風景をいくつか見ていきます。
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