古代とか封建社会においては、 誰に対してデザインするのかということは、 権力者とか神に対してなど、 明確にあったと思います。
近代に至ってそれらをすべて失ったのではないか。
失ったままで、 それが見えないままで私たちはやってきたのではないかというあたりが、 実は、 我々の非常に大きな疑問点であり、 それは今もまだ続いているのではないだろうかと思います。
その中で、 特に土田さんにお聞きしたいのですが、 私どもが公共の仕事をやるときに、 そういうものが見えたつもりで話をされるんですよね。
それは「見えない良識」だとか「市民」だとか「私たち」とか、 その平均とか一般標準が、 主人公として出てきます。
そういうことが、 導くものはなにかということをもう一度真剣に考えないと、 デザインが非常に平均値的なものになってしまって、 つまらない都市を生み出していくことになるのではないかと思います。
もっといいますと、 それをいい続けてきたのが都市評論家ではなかったのかという気がするのです。
土田さんがおっしゃった中で非常にいいなあと思ったのは、 近代は職人を追い出していったということが問題だといわれたことです。
デザインは空間を評論することではなくて社会的リアリティとの接点をデザインとして言語化しなくてはいけないのに、 そうしないで、 統計論的とか歴史論的にデザインを語っている限りにおいて、 永遠に近代を乗り越えられないのではないのかという実感を常に持っています。
そういう視点から、 『日本の都市環境デザイン』のランドスケープデザインのところを書かせていただいたつもりです。
都市環境デザインもそのあたりを反省しながらやっていかなくてはならないのかなという感じをもっていまして、 社会的リアリティとして、 それを形態言語に展開していく行為をしていかなくては、 評論言語ばかりではやっていては意味がないのではないのかと思います。
デザイン獲得という言語のあり方を、 私たちは見つけられたのかというあたりを、 土田さんはどのようにお考えになられているのか、 ということなのですが。