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自然はただではない

佐々木(鳳コンサル)

 吉村さんからは学生時代からいろんなことを勉強させていただいてきたのですが、 今日は「ゼロ・エミッション」ということで、 また驚いています。

   

 吉村先生なんかが一貫して言っておられるような、 理念としての都市における生物共生をつくっていくことを、 実際私達は1960年代から新しい都市の中で、 つまりもう20数年もやってきました。

その中で、 都市の中に自然を持ち込む時に、 様々な問題が出てきています。

実験結果も出ています。

その過程の中で、 自然はただではないことを私達は実感しました。

人工地盤に土を盛るにしても、 非常に高いコストがかかります。

実際の計画でそのコストを出来るだけ低くしようとするのは当然です。

そこで私が思うのは、 実際に都市の中に自然を持ち込むということは、 都市の経済効率の中でどのように維持、 管理されていくのかということまで含めて見ていかないと、 なかなか現実的にはならないということです。

技術論ももちろん必要だと思うのですが、 実際に環境を支えていこうとすると技術だけでなくて、 特に誰がやるのかということにおいてものすごくエネルギーが必要です。

そういった現実の問題があると思います。

   

 辻本さんはその辺のことを仕事でよく経験されてますし、 吉村さんは公共の緑というものの価値を日本に持ち込んだ第一人者であるのですが、 「自然はただではない」という大きな現実を前にして、 それでも自然を都市の中に持ってくる際の何か新しい考え方はあるのでしょうか。

   

吉村

 それは一番の課題です。

「緑にいくらでもお金を使っていい」という人もいますが、 そういう論理は受け入れられないと思います。

最近ある土木の関係者と会ったのですが、 余りにも自然に配慮しすぎて、 いろいろとお金がかかり、 結局それは税金から出ていくそうです。

経済の論理で言うとそれは成り立たないわけですから、 都市に自然を持ってきたところで「ちょい置き」見たいな形でしか実現しないと。

そういった自然に対する価値の置き方の面で私達は妥協を繰り返してきたわけで、 その結果、 キッチュな緑でごまかすようなランドスケープデザインをするという犯罪的なことをやってしまったことも否めない事実です。

   

 そのような前提の下に、 もう少し中長期的な視点から言いますと、 自然を持ってくるかどうかではないと思うのです。

私達の社会は集積の論理、 マーケットの論理で成り立っていまして、 新しくつくってたくさん物や人を集めるといった方向でしか、 まちづくりがなされていません。

商業施設とか、 地域施設とか、 そういう形でやってきたのです。

全総なんかが出された1950、 60年代はどこの市町村でも人口が「大きい」方向が良いとされていまして、 その時の統計では日本の人口が10億人くらいになるというような時代でした。

国全体がそれでいいと思っていたのです。

その考え方は、 集積の論理のメリットだけを見て、 デメリットについては見ていなかったわけで、 企業もなんとか大量生産の方向でやってこられたのです。

それはつまり、 自然に対してものすごく大きな負荷を与えることになりました。

その大きなツケが結局人間に回ってきて、 大気汚染や海洋汚染、 オゾン層の破壊等の形で私達を脅かしているのです。

   

 そういうやり方では駄目だということが明らかに分かってきまして、 自然に対する負荷をいかに下げていくかが問われてきました。

アメリカでは非常に厳しい排気規制が行われまして、 アメリカの自動車メーカーが出来なかったその技術を日本のメーカーがクリアしたことで、 日本の技術は世界的に認められることになりました。

しかしこれでも排気ガスを出しているということには変わりなくて、 規制をクリアするだけでは十分ではなくて、 企業はそれを完全になくす方向でいかなければならないのです。

こういった厳しい状況から公共の緑、 都市の緑を見ると、 二つのことが重要になってきます。

一つは、 緑は単に量の問題ではなくて、 人間の活動を吸収してくれる循環のある緑という考え方が必要だということです。

すでに言いましたように、 人間が排出するCO2や生ゴミを吸収する農地などの緑の必要性であります。

   

