今日はランドスケープや建築の分野で実際に作品をつくられている方々にお集りいただいて、 それぞれ取り組んでおられる状況の中から何かシークエンスについて感じておられること、 またはその可能性についてお話しいただきたいと思います。
まずは清水さんからお願いします。
先程のお話の中でヨーロッパと日本を対比されていたのですが、 ヨーロッパと言っても軸線的なものばかりではありません。
例えば山岳都市なんかはシークエンスの変化に富んでいます。
そういう意味では今日紹介されたのは非常にシンボリックなものを集められたのではないかと思います。
西欧の軸線的な計画においては、 透視法(パース)というものが非常に意識的に使われていました。
それに対して日本の庭園では、 洛中洛外図に見られるような雲霞(ウンカ)法と言いますか、 部分部分を捉えて中間を省略していくという、 非常に日本的な方法が取られています。
また、 京都の街区は格子状になっていますが、 これ自体は別に日本的でも何でもなくて、 むしろそのグリッドの崩れたところに日本的なものがあると思います。
都市だけでなくて建築や庭園などもそうで、 西芳寺なんかが特にそう思うわけなのですが、 きちっと出来たものが崩れていく、 その途中の段階が見られます。
そこに美を見い出しているのが、 本当の日本なのではないかと思います。
私が想像するところでは、 おそらく桂離宮は図面がなかったのではないか、 つまりつくりながら考える、 現場でつくっていった造形のように思えます。
それに対してベルサイユは、 最初から図面があってつくられた造形ではないかと思うのです。
ですから日本的なものは最初は図面がなくて自然に、 例えばあちらに石を置いたらどうかとかいうふうにしてつくられていったのではないかと思います。
例えば自転車に乗っている時は、 私はシークエンスの変化をとても楽しむことが出来ます。
電車に乗っている時もそうです。
特に新幹線に乗っている時は非常に高速で移動しますから、 ダイナミックなシークエンスの変化に遭遇します。
遠景、 中景、 近景が重なりあって、 同じ風景でも何度でも楽しんで見る事が出来ます。
しかしその様に連続して像を見るのは、 都市の中では難しいのではないかと思います。
おそらく断片的に像が見えるというのが、 都市の中でのシークエンスではないでしょうか。
それはつまり先程言った雲霞法的な見え方ではないかと思うのです。
孤蓬庵や金地院の庭、 庭というよりはむしろその空間構成が非常にシークエンス的に豊かです。
一時期、 建築家の槙文彦さんの作品にも同じ様な事を感じたのですが、 最近はそうでもありません。
あと、 山岳寺院もシークエンス的に豊かです。
清水寺もその内に入るのかも知れませんが、 室生寺なんか、 歩いているとどこかでパッと風景が開くところがあります。
ここでは連続はしてないのですが、 急に塔の一部が見えてきて、 それから橋があってというふうに、 ずっと山の奥まで続いているような感じがします。
これが山岳寺院の昔からのつくられ方なのかなあと思います。
これはインテリアの話になるのですが、 狭いところを広く見せようとすることから来ているのかもしれませんが、 日本旅館は迷路の様になっていまして、 ドラマティックな空間変化を楽しませてくれます。
これをインテリアシークエンスとでも言うのかなあと思っています。
例えば「引き違え」や「入れ違え」や「遣り違え」など、 これらは石を置いていくやり方や遣り水の流し方等について言っているわけですが、 一直線に通すのではなく、 何かそういうふうにして違えていく、 そしてつなげていく方法を示しているわけですが、 そういったことに可能性があるのではないかと感じています。
街路についてですが、 ずっと通っている道ではなくて、 今井町や富田林にあるような「あてまげの道」の様に突き当たりにアイストップとして家がある様な道は、 道がずれていくという事において重要です。
そうすることによって囲われた街並ができ、 街並に非常に親しみがわき、 その街の町内としての雰囲気がつくられます。
京都でもまっすぐな道ばかりではなくて結構ぶつかりのある道もありますから、 そういう風なつくられ方をしていると、 それがシークエンスにつながっていくのかなという気がします。
そこにビルが入って来ると急に崩れてしまうのですが、 傾斜屋根が残っているところに見る要素が、 シークエンスがあるような気がしています。
京都だからこそ是非残していって欲しいのですが、 風景をつくる要素として屋根があって、 それでいて動いている時のシークエンスをつくる方法として、 道のずれがあるといいのではないかと思います。
それによって余裕を持って周りを眺める事が出来ると思うのです。
歩くとしても車を意識しないで歩けるところ、 歩行者専用のスペースが必要です。
おそらく街の中でシークエンスを利用して計画していくのであれば、 その様な余裕をもって歩けるスペースの計画が伴っていないと、 結局成り立たない話ではないかと思います。
以前私は街路を二重グリッドにして、 車道と歩行者道を交互にしていくような提案をしたことがあります。
景観が先ではなくて、 人が歩くことがまず先ではないかと思うのです。
それをやった後に、 その空いたところに断片的にアーバンスモールスペースのようなものがあって、 そこがまわりを眺めるヴィスタポイントになっていて、 絵になる風景を作り出している、 さらに歩いていくとそういった景観がまた現れてくる。
そういったことが、 都市でシークエンスを使って計画することなのではと思います。
以上です。
今日は庭をシークエンスで捉えて、 それを都市に生かしていくということですが、 実際に今日、 造園をやっている人達がシークエンスを考えて、 昔の回遊式庭園のように人を心から楽しませるものをつくる能力があるのかと言うならば、 なかなかそれは難しいのが現状です。
