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プロフェッショナルの条件

土田旭

デザインの心構え

 これは、 昨日も幕張の住宅地のデザイン検討の場で議論していたのですが、 例えばマンションの設計の時に、 そこの住み手をどう設定するのかという問題があるわけです。

通常の方法論だと、 現在の住宅の需要というか生活欲求にあわせて、 マンションのプランニングをしデザインをしていきます。

それは果たして、 正しいのか正しくないのかという議論をしていたのです。

   

 つまりマンションの寿命は、 日本では30年持つか持たないかぐらいでみんなダメになっているのですから、 1世代か2世代で終わりで、 住み替えをやったとしても2、 3世帯分で終わってしまうわけです。

例えばヨーロッパの住宅は延々数百年住んでいるわけで、 設備は取り替えてきていますが、 延々住んできているわけです。

そういったようなことを考えると、 今の需要に合わせて作っていていいのかどうかということです。

   

 「そういうことを気にしていると商品にならない」「住宅を商品だと思うのはけしからん」とか、 色々な議論があるのですが、 そういうあたりが実は昨日議論されていた点です。

   

 それから、 都市計画やアーバンデザインをやる場合の心構えの問題ですが、 建築をやる場合も含め、 プロフェッショナルであるからには、 何がやりたいのかということではなく、 何人の人間、 ユーザーに成り代わってその空間をイメージできるのか、 ということだろうと私は思っていて、 若い連中にもそういっているのです。

だから、 ワークショップとかアンケートをやらないとデザインできないというのでは、 専門家ではないと思っているのです。

あのおばあちゃんになれて、 あのおじいちゃんになれて、 あのちっちゃな子どもの視点が得られて、 奥さんの立場になれてというようなことがあって、 その空間をどう作っていくのか、 ということがあってプロだろうと思うのです。

その辺が安易になっているのではないかという感じをもっています。

   

 役所との関係でいえば、 あれは疑似クライアントであって、 最終ユーザーではありません。

単なる管理人でしかないのが偉そうなことを言うな、 とそう言っているものですから私には仕事が来ないのですけれども。

   

都市を考える建築設計者は例外中の例外

 新日本建築家協会の関東甲信越支部に都市デザイン部会があるのですが、 メンバーはJUDIのメンバーと半分ぐらいだぶっています。

そこの例会での雑談の中で、 日本に1級建築士というのは20何万人ぐらいいるのですが、 そういう中で、 新日本建築家協会は、 建築家だという高い意識を持って、 高い会費を払っている方々ですが、 7000人台だということです。

「その1割くらいは都市に対しての素養というというのか一定の倫理観みたいなものをもっているのか」と聞いたら、 「冗談じゃない」というわけです。

「1%といない」というわけです。

「数100人もいなくて、 5、 60人じゃないのか」というわけですが、 これはかなりシビアな見方だと思うのですが、 10%として700人ぐらいですが、 それぐらいはいてほしいと思うのです。

   

 つまり、 建築家というのは自分の与えられた敷地と設計条件しか見ないから、 施主さんに対して両隣がこうなっているからこうしましょうよなんていう建築家なんて滅多にいない。

それじゃあいい街なんかできやしないということがあって、 そんなに数が少ないのかとあらためて思いました。

   

 それとは別に、 日本の建築を設計しているところはゼネコンの設計部、 組織事務所の設計部、 あとアトリエ系の事務所がありますが、 「アトリエ系の事務所がやっている設計はどのくらいあるのか、 1%ぐらいあるのか」というと、 「これも1%もあるわけがないと、 0.1%か0.01%ぐらいではないか」というわけです。

   

 そういう人たちが都市論をいったりアーバンデザインが大事だとかいってるわけです。

一万分の一も作っていない人たちが。

つまり、 先ほどの議論と結びついてくるわけですが、 意識としては声高に語られたり、 主張されても、 実際にできてくるものでは量的にはほとんど問題にならないものでしかない。

その量的に問題にならないようなものを、 あいつらははねているといって、 僕らはすぐ排除しがちなのですが、 実は余り排除しない方がいいのかなと最近は思っております。