 もう一つは、 その緑が都市のどこにあるかという論点です。

緑は常に端に追いやられてきました。

ある一定の敷地を与えられると、 まず大切な所に建築が建てられ、 その「ヘタ地」に庭がつくられたのです。

こういう関係では、 都市に豊かな自然は絶対に戻ってきません。

緑は堂々と敷地の最も重要なところの中心に置かれ、 そしてそれを生かす形で建築が配置されなければならないのです。

これを私は新梅田シティの「中自然の森」で実現しました。

緑を生かすには、 建築家や施主と堂々と渡り合う姿勢が大切なのです。

   

辻本

 コストの面で言いますと、 大阪では買わなければならないものが篠山なんかに行くと山にあるのです。

「森は宝である」と。

肥料なんかでも枯れ葉を拾ってきて巻いておくだけとか、 そのように山に必要なものがあるので、 後は人の手だけです。

花の植物館、 ユニトピア篠山でやったのは非常に人の手がかかっているのですが、 枯れている花がないとか、 その人の手がかかっていることにとても価値があるのです。

まちも同じだと思います。

   

 またここで森がなかったら困るということがあります。

自然のシステムを使えなかったら、 大がかりな機械が必要になって、 非常にお金がかかります。

だから森とか、 それだけでなく川とかも含めた自然のシステムは近くに必要だろうと思います。

   

 あと、 これは時代にも関係してくることですが、 先程公園には緑なんかなくてもいいんだというような話しがありましたが、 いろいろやるうちにやはり緑が欲しくなるはずです。

単に経験がないだけのことです。

例えば落葉樹の街路樹を植えようとするとき、 大阪とかでしたら大概の人は落ち葉の掃除が大変だからやめてくれということを言い出すのですが、 これも落ち葉を掃除する手間を経験することからコミュニティ意識が生まれるのです。

私は敢えて手間のかかる仕掛けを入れていくことが大切だと思うのです。

たしかに管理については手でできる範囲の事しか触れていませんが、 その手でできることをまちづくりの中に展開していけないかと考えるのです。

落ち葉を掃除するとおしゃべりをすることになります。

「面倒くさいねえ」とか「たくさん落ちたねえ」とか「冬になったねえ」とか、 これだけで話しが始まります。

話しが始まる街と話しが始まらない街とでは全然違うわけです。

私はバークレーに行っているときに、 3つの街でそれを調査したことがあります。

セットバック3m以上の庭を持つ通り、 セットバック2mほどの前庭を持つ通り、 全く庭を持たない通りで住宅と街路の間の緑とコミュニティ性がどう関係しているかを見まして、 話しのある環境の大切さを知りました。

   

 このようにして、 コストがかかることや手間がかかることを物事を理解させるために行っていかなければならないのです。

手間をかけることで市民のサポーターができ、 市民サポーターの活動が経済的なカバーになると思います。

   

 特に関西では多いのですが、 お年寄りの方々にお弁当を持たせてやってもらっていたりという現実がありますが、 これは間違いです。

その行為をすることでいろんな事に気付いてもらって、 自主的な活動にしていかないといけないのに、 ものを与えてやらせるのではおかしいのです。

これからのライフスタイルはこれまでのような仕事ばっかりではなくて、 もっといろんな事に時間を使えるようになっていくと思いますし、 そのなかでお金を使わないで楽しめることといったら住民参加しかないのです。

そして共生のまちづくり、 循環のまちづくりの隣にそのような参加の仕組みを置いておかないと成り立たないのです。

行政も「それだったらお金がかからなくていい」のではなくて、 しっかりとその中にボランティアに対する教育費を入れてなくてはなりません。

住民から「税金払ってるのに、 なんで私らが働かなあかんの」といったことが出てきます。

そこでコーディネーターが役割を果たすのです。

循環型の街をつくる時には、 一方でソフトの面での充実が要求されます。

   

 それから、 全部を機械でなんかやるということはものすごく無駄遣いなことで、 そのためにはやはり山や森が必要なのです。

そこには利用できるものがたくさんありますし、 そこからいろんなものを取ってきて使えばいいのです。

またそれは、 都市の中でもあるのです。

   

 先程吉村さんがおっしゃったように、 ゴミがそうです。

ゴミをうまく使えば、 微生物や植物が育つための土は十分できます。

自分のところのゴミで家庭菜園をつくったという人は結構います。

大きな自然を都市でやるよりも、 このように小さなことを、 かつ手間を入れながらやることは非常にいいことだと思います。

   

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