私は今の造園作品をよく見ているわけではないのですが、 私の見る限り、 個々の「物」をデザインするとか、 一つの場をつくる時に凝った斬新なデザインをするようなことはあっても、 場と場の関係を考えて、 その関係をつないでいくとか、 あるいは道筋を考えて、 ここではこういうふうな気持ちになって次はこういうふうな気持ちになるとか、 そこまで人間の気持ちの中に踏み込んでデザインする人はなかなかいません。
これは私自身の反省も込めて言っているわけですが、 どうしても「物」の方に目が行ってしまいがち、 力が入りがちです。
一方、 ランドスケープにおける「物」、 つまり構造物のデザインについて考えてみますと、 そんなに大したデザインは出来ません。
建築でしたらかなりボリュームのあるもので、 例えばヨーロッパに寺院のように存在感があるとか、 石で出来た建築の巨大さとかがありますが、 造園でつくる「物」といったら、 たかだか四阿(あずまや)とかごみ箱とかベンチくらいで、 いくら頑張ってもそれはB級の「物」なんです。
私はこの仕事を始めた頃、 あるいは学生の頃、 造園のデザインは可能性がないな、 と少し思っていました。
木と石と水の組み合わせをやっても、 そんなに創造性のあるものは出来ないだろうと思っていました。
ただいろいろと仕事をしていくうちに、 遅まきながら木の名前を覚えていったり、 鳥の名前が何となく分かってきたり、 あるいはどんなキノコが生えているだとか、 自然のサインを見ていくうちに、 そのなかに多様性とドラマがあることに気が付いてきました。
そういう自然を楽しむ目で見ていきますと、 庭も違った見方が出来ると最近感じ始めています。
それを味わうことが出来るセンスを持った人が、 そのセンスを凝縮させる形で庭をつくったのではないかと想像するわけです。
ですから私が自然に対して無知であった学生時代は、 庭を見てもそういったセンスが伝わってこなくて面白くなかったのではないかとつくづく感じます。
そうすると庭を見る喜びというものは、 視覚的に見て分析的に捉えるようなものではないんじゃないかと思うのです。
こんなことを言うと今日一生懸命レクチャーして下さった材野先生に申し訳ないのですが(笑)。
たまたま上のほうにある茶室に登って行ったところ、 水鉢に水が流れている、 チョロチョロという音が聞こえてきました。
それは半径5mくらいでしか聞こえないような音なのですが、 言い替えるとそういったデリケートな音がそこに行ったら聞こえるということなのです。
シークエンスを視覚的なことに限らずもっと広く捉えるならば、 音もその一つの要素として考えることが出来ます。
ちょっと奥のほうに行って木立の中に入りますと、 何か5ミリくらいの実が落ちていました。
何かなと思ってつまんで割ってみますと、 非常にいい、 クスノキの様な匂いがするわけです。
ふと上を見ますと、 ムクドリか何かがその実を争って木に群がっているのです。
そういったドラマを見ることが出来ます。
これもシークエンスの概念に入れたいと思うのです。
偶然の出来事かもしれませんが、 そういう一つ一つの楽しみを体験できる場所の連続というふうに、 私はシークエンスを捉えています。
それなら庭でなくてもそこら辺の山に行けばいいじゃないかという事になるのですが、 街中にそのような隔離された場所をつくることも密かな楽しみに違いないと思います。
さらに庭には、 風景を楽しませる「芸」のような仕掛けがあります。
先程清水さんも歩くよりも自転車に乗っている時のほうが風景にフッと入っていけると言われましたが、 そこに行ったら自分のことをフッと忘れて、 自然に興味がいってしまうような、 いわゆる無になるような空間がベースにあって、 所々に橋があったり、 柵があったり、 門のような結界になるものがあって、 そこでハッと我に帰ったり、 あるいは場面が展開したことに気付いてハッとする、 そんな仕掛けです。
そうやって自然の方に興味を向かせたり、 庭園の作為の方に意識を向かせたりする、 言い替えれば人の心を弄ぶと言うか、 操っているような作者の意図があるのが庭園の特徴だと思います。
自分が無になる空間と区切りの空間の連続が、 日本の庭園の特徴の様な気がします。
これは私の勝手な解釈ですが。
確かに自然を取り込んだつくりはしているのですが、 これも材野先生が言われた様に、 目標物があるというのが一つの特徴ではないかと思います。
次々に目標をつくっていって、 それに引かれるようにして進んで行くというのが、 体験的側面から見た場合の風景式庭園の味わい方ではないかと思います。
日本の庭園は、 その様に目標を定めて進んでいくという発想はないように見えます。
「区切り」と「無になる空間」があって、 その繰り返しが何となく成り行きで展開していくようなつくり方があって、 ぐるっと廻ったら満足感があるというふうに感じます。
最近仕事で山や丘陵地を扱うことが多いのですが、 そこを公園にしたりニュータウンにしたりという要請に応じて仕事をしています。
最近は造園の人でも土木の感覚に近くなっていまして、 「山を削って谷を埋める」というような発想が出てきます。
これで平たくて広い土地ができ、 そして日当りもよくなるのですが、 これはゴルフ場が好きな人の発想です。
山あり谷ありの複雑な地形をしたところが開発の対象地として残っているのですが、 そういうところをゴルフ場をつくるような単純なセンスで扱うと間違いが起こるのではないかと思うのです。
山あり谷ありのまま空間を生かしていくという場合、 シークエンスがキーワードになってくるのではないでしょうか。
