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近代建築をポジティブに見られないか

井口勝文

 我々は美しい都市を作れるのかというあたりで、 土田さんにもう少しお聞きしたいところがあります。

   

 近代建築なり近代の都市について不満を述べればきりがないわけで、 なぜそんな不満を我々が持つのかということもだいたいみんな分かっているわけですが、 ちょっと見方を変えて、 逆に近代も悪くないじゃないか、 ポジティブに見たらどうなるか、 そんなことを考えています。

   

 先ほど土田さんも、 近代の前期1920年までとか、 戦前のものだとかは結構いいものがあって、 最近のを見るとどうもまずいのじゃないかとおっしゃったのですが、 実際その通りです。

少なくとも、 太平洋戦争以前にできた街を見ていくと、 なかなかいい雰囲気になっているのも結構あるし、 つい最近のものですと、 どんな建築家が作ったものでも、 どこかにいちゃもんをつけたくなるようなものが確かにあるわけです。

   

 これはなんだろうと思うのですが、 一言でいうと、 時間が経てば良くなるんじゃないか、 ということが一つ言えると思うのです。

ものが残っていくことは非常に難しい。

ある程度取捨選択されていくし、 どんなにお粗末なボーペンでも使い込んでいくと愛着が出てくるということがあります。

案外都市というのはそういう見方をするのが本来の見方かもしれない。

だから昔作った建物でもどれもが良かったわけではないのですが、 しょうもない建築でも街並みの中に残っていくと、 いいじゃないかとなっていくところがあるわけです。

   

 サン・ジョバンニ・バルダルノといって、 フィレンツェから30kmぐらい離れたところにある非常に小さな街を訪れたことがあります。

そこを再開発していました。

   

 この街は1200年の後半に作られています。

1200年の後半といいますと中世の終わりですが、 フィレンツェの人口が増えてきて人びとを収容しきれなくなって郊外にいくつかニュータウンを作るのです。

そういうニュータウンの一つなのです。

碁盤目状に作られていて、 非常に密度が高くて、 城壁といいますか市壁もちゃんとある街です。

   

 その街が今もほとんどそのまま残っています。

その郊外にずるずると七、 八百年かけてスプロールしてきた街があるわけです。

その市壁の中の再開発をしているわけです。

そういう風に古い住宅地ですから、 住環境は非常に悪い。

それで、 どのように再開発をしているかというと、 いわゆる日本でいうところの区画整理事業をしているのですが、 日本ですと道路を動かすのですが、 向こうは建築そのものを動かすのです。

   

 建築を土地そのものと思えばいいのですが、 建物はそのまま全部残して、 中の構造もほとんどそのまま残しながら、 部屋を取り替えていくのです。

   

 例えば一つの建物の中で、 リビングルームと寝室がバラバラで、 階段を通って妙なところにあるとか、 あるいはトイレがないとか、 非常に使いにくい形になっていっているわけです。

ある部分は、 建物をちょっと壊して、 外の空気が入るようにしなければならないということもあるのですが、 そういうようなことをやって、 お互いに部屋の取り換えっこをやっていくわけです。

   

 そうすると、 ある程度まとまった住み心地のいい部屋が少しずつできていく。

それを非常に根気よくやっています。

   

 そのベースは、 建物は全部現状保存だという姿勢です。

   

 街の中にRC造の1965年ごろに建った小学校が一つあります。

1200年代に作った建築と1900年代に作った建築が入り混ざっているのです。

   

 「この小学校はどうするのか、 このまま残すのか」と質問したのですが、 ここの所が言いたかったところなのですが、 彼は「もちろん残す」というわけです。

僕はちょっと不思議に思ったのです。

例えばこれは壊して昔の街並みに復元するというようなことがありうるのではないかと思っていたのですが、 彼が言うには、 そういうことは一切考えていない。

今この時点であるものは、 みんな同じ値打ちだ、 存在するという意味で同じ値打ちだというのです。

   

 これが値打ちが若干低くて、 これは値打ちが高いとか、 そんなことを言い始めたらきりがないというわけです。

ですから、 全てをストックとして、 今の時点としてみてしまうという見方なんです。

   

 これはストック社会の本質的なものを感じさせます。

そういう見方で街というものを見るべきではないかと思いますと、 今我々が作っている貧しい建築というものも、 ストックとして残っていくんだと言う前提に立ちますと、 いずれ我々の手垢がにじんでいい街の一部になっていくんだというふうに考えざるを得ないというか、 考えてもいいのではないかという非常に楽観的な見方ができるのではないかと思うのです。

   

 いやそうじゃない。

材料が違うだとか、 工業化されていて薄っぺらだとか色々いえます。

でも、 ひとつのアルミのパネルの裏には、 非常に複雑な工程も入っているし、 例えばどこかから石を切り出してきて、 職人が切り刻んでいって、 半年もかけてコーニスを作ってそれをはめ込んだ、 というのに比べて、 果たしてアルミのパネル1枚が値打ちが低いかというと、 僕は必ずしも低いとはいえないと思います。

   

 アルミのパネル1枚の裏にある、 技術力、 生産工程、 そういうふうなものを比べるとあんまりイージーに言えないと思います。

   

 例えば、 クノッソスの神殿について「あの時代にあのスケールのものができたな」とよく言いますが、 今の時代には例えばここから見える原さんの新梅田シティなんかも、 ものすごいことをやっているわけです。

今の方が、 巨大な構築物を楽々と作っているわけで、 ある意味で、 我々はちゃんと歴史に挑戦して、 ものを残していっているのではないかと思うのです。

   

 近代建築に我々が不満を感じるのは当然だと思いますが、 案外昔の人も同じように不満を感じていたのではないかと思うのです。

要は、 これがうまく残っていくかどうかではないかと考えたいのですが、 どうでしょうか。

   

 もう一ついいますと、 こういうことは、 あんまり当たり前すぎて誰もいわないのではないかと思います。

先ほど佐々木さんが評論家のことを話されていましたが、 我々専門家なり、 評論家なりマスコミなりが、 いわゆるデザインを一つのボキャブラリーというか記号というか、 そんなものとして取り扱っていて、 一つの遊技になっていると思います。

私は、 その遊技は遊技として楽しんだらいいと思うのですが、 ごく当たり前のものがもう一つあるということを知っておくことが必要だと思うのですが。

   

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