その前まではなかなかいいと思っているのです。
バロックなんかはちょっとうんざりしないでもないのですが、 近代よりはまだましかなという感じです。
近代になったとたんに味気なくなってしまっています。
それで、 先ほど「近代はいつからなんだ」と鳴海さんに聞くと「フランス革命以降だ」ということなので、 近代の中でも特につまならなくなっているのはどうも1950年以降です。
30年代とか20年代とかもっとさかのぼって19世紀末とか、 これらも近代ということでこれらの時代には、 かなりいいものがあるわけです。
やはり工業化社会になってからが特におもしろくないのであって、 近代後半、 後期の近代がおもしろくない。
ともかく大量生産だとか標準化だとか、 そういったものが日本でも戦後いろいろなところで始まって、 近代建築そのものがつまらなくなっているような気がします。
もちろん合理化とか効率化とかそういうこともあるのでしょうが、 それ以上に建築に求めるものが非常に単純化したというか、 資本の要請で形ができているという感じがします。
柱を描いてラーメンだから合理的スパンは6.5だとか8.0だとか言って、 あとはとにかく埋めていけばいい、 とりあえずはできる。
今、 設計事務所は何やるのかといったら、 法律チェックからはじめて形を決めていってしまうということで、 あれじゃあおもしろい建築になろうはずがない。
「お前はそう言うが、 最近は設計教育も変わってきている」と言ってくれていますが、 「なんで独立建築ばかり課題に出すのか」と言ったら、 「世間に出たらそんなチャンスはないだろう」とこう言うのです。
公共建築を題材に4面エレベーションを書かせるようなトレーニングばっかりやっているものだから、 町なかの建築に対して、 あれは次元が低いものではないかと思いこんでしまうのではないか。
建築がつまらないと街もやっぱり良くならない。
しかし建築に暴れられても街が良くならない。
このへんをどうすればいいのかというあたりが、 課題としてはあるのだろうと思います。
脱工業化を日本は急速に進めたものだから、 経済的な地盤沈下を起こすだろうと思いますが、 脱工業化というものが何かということをステレオタイプ的に言うと、 工業化の中でできた大都市が崩壊していくことだろうと思うのです。
我々の専門に近いところで言えば、 工業を前提とした近代都市計画の理論が役に立たなくなるということを意味します。
例えば、 ゾーニングが揺らいでくるだろうし、 都市と農村の区別が従来と違ったものになってくるでしょう。
特に情報化社会ということで距離の概念がだいぶ変わってくるでしょう。
そういったことを考えると、 ずいぶん空間イメージが変わってくると思います。
その辺は若い人には大事な議論ではないかと思います。
今、 どういう空間をモデルにするのかと問いかけると、 この頃のアーバンデザインは、 どうも過去の、 または他地域の「これはいいな」と思うもの、 事例を求めて行動するということがあるわけです。
はっきり言ってしまえば、 中世の都市とか。
それに対して、 現在の社会情勢なりを如何にデザイン化するのか、 空間化する、 空間を整序しながらデザインするということもあるだろうと思います。
あるいはかつてあったようなユートピア的な思考で、 あるいは未来思考的な中で、 空間的にそれを先取りしていって表現していく、 ということがあるのかどうか。
表現的にはありそうですが、 それはたぶん実務上はあんまり意味はないものでしょう。
そのまま実際の空間として帰着させることはかなり難しいでしょうが、 そういう3つの中でみなさんどういうところを追っかけていくのかなということがちょっと気になっています。
アーバンデザインは過去をモデルとすることになるのでしょうか。
人間的なスケールが昔の方があったとか、 空間の構成が昔の方がうまかったというテクニカルな面があるのか、 その辺は良く分かりませんが、 どうもこれまでのところ過去にモデルを取るタイプが多い。
それに対して、 建築家サイドではアーバンデザインが地域主義的な、 あるいは歴史主義的な方へ走るということについて抵抗を持っているようで、 このあたりも都市と建築の関係でしっくりいっていない理由のひとつがありそうです。
こういう傾向が今後も続くでしょうが、 特にハウジングをやっている方は良く分かると思うのですが、 もっと単価を落とせないのかとか、 こういう無駄は省いて欲しいとか、 相当やられているわけです。
公共投資の方もおそらくそういうことになっていくでしょう。
そうすると、 また結局安かろう悪かろうの世界に戻っていくのかどうか、 ということがあります。
今は政治がおかしいから無茶苦茶ですが、 すでに建設投資がどちらかというと減っていく傾向にあります。
そういうような中で贅沢は許さないというか、 認めないという方向で、 デザイン面でもかなり制約が出てくるのではないかという気がしています。
ただ、 一度獲得したデザインのレベルがそう簡単には落ちないのではないかという気もしますし、 今まではノーデザインで作られたものが多すぎたわけですから、 そういうものを一つ一つ大事に作っていこうということになれば、 デザイン機会は増えるわけです。
さっきも言いましたが、 バブルの時に作ったものが社会資産としてどういう格好で残っていくのか、 ということなんですが、 あの頃の若い建築家には「窓ガラスが割れたらそれで建築の寿命は終わりでいい」と言っていた奴がいっぱいいたわけです。
熱病にでもかかっていたのか、 ガラスを取り替えるなんて発想が全くなかった。
非常に消費的なものをいっぱい作ったわけです。
消費的ではないものとして残っていくものは何なのかというと、 結局巨大建築や公共建築ではないかという気がしています。
そうすると、 大手組織事務所とか大手ゼネコンが設計した建物が、 現代の時代精神や文化を代表する形で100年後には残るのではないか。
だとすれば、 いわゆるアトリエ系の、 というか作家的に頑張っている建築家の作品は、 結局は100年前にたとえばセセッションの建築がいくつか残ったように、 そういうことをやった連中もいるというぐらいで残っていくのでしょうか。
それは時代精神としては非常に重要ですが、 都市の形成という点からは、 たいした意味を持ちそうにない。
そうするとおもしろくない街を作っているんだなあという感じがなんとなくしますよね。
その時に、 アーバンデザインがどこの部分の何を手伝っていたのか、 何をやっているのかというあたりを、 JUDIのみなさんと議論しながらやっていきたいと考えています。