つまりだだっ広い単調な空間をつくってしまったら生まれてこない多様さが生まれ、 シークエンスが豊かな空間になるのではないかということです。
空間を体験するということを、 私達デザイナーは紙の上でシミュレーションします。
コンピューターグラフィックスなんかを使う場合もありますが、 例えば全部フリーハンドでコンタライン(等高線)とか街路の形とかをなぞっていくことによって、 何か空間を体験したような、 街を歩いているような感覚が得られることがあります。
そういう身体的な感覚を、 デザインする者としては常に持ち続けていたいものです。
以上です。
建築の設計をやっております。
シークエンスは、 建築を設計する時に、 少なくとも敷地の中において建築の外部内部を問わず考えざるを得ない要素です。
その時に自分で一番大事だと思うのは、 シークエンスの分かり易さです。
またそのシークエンスという方法を使う意味を考えます。
なんのためにシークエンスを使うのか。
当然時間的に変化していくわけですから、 その空間を体験することによって、 そこを通過する人の心理や感情が変わっていきます。
それをどのように変えるためにシークエンスを使うのか、 つまりシークエンスの意味性というのが非常に重要だと思います。
実は私はここのすぐ東の方に住んでいまして、 よくこの建物の前は通るのですが、 中は見たことがありませんでした。
今日東側のゲートから入りまして、 まず感じたことは、 入り口の部分が非常に空虚だということです。
普通こういうイベントが行われるところに行きますと、 まず受付のようなカウンターがあったり掲示板があったりして、 人をどこに導くかということがはっきり分かるような仕組みになっているのですが、 ここの入り口はそうはなっていません。
「あれ、 ひょっとして裏口から入ってしまったかな」と思ったくらいです。
右手に明るい空間があって、 そこに大きな吹き抜けがあったので、 メインエントランスの位置が分かりました。
ただその先がまた非常に分かりにくいのです。
モニターで会場案内をしていたり、 サイン的なものはあるのですが、 空間そのものが分かりにくくなっています。
どうも掲示板を見ると会場は地下にあるらしい、 では地下にどうやって行ったらいいのかが今度は分かりません。
いろいろ歩き回って、 半階下がったラウンジの端に小さい階段の入り口があったので、 この非常階段を行けば地下に行けるだろうと思って降りて行ったところ、 どうもそれが地下に行くメインの通路らしいのです。
近くに友人や知り合いがいて、 みんな会場を探しているのです。
「知らないか」「とにかく下に行ってみよう」ということで、 その階段を降りまして下に行くと、 これまたその先が分かりません。
案内図を見ると、 どうも右手の奥に大会議室があってそこでやるのではないかと思い、 そっちの廊下に行きましたが、 その廊下が狭くてたくさんの人が集まるような雰囲気ではないのです。
ずっと行きますとトイレマークが見えまして、 これは便所への通路かなと思ったのですが、 やっとそこで隠れるようにしてある大会議室を見つけたわけです。
今日はシークエンスの話しをしに来たわけですから、 期待してこの会場に来たのですが、 このように腹立たしい経験をしてしまいました。
今日はここに来る前に向かい側の京都会館に久しぶりに寄ってきたのですが、 あのピロティの下をくぐり抜けて、 中庭に入って、 そうすると右手に空間が抜けまして、 東山が見えます。
そしてそれを通り越して京都会館のメインのエントランスに至るわけですが、 やはりあの分かり易さ、 明快さには非常に感動を覚えます。
明快だから感動するわけではないのですが、 あの京都会館という多くの人が集まる施設に対して、 あの中庭の広さ、 ピロティの高さ、 柱と柱のリズムなどは訪れる者の期待感を増幅するような印象を与えているように思えます。
空間がピロティのところで一旦暗くなって、 そこでひとつの結界があります。
そして明るい中庭に入り、 そこで日常からフッと解放され、 この時に右手に東山が見えるという展開があります。
それはやはりシークエンスを考慮して考え出された空間だと思います。
あれも非常にシークエンシャルな建物だと思います。
北山通を少し南の方に下りまして、 入り口がわざと奥の方に計画されています。
丸い壁面ぞいに池があり、 その水を見ながら行くとメインのエントランスがあります。
そこを入ると逆に戻るような感じで進むと、 らせん状の斜路がある吹き抜けのホールがあって、 そこがメインのエントランスホールになっているのですが、 そこから上に上がっていきます。
ここも前に何度かコンサートを聞きに来たことがあるのですが、 気になるのはシークエンスが異常に長いことです。
特に小ホールの方は地上から4階か3階にありまして、 入り口の脇にエレベーターがあるのですが、 わざと分かりにくい様な配置になっています。
これは磯崎さんの意図だと思いますが、 「おまえらはみんな斜路を上がれ」と、 そんなつくりになっているのです。
忙しくて開演間際に駆けつけました。
シークエンスが長く、 行けども行けども到達しないのです。
結局5分くらいかかってしまい、 息せき切ってコンサートを聞いたという経験があります。
1階には公共建築にはめずらしく素晴らしい料理を出すレストランが入っていますし、 そういう意味では京都にもいいホールが出来たと思うのですが、 あのシークエンスは長すぎます。
コンサートの前にはゆったりとした時間が持てればいいのですが、 必ずしもそうではありません。
シークエンスの分かり易さという面では問題がないのですが、 あまり変化がなく、 あれは一体何のための導入なのだろうか、 演出なのだろうか、 と非常に分からない部分があります。
