権力的にやるしかないのか、 まあどっちにしてもこちらが権力的に見えるだろうなという感じはありますが、 なんでこう、 うまくいかないのかと思うことがよくあります。
スーパーブロックの中で3人か4人の建築家を集めただけでうまく行かないのだから、 1本の通りを作るのは何ともならない、 これをどうするかというのが都市デザインの大きな課題です。
どうしようもないのかなという気もしているのですが、 他の国では必ずしも日本のようにみっともなくはなっていません。
ここを掘り下げようとすると近代というものがなんなのかということに、 いきなり話が飛びかねません。
先ほど鳴海さんに「近代とはなんだ」と聞いていたのですが、 彼は「市民社会が生まれてからが近代だ」と答えてくれました。
僕はもうちょっと経済的な面から捉えた方が良いのではないかとも思っています。
それはさておき、 近代は市民社会からということでこういう仮説はどうかなと考えました。
つまり、 アーバンデザインを古代から今日までひもときますと、 古代都市から中世都市、 ルネッサンスあるいは近世都市、 近代都市の時期があります。
単純にいうと、 それぞれの時代にそれぞれの都市を誰かがデザインしているのです。
デザインしないで自動的にできてきた中世都市なんかもあるのですが、 基本的には誰かが作っている。
古代都市は、 空の上からつまり神の目で見て作っていて、 日本とか中国の都市計画は非常に分かりやすい。
天子の座というのは、 神の代理人としての座で空間的な構成がなされている。
ルネッサンスも宇宙観が反映している。
ところが、 近世都市になるとかなりに世俗的な権力が出てきます。
本当にそうであったかどうかは知らないのですが、 君主がどこかの宮殿にいて、 俺はあそこに行きたいから道路をまっすぐ引いたといっても不思議ではない。
つまり少数の選ばれた人間の見方、 視座、 視点で都市空間が構成デザインされていたと考えられます。
それが、 市民社会になってどうなったかというと、 当初のユートピア的な意味での初期市民社会には、 選ばれた市民、 選民のコミュニティを想定して、 その結果としての空間、 都市計画があったのではないか。
シビックセンターあるいはコミュニティセンターなどは、 そうした市民社会の空間的反映と見ることもできます。
言ってみれば近代初期の都市計画のモデルは全部そこにあるわけです。
ル・コルビュジェにもハワードにもそういう感じがあります。
しかし同じ近代でも、 社会学的な言い方をすれば、 市民社会から大衆社会へ変化した時期に、 都市計画ひいては都市デザインはどう対応したのか。
日本の場合、 戦後いきなり大衆社会に近い状態になったのではないかという気がしますが、 その大衆社会での拠点は、 シビックセンターやコミュニティセンターではなかった。
それは例えばターミナル地区であったり盛り場であったり、 そういったものが拠り所となり空間が構成されたのではないか。
だから駅前があって、 大衆の移動にあわせたような、 言い換えれば大衆の視座をここに代表させたごとき空間構成というようなものができているような気がします。
その背景には工業化社会の大都市化というものがあります。
その後大衆社会もどっかへいってしまって分衆化だとかいろいろな言い方が出てきました。
そうなることで案外、 コミュニティセンターが新しい形で出てきたりするのかもしれません。
このような流れをみると、 都市を見る目といいますか、 主体的な目、 言い換えれば視座というものがどんどん拡散しているということが分かります。
視座の拡散というか浮遊が起きている。
価値観が多様化すれば当然そうなりますが、 これはエントロピー増大の方向で都市が混乱をするのはある意味では当然ということになりかねません。
昔のようなコミュニティとか共同体みたいなものはもう持ち得ない。
だからそういったものの価値観を前提とした街並みはもうできない。
ダメだ。
だけどダメだと言ってしまうと、 アーバンデザインは何をやるのかということが問われるので、 みなさんと考えたいと思います。
いずれにしても、 街なみをどう作るのかということは、 アーバンデザインの重要な課題であり続けていますが、 全然成功していません。
下手に作ろうとするとみんなテーマパーク型になってくる。
さあどう考えればよいか。