もう一つは人工的な空間だけれど極めることによって、 例えば私が園芸デザインでやるのは葉っぱを見せるということでして、 葉っぱの色がこんなにあるということで見つめてもらうきっかけにしようとしています。
これもデザインの方法です。
それからもう一つ、 この間荒川修作の養老天命反天地に行ってきましたが、 ひどいものでした。
しかし私は、 荒川修作が考えたのは違う事だろうと思いました。
おそらく彼が考えていたのは、 すごくもやのかかった朝かもしくはお昼のような明るい夜に、 みんなが巡礼のような格好をして、 仙人のような人に連れて行ってもらって、 一つずつのスペースについて説明してもらって、 登りにくいところをわら草履なんかで登りながら、 いろんな話しを聞いたりするのです。
そしてハッと向こうの山を見たときに、 養老山があるのです。
あの中国にあるようなポコッポコッとしたかわいい山ですが、 それを見たときに、 神の世界のようなところに行ったような気がする瞬間を経験して、 その瞬間に自然の存在や人間の生き方を感じるための舞台装置としてつくったのだと思います。
しかし全然違う伝わり方をしています。
つまり荒川修作は、 そういう一瞬の輝きのためにデザインしたと思います。
また、 私がやっているような香りとかそよぎとか、 五感に訴える演出方法もあれば、 一方、 とにかくきたなくてもいいから循環しているそのものを見せましょうというデザインの方法もあります。
しかし私は、 それがそこまで考えられているのか、 そこまでうまく仕掛けられているのか、 疑問に感じます。
様々なデザイン論が話されていますが、 それは本当に仕掛けとして、 装置として考えられているのかと。
それぞれのデザインに関わっておられる方は、 それぞれ生き方とかデザインに対する主張だとかお持ちだとは思いますが、 私はみんなに自然の大事さを気付かせることが仕事だと思っています。