たぶんあれは磯崎さんの建築を見るためのシークエンスなのではないか、 とさえ思います。
本来あの建物の目的であるコンサートを聞く、 その序曲としての空間の演出としては、 あまりにも長すぎて単調です。
そんな感じがしました。
ここ何年か京都には大きな建物がいくつか出来ましたが、 シークエンスの観点から見ますとあまり感心出来ません。
今度京都駅が出来ますが、 あれもどうかなという気がしています。
これは建築の作品であると同時にランドスケープの作品だと思います。
建築とランドスケープが見事に融合していて、 しかもヨーロッパで多い軸線を使った構成と、 近代の非対称の構成とを発展的に融合させています。
全てがシークエンスという一つの手法で見事に構成されている一番良い例だと思いますので、 この話をしたいと思います。
まず門を入りますと正面になだらかな芝生の丘がありまして、 その頂上に木が十数本、 幾何学的に正方形に植えられています。
その木は非常に奇怪な樹形をしています。
それらはちょうどお化けが出てきそうな感じをしていて、 死を予感させます。
そして左手の奥の方には十字架があります。
高さが6〜7mくらいで実際に見るとそんなに大きくないのですが、 その風景の中ではアイストップとして存在感を示しており、 そこを訪れる人達にその場所の意味を明快に表わしています。
左側に建物に沿った形で斎場に向かうまっすぐな道があります。
床面は昔のローマのアッピア街道の石畳のように、 ごつごつとした割石が敷かれています。
非常に歩きにくい道で、 これを約150m歩いていきます。
余りに下がごつごつしているので足元を見て歩かざるを得ず、 最初に見た周辺の風景はほとんど目に入らなくなります。
またその道はだんだんスロープを上がっていくような感じになっています。
その上がり具合はとても緩やかなもので、 視覚的にそれを認識するというよりも、 むしろ足の裏や足の筋肉でそこが坂であることを感じ取るのです。
しかもその勾配がだんだんきつくなっていて、 そしてようやく斎場のある建物のポルティコに着きます。
そこで道が平らになって、 視線を上に上げることが出来ます。
そうするとそのポルティコの向こうに森林が見えます。
その森林の中には墓地がありまして、 その墓地の風景が目の前に開けてきます。
そこから左に行ってポルティコの下を歩いていきますと、 今度な床面が下がってきます。
これもごくわずかな勾配で、 前もって写真を見ていてもそれでは分からないくらい緩やかな斜面になっています。
それをずーっと下りていって、 礼拝堂の入り口にたどり着きます。
その中に入ると、 今日の会場よりももう少し大きいくらいのホールになっていまして、 教会の様にベンチがあります。
正面には祭壇と死者を安置する台があるのですが、 入り口は後ろになりますのでその後ろの方から入っていくと、 会場の中にも床に勾配がついています。
これも図面や写真では気付かないくらいの微妙な勾配で、 それは椅子を置いても違和感がないくらい緩やかです。
しかし実際に歩いてみると、 それを感じ取ることが出来ます。
しかも床がライムストーンで出来ていて、 非常になめらかなフロアになっています。
最初はごつごつとした道を歩いてきて、 ポルティコのところではそれが切石になって、 さらに建物の中に入ると表面が磨かれたライムストーンになっているのです。
足の裏で感じる床の仕上げ、 あるいは筋肉で感じる床の勾配は、 シークエンスを追うごとに変わっていきます。
それは視覚的なものではなくて、 むしろ触覚とか身体感覚なのです。
足の筋肉によってそれを感じるのです。
ごつごつした上り坂というのは、 あたかも人間の人生の苦難の道を思わせます。
それがポルティコのところで切り替わって、 床の仕上げも穏やかになり、 礼拝堂の中にはいるとさらに床はなめらかになって、 それはまるで死後の安らかな世界を表現しているように私は感じました。
そして下り勾配の床は死者を安置する台のところで一番低くなっていて、 この場所がその上で横たわる死者のためにつくられているという空間の意味が明確に示されているのです。
私が訪れた時には葬式は行われていなかったのですが、 その空間を体験しただけでその場所がどんな意味を持つのかということがはっきり分かりました。
これがシークエンスということではないかと思います。
おそらく私は、 アスプルンドの考えを読み取ることが出来たのではないかと思っています。
その空間にとって何が必要で、 そのために彼はそういうシークエンスを使ったのだということが、 体験しただけではっきりと分かった気がしました。
建築におけるシークエンスというのは、 やはり分かりやすさと意味性が両方しっかりとしていないと駄目だと思います。
しかし都市にははっきりとした目的があるわけではなく、 特に現代の都市は昔の城下町とか門前町の様なものでもありません。
現代都市は非常に多様化しているので、 ある意味で時間軸がはっきりとしたシークエンスという手法が都市デザインの中で有効かどうか、 私は建築家としてはちょっと疑問です。
以上です。
私も中村さんと同様に、 専門領域は造園です。
今日は京都の街を祇園から清水寺まで歩いたのですが、 江戸の街はどうだったのだろうかと考えてみました。
江戸の街研究は、 これまでにも数多くの研究者がてがけています。
しかし視点を変えて、 いわゆる歴史小説の中に出てくる江戸の街の様子についてみてみたいと思います。
江戸の街が歩くにつれてどう楽しさが変化するかという点が、 小説の中には随所に出ています。
江戸の街では歩くことが基本です。
このため途中でお腹が空いたら川中の茶店で団子を食べるときの味わいとそこで展開する風景の描写や、 待ち合わせの場での木陰のざわめきやそこから見える池の景色であるとか視覚や聴覚に訴える描写が展開しています。