徒党を組んではねられても困るので、 博覧会の会場かなにかにとじここめておきたいのですが、 そういうようなものを街の中にうまくちりばめていくということはやはり必要であろうし、 そういう能力をちゃんと活かした方が良いと思います。

   

相互批判が都市デザインには必要

 もう一つ、 実は先ほどの「困ったデザイン」のところで、 JUDIのメンバーの作品を批判するべきだと私は強く主張したのです。

つまり、 相互批判とか批評のない世界でのデザインなんかがレベルが上がるわけがないのであって、 会員だろうが非会員だろうが、 これは困るというのを片っ端からみんなあげちゃえといったら、 それは困るという意見もありまして、 それで、 無名のものを攻撃することになってしまいました。

これは本意ではないのです。

   

 詠み人がしれているものを、 やっぱりこれはおかしいのではないかといって、 自己批判するなら自己批判せい、 反論があるのならせよと、 というのをやった方がいいのではないかと思っています。

当然、 私も頭を丸める覚悟でものを言っているわけです。

やはり、 この会の長期的な課題として、 批評というか、 そういったものがないとまずいのではないかと思います。

   

 先ほど都市評論家という話も出ていましたが、 バブルの時も都市計画サイドの専門家は誰一人として発言しませんでした。

結局、 長谷川徳之輔さんだけが、 バブルは大蔵省が元凶だ、 銀行がいけないとわめいていただけで、 あとは誰も何も言わないで、 バブルのうまいところを吸っていたということなんです。

都市計画の立場から言うとちょっとうまくないなあと思うのですが、 やはり批判的精神というのが都市計画にはない。

これと比べると建築デザインの方がいくらかはあるのかなという気がします。

   

オープンスペース

 里山やため池の保存が現在大事というか、 前から大事だと思うのですが、 やはり、 空間構造として構造化する必要があると思います。

これらはどんどんつぶされる運命にあります。

里山の意味もすでにないわけで、 ため池もそうです。

今後ますますなくなっていくわけです。

   

 このあいだ、 東欧に行ったときに、 ウィーンのフォイリゲに行きました。

フォイリゲというのはブドウの果樹園があり、 自分のところのワインを屋外で飲ませてくれる醸造元が何軒か集まっているところです。

すぐ上の方にはブドウ畑が見えたりしていますが、 実はすでに市街化されていて、 そのさらに上にかなり高級な住宅地があるのです。

その上に、 また農家や醸造元があって、 要するに入り交じっているのです。

   

 入り交じってはいるのですが、 雰囲気が出ています。

農家の庭先にはいると本当に農村という感じがします。

でもその下も上も実は住宅地なのです。

   

 日本の場合、 都市と農村の境界領域の作り方が非常に下手だと思います。

そういう中間領域が、 景観上の色々な課題になっているのではないかと思います。

フリンジが曖昧であるということがむしろアジアの特徴で、 なにもヨーロッパ風にきっちりしたエッジに直す必要はないのかもしれませんが、 それにしてもそのあたりがきれいではない、 ということは事実です。

   

再開発

 関西はまだ山を切り海を埋める気でいるみたいですが、 大勢としては、 ほとんどの仕事が再開発というか、 今まであるものの再蘇生、 再組織化、 あるいはリファブリックといったような方向に進むのではないかと思います。

というより、 むしろ向かわせるべきだと思っています。

ヨーロッパは完全にそういう方向に入っています。

そうではあるのですが、 いつ壊れるか分からない建物をリノベーションして使ってどうなるのかという話もあるので、 その辺が今一つ解けないのです。

おそらく全面的な再開発ではなくて、 いわゆるリハビリテーションというのかリノベーション型のリニューアルが主流になってくるのではないかと思います。

   

 これは前から思っているのですが、 いわゆる新開発だからといって、 新天地だからなにをやってもいいわけではなくて、 そこも再開発だというそういう見方でやっていけばずいぶん変わっていくのではないのかと思うのです。

   

 公園なども、 リデザインなどの方向が増えるというか、 そういうものの中で空間を活性化させるということが必要ではないかと思います。

   

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