その中からある部分を書き出しました。
「ここは江戸郊外、 中目黒村の一本杉と呼ばれている場所であった。
田畑の連なりの中の小高い丘の上である。
目黒の権現坂を上がり、 目黒川を渡ると、 雑木林のかなたにこの一本杉が望まれる。」
こういう形でシークエンスが展開されるのが、 お分かりでしょうか。
今の目黒の権現坂は目黒駅の西の方にあるらしいのですが、 ずっとこの一本杉がランドマークになっていて、 江戸の街の郊外の感じが何となく分かるような気がします。
「品川宿の南品川三丁目のあたりで町駕籠を捨てて、 ぷらりぷらり歩き始めた。
三丁目と四丁目の境に、 土地の人々が浜道と呼んでいる細い道がある。
浜道を下がって行くに従い、 景観が下がってきた。
そこここに網の干場があり、 民家もまばらになって、 漁師達の姿が多くなってきた。」
これは海に至る風景の展開です。
そこで気付いたことの一つは、 シークエンスの素晴らしさは道が地形や高低差に逆らわないで少しずつ出来ていった結果ではないかということです。
人が二人並んで通るのがやっとぐらいの、 そんな細い幅員の中で少しずつ視線が高くなっていきます。
下から上に上がって行ったので、 上の方を見ながら歩いて行ったわけですが、 階段を上りきったところで振り返ると、 街の風景が見えます。
最後に清水の舞台から京都の街が見下ろせる、 といったような展開でした。
こういう展開は、 先程中村さんが言われた様な「山を削って谷を埋める」というような発想からは生まれないと思います。
地形とか地物に馴染みながら道をつくっていって、 その両側に発達した民家やお茶屋さんやお店があり、 その様々な営みが我々歩く者達にいろいろ話しかけてきたり、 あるいはいろいろな声や音が聞こえてきたりします。
それを感知しながら歩くことによって、 余り疲れないで歩いて行くことも出来ると思います。
この様な道ではその道程を楽しむことが出来ます。
このように、 地形に逆らわずに人が歩く道でも車道でもつくっていくことは都市環境デザインの一つのヒントになると思います。
ランドマークは、 確かに視覚に訴える強烈な因子であると思われます。
しかし、 それ以外にもシークエンス・デザインに重要な因子があると思われます。
今日歩いてみまして、 しばらく行きますと八つ橋の匂いが感じられるとか、 途中で佃煮を食べてみないかと言われてついそれに乗ってしまうとか、 あるいはいろんな匂いや人のざわめきとか、 そういったものがシークエンスの変化のかなり重要な要素になるのではないかと思ったからです。
つまり、 匂いや声によって視覚を知らず知らず誘導されるデザインが街には重要ではないかという点です。
視覚だけで対応する空間の展開ではなくて、 やはりそこに音なり香りなり、 足触りとか、 五感でシークエンスの変化が感じられるようなまちづくりや都市環境デザインが、 人を気持ち良くさせるのではないかと思います。
先日筑波の盲学校の先生のお話しを聞いたのですが、 目の不自由な方が空間認識するときに一緒に目の見える方が付いて行って、 ここに何があるとか声をかけながら歩いていると、 全くその人は空間認識ができないそうです。
一方何も情報を伝えないで、 ただ一緒に歩きながら全てのものに手を触れてもらうと、 例えば森の中だったら太い木もあれば細い木もあるとか、 建物でも手触りが違うとか、 空間を認識することが可能となり、 視覚に頼らなくても手触りで空間を把握できるようになるそうです。
現実には視覚以外の感覚で空間認識せざるを得ない人がいるということを考えると、 そこでの都市環境デザインはどうあるべきなのか、 これから私達は考えていかなければならない大きな課題であると思います。
中村先生がおっしゃった様に、 むしろ現代に引きずり出さないで、 非常に自然的なまま置いておいたほうがいいというのも確かです。
一方で回遊式庭園には、 非常に多様な側面があると私は思っています。
その多様な中に、 デリケートだからそのままにしておいたほうがいいものと、 システムとして大いに引き出して社会の中に持って行けるものの両方があると思います。
例えば先程横内先生がおっしゃったように、 足で感じるというのはデリケートな世界で、 この様なデリケートな世界をそのまま現代社会の中に持ち込むことは難しいでしょう。
従ってその中間的な扱い方として、 少し引き出すけれども何かソフトなもので包みながら、 その入り口の部分をどうするか、 バリアを越える部分をどうするか、 というような方向があるのではないでしょうか。
回遊式庭園の例で言えば、 非常に良いものを残して、 入り口などに緩衝的な空間を置くような扱いをするわけです。
その秩序は非常に多様で、 そしてさらにはどういう秩序に劇が起こりやすいかということがポイントになってくると思います。
そのシステムを解明するのに第一段階で視覚の世界、 つまり視覚的なシークエンスが有効なのではないかと思うのです。
そしていずれは視覚だけではなく、 五感全部にたどり着かなければならないでしょうが、 形態的なものの内に潜む秩序を引き出すために、 視覚から入るという道をたどらざるを得ないと思います。
その時、 視覚の世界から一旦時間で考えて、 そしてまた視覚に戻すという作業をやることで、 元の視覚ではない深層的空間の世界を捉えることが出来ます。
その前に形でない視覚というのがあって、 最終的に設計するからにはまた視覚に戻さなければなりません。
そういうプロセスを経て、 内に潜む秩序を見い出そうとしているのです。
それが人間のリズムや心理や感性にすごく合うものとは一体何なのか、 これがテーマです。
先程の横内先生のお話しにありましたように、 アスプルンドの森の教会を訪れると、 宗教心も含めて深く落ち着いた気持ちになります。
そういうものを含みながらも、 都市とはもう少し荒々しいものです。
その荒々しい中に取り入れるために、 何かチェンジするような装置を考えることが非常に重要です。
その際にはケビン・リンチが言っていたようなレジビリティも重要ですし、 いろんな空間装置も必要になってくるでしょう。
その新しい装置をデザイナーの方々が考え出してくれることに期待しています。
また私自身、 シークエンスが都市に還元できると信じています。
そして還元できたときには、 コンクリートで出来た固い都市の中にも、 何かほっとしうる空間が出来上がるのではないかと思います。
私自身設計していて思うのですが、 当時のフランスなんかでよく用いられた軸線を中心とするシークエンスのつくり方は、 立体的に風景をつくっていくことではないかと考えています。
スライドの中にル・ノートルの初期の作品であるボービコンテがありましたが、 それはきちっとした軸線が引かれている作品です。
ところがその軸線の裏側の森の中が極めてミステリアスで、 これは回遊式になっています。
実はこのボービコンテの中で、 建築の前面のものはイヴェントの庭でパーティをやったりするのですが、 裏側の森の方は日本の庭のような会話的な庭で、 モノクロがはっきりとしていて、 非常に立体的に構成されています。
当時の彼らの生活の二面性がよく表われています。
そういう軸線が持っている意味は、 実は軸線が光の空間と陰の空間をつくりだしたということも含んでいると思っています。
そこでシークエンスは新しい出来事を起こす道具として使われました。
そう考えると、 シトロエンが軸線を使いながらも全く違った方向に展開して行ったのは、 ボービコンテの軸線の使い方とは全く違って、 いわゆる主軸ではなく、 サブカルチャーを作り出す装置だったからだと私は捉えています。
そういう意味で軸線構成を考えてみると、 そのシークエンスづくりそのものは都市に応用することが出来ると思います。
実はヨーロッパの軸線は、 建築が何に帰属しているかはっきり分かった上で構成されていました。
大きな建築があった場合にその前にオープンスペースがきちっとつくられていました。
しかし近代にいたってその広場性はほとんどなくなってきています。
そういう意味で実はシークエンスというものは、 建築が寄り建つ基盤みたいなものをもう一回あぶり出すことが出来ると思うのです。
テクスチュアや広がりも大事ですが、 絵画的風景としてではなく立体的風景として見た時に、 シークエンスの重要性は高まるのではないでしょうか。
その上に都市論としてさらに深化できるのではないかと、 私は思っています。
先程新幹線や自転車の話しがありましたが、 街中の道には買い物でぶらぶらしている人もいれば、 急いで歩いている人もいます。
さらに自転車の人、 バイクの人、 車の人、 中には箱乗りなんかしている人までいます。
このようにいろんな人がいろんな空間の使い方をしているわけです。
つまり設計者が計算していたようには人が動いてはくれないような、 そんな空間を相手にして、 シークエンスを考えなければならないということになります。
シークエンスの未来に対する可能性は非常に大きいというような話しが先程ありましたが、 実際にものとして考えた時に、 その悩みは大きいのです。
CGでシークエンスを見るということですが、 今はアニメーションなんかも簡単につくれますから、 いろいろと試して見たいと思っています。
またアニメーションをつくる時には、 どこをどう見て、 どれくらいのスピードでどう動くのか考えるわけですが、 やはりそこで大きな条件が既にフィックスされてしまいます。
しかしどこか新しい場所に行って、 そこで何か新しいものが目に入って来るだとか、 そういったことを調べるようには、 非常につくりにくいのが現状です。
とりとめのない話しになってしまいましたが、 以上です。
街路で周囲をゆっくりと見回せる状況ではないことが、 一番の問題だと思うのです。
石塀小路から清水寺までというのは、 既に景観的に恵まれている場所で、 京都の場合、このような周辺部、洛外といえる部分では比較的環境もよくて、 シークエンスを生かした計画も可能だと思います。
しかし、 京都の場合、洛中といえる部分をもっと居住するのに適した場所として活性化していく必要があると思っています。
そこが本来の京都の魅力ではないかと思っていますから。
ですが、 そういったところは、 結局車に気を遣って歩かざるを得なくて、 風景を見る余裕がないのです。
ですからそこでは、 まず人間が余裕を持って歩ける空間が必要なのではないでしょうか。
造園作品に見るシークエンス
中村伸之
日本の現代のランドスケープ作品の中でシークエンスと言うときに、 私は二つの作品を思い出します。
一つはJUDIの会員でもある上野泰さんが設計された多摩ニュータウン落合・鶴牧地区の公園です。
ニュータウンの中に三つの近隣公園と歩行者専用道路をつないで、 三角形のリングがつくられました。
ゆっくり見て回ると優に2、 3時間はかかってしまうような大きさなのですが、 シークエンスが非常によく計算されてつくられています。
例えば公園の入り口がトンネルのようになっていまして、 それをくぐり抜けるとちょっと手前に竜の形をした井戸が見えて、 それに誘われてずっと並木道を行くと今度は細長い芝生の空間に出会います。
そこでちょっと方向転換しますと、 その焦点に富士山が見えます。
目標物があって、 それに誘われながら進み、 しかもパッと方向を変えるとか、 トンネルをくぐった瞬間に違った風景が見えるというような演出があります。
ここまでシークエンスを考えてつくられた作品は、 現代のランドスケープでは他にはそうないなと思いました。
もう一つは姫路城のすぐ横にある好古園という庭で、 京都造形芸術大学の中村一さんが設計されたものです。
そこには元々武家屋敷があって、 その武家屋敷の遺跡が出て来たところです。
中村さんはその屋敷の区割りを復元するということを自ら設計の課題にして、 その区割りごとにいろんな庭を設計しました。
ですからそれぞれの家の区割りを訪ねるようにして、 違う庭に入っていくわけです。
日本庭園的なボキャブラリーを使っているのですが、 構成としては全く破格の日本庭園になっています。
単に迷路的なものではなくて、 ここぞというところで姫路城が見えるようになっています。
ですからシークエンスという場合にやたら変化させればいいとか、 やたら異質なものを持ってきてびっくりさせればいいのではなくて、 「筋」が通っていることが必要だと思うのです。
多摩ニュータウンの場合は、 ここぞというところで富士山を見せています。
誰が見てもそれが中心になっています。
盛り上がりと言いますか、 クライマックスをつくっています。
体験上の大事な空間をつくっているのです。
以上の二つはシークエンスを使った成功例であると私は思います。
単独の空間をまとめる手法としてのシークエンスと、 そのシークエンスが集合して都市を形成するという、 もう一つ次元の違う手法を考えていかなければならないのでしょう。 マルチシークエンスとかおそらく新しい名前を付けざるを得ないような手法が、 多様で偶発性があってテンポが激しく、 また移り変わりの激しい現代の都市において、 可能性があるのではないかと思います。
オースマンがパリを大改造したような、 ああいう意味でのシークェンシャルな手法ではなくて、 日本の都市に固有なものになるのかも知れませんが、 もう少しスケールの小さなものを寄せ集めたみたいな、 そういう手法には可能性があるように感じています。
材野先生が作成されました「回遊式庭園へ展開する空間特性」の図についてですが、 矢印に沿って行くと真ん中は空白になっていまして、 我々が問われていることはそこをどうするのかということだと思います。
例えば、 ニュータウンで回遊性を考えたり、 建物と回遊との関係を構築したりするなど、 シークエンスデザインを積み重ねていくことによって、 新しい豊かな都市が出来ていくのだと思います。
そうしたことを考えてみますと、 今の都市のつくり方は、 先程言ったような地形を真っ平らにしていくようなやり方をしていると思いますが、 何か豊かなシークエンスづくりと反対の方向に行っているように思います。 新しい都市に多様なシークエンスを生み出す手法をどうやって展開させていくのか、 そして既にあるものをどう保存していくのか、 この二つを考えていかなければならないと思います。 なかなか難しいとは思いますが。
これまでのマスタープラン的なマクロからの街のつくり方とは違って、 小さな空間を扱うのは本来のシークエンスの強みです。 部分的にできるものからつくっていくのですが、 しかしつくったものが智積院や三十三間堂の様に孤立した存在では、 効果的ではありません。 一定以上続いて歩けるという時間がないと、 つまりつながりがないとシークエンスを楽しむことが出来ないので、 石塀小路から二年坂、 産寧坂そして清水に続く空間の連続は、 そう良いものばかりではないにもかかわらず、 楽しんで歩くことが出来るのです。 そこに私は都市のバイタリティを感じます。 こんな感じで都市のネットワークがつくられていけば良いのではないでしょうか。
そのためには建築やランドスケープの先生方にいいものを、 それも内に閉じないで都市に開いた形でつくってもらわないといけません。 その開き方も、 内のデリケートなものが壊されないようなやり方が必要です。 日本には参詣空間のようなアプローチの空間が緩衝空間としてあったのですが、 そういう古いものの存在性を脚色しながら新しいものをつくっていっていただきたいと思います。 そういう中でレジビリティ、 つまり分かり易さは空間認識の上で重要だろうと思います。 ひとつ間違うとサインを多くしたり、 目標物を点的にたくさん置いたりしがちですが、 これはモノ社会の権化と言えます。 逆にそういうものをいかに少なくして、 「空間的分かりやすさ」をなんとなく保つ、 歩いているとすーっとさりげなくそこに着いているような、 そんな方向にシークエンスを使っていくことが出来ればと考えています。 我々研究者というものはこういうふうにある意味でプレッシャーをかけて、 創る方々にいいものをつくって頂けるよう期待しているのです。
先ほど言いましたようにシークエンスの空間形成手法とは大きなものからだんだん小さなものをつくっていくのとは逆で、 小さいものをつくってそれをつなげていくような方法です。 先程どなたかがおっしゃったように、 日本の都市空間は平安京の辺りでは格子状に計画しても、 右京が崩れて左京だけになるとか、 中にだんだん路地が出来ていくとか、 こういったつくられ方をしていきます。 私は京格子の中に路地が出来て、 それがつながっていくのを、 都市空間のゆらぎであり自然発生的なシークエンス形成として見ているのですが、 それが車で分断されるのでちょっと装置がいるのではと思っています。
私は大学で研究している者ですから、 いくら頑張っても創る側には回れません。 ですから皆さんに頑張っていただいて、 その結果「これは……!」と唸るような作品が出てくるのをいつも待ち望んでいます。
今日テーマとして取り上げられたシークエンスというものは、 皆さんからいろいろなお話しが出てきましたが、 環境をもっと総合的な感覚で捉えようという意図の表われの一つではないかと思います。 シークエンスは視覚的でもありますが、 動いていますからそれによって視覚以外の刺激も受けます。 今日皆さんはそれを体感という表現で話されていましたが、 単なる視覚だけでなく動く視覚というものが出てきて、 これは筋肉とかに関係してきますので、 感覚の領域が広がることになります。 そういったことを問題にしなければならないという意識の表われを、 私は今回のシークエンスというテーマに感じました。
今日歩いた清水までの坂なんかは非常にシークェンシャルなルートなのですが、 例えば若い人がああいったところを好んで歩くかといったらそれは疑問です。 どうも50歳くらいの方が歩いている、 といった感じがします。 やはり「私のシークエンスルート」というのがあって、 しかもそれらはみんな同じではありません。 そこしか魅力的な場所がないのならば、 みんながそこに集まってしまって大変なことになります。 しかし都市の中のシークエンスは多様で選択性に富んでおり、 偶発的でもあって、 さらに都市自体が継時的に動いて変化しています。 いろんな人に出会うのもそうですし、 あそこにあるはずのものがないだとか、 そういった継時的な変化が常に起こっていて、 固定させることが非常に困難です。 従って都市全体をシークエンス的に設計することは、 とても難しいと思います。 しかし「私のシークエンスルート」を発見し設定できるような要素を、 出来るだけ都市の中に織り込んでいくことは出来るかもしれないと思います。
公共的な空間は大きなシークエンスをつくりますが、多くの場合、 公共的な空間とはあまり変化がなくて、 せいぜいポケットパークをつくるくらいです。 皆さんのお話しを聞いていて思ったのが、 私的な空間と公的な空間どうつなげるか、 言葉は悪いかも知れませんが、 どう仕掛けるかということがポイントになってくると思います。 うまく仕掛けてもらうと楽しめますが、 仕掛け損ないをした空間は全然面白くありません。
先程傾斜地なんかではシークエンスが生まれやすいとう話しがありましたが、 そこには何らかの条件があって、 そうせざるを得ない状況があって、 ある結果が出ているわけです。 そういったことから平地でもできるかもしれませんし、 平地は平地のやり方があるかもしれません。 何かつくり方をちょっと変えることによって、 楽しめる空間が生まれるのではないかと思いました。
街を歩いているときには大体視線は下にあるわけで、 ほとんどの人が何mか先の地べたを見て歩いています。 日本式の庭園でも下を見て歩いて、 たまにちょっと上を向くという動作があると思います。 今の日本の都市の空は一体どんな形をしているのか、 これはまた確かめてみないといけませんが、 普段は下を向いているわけでして、 そこで私が最近比較的関心を持っているのは、 下に何か仕掛けが出来ないかということです。
先ほど仕掛け損ないと言いましたが、 仕掛け損なったものは「トマソン」と言って、 これは何か分からないものが転がっているという意味で使う言葉ですが、 こんなものがあると結構面白いと思うのです。 どうしてあるのか理解できないようなものが転がっているのが面白いわけで、 そういう意味で皆さんにも最初は仕掛けようと頑張っていただいて、 時々失敗もして欲しいと思っています。
都市のスケールの一つとしてこの「歩く」という行為は重要です。 また先程の新幹線の話しだとか、 スピードが違う別の観点のこともありますので、 それはそれでどう考えていくのか、 これも一つの問題意識としてあると思います。
今日は材野先生に準備していただいて、 このようなセミナーを開くことが出来ました。 ここで生れた課題をJUDIのメンバーの方々にお諮りして、 都市におけるシークエンスの楽しみ方というのを皆さんに出していただいて、 来年のフォーラムのテーマにするのはどうだろうかと思いました。
どうも今日はありがとうございました。
シークエンスの集合としての都市
横内敏人
先程現代都市の中でシークエンスを応用させるのは難しいといったのですが、 たぶん都市全体をシークエンスで整えることが難しいということを言ったのであって、 その場その場でそれぞれの場所固有のシークエンスがあって、 それが集合しているという形であれば可能性があるような感じがしてきました。シークエンスを生かしてデザインする
宮前保子
都市環境デザインに関わる時、 我々が如何にシークエンスまでを考えてデザインすることが出来るのかが問われているのではないかと思います。シークエンスのネットワークを
材野博司
横内先生がおっしゃったように、 シークエンスを部分的な空間で使うことには可能性があります。シークエンスを楽しめる都市へ向けて
鳴海邦碩
・動く視覚
そろそろ時間ですが、 私も司会をやらせてもらいながらせっかく勉強させてもらったので、 こういう発想はどうなのかということで、 感想を述べさせていただきます。・私のシークエンスルート
都市の中でシークエンスをどう捉えていくのかについて、 皆さんのお話しを聞きながら少し考えてみたのですが、 一体皆さんは「私のシークエンスルート」というものを持っているのかなあと思いました。・シークエンスが生まれやすい仕掛けを
そういう要素とかつくり方とかを公共的な空間づくりに生かしていくにはどうしたらいいでしょうか。・路面などの仕掛けが面白い
単に面白いものがあってびっくりさせるだけがシークエンスではないので、 動きを伴った環境の評価の一つの枠組みであるということを考えると、 いろいろな変化が期待出来ます。・来年のフォーラムに向けて
今日のお話しは大体「歩く」ということを中心に展開してきました。
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