ブルガリアの住まい by ミレーナ・メタルコヴァ
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III

オスマン統治

    ルネッサンスが西ヨーロッパで起こり始めた頃、 ブルガリアは、 ほぼ5世紀にわたり政治的に、 また精神的にオスマン帝國に隷属した状態にあります。

そのなかで深刻な人口の変化が起こります。

都市住民が山奥の村々に流出し、 ブルガリアの上流層や知識層は没落し、 数多くのモニュメントなどが破壊されます。

ブルガリア国民の宗教国家的な区分けとなる厳しい戒律が課せられ、 また、 イスラム教への転換が新たに始まります。

比較的独立性を保つ、 幾つかの修道院でのみ、 文化や、 精神的、 文学的諸活動を存続させることが出来ました。

それらはアトス山にあるリラ(Rila)、 バコヴォ(Bachkovo)、 ゾグラフ(Zograph)、 ヒレンダー(Hillendar)修道院です。

 

    オスマン統治の下で、 ブルガリアの都市の様子は変わり、 モスクやミナレット(イスラム教寺院の尖塔)が目立つようになり、 多くの公共建築物、 キリスト教教会がモスクに姿を変えます。

15世紀から17世紀にかけては、 ブルガリアの建築技術の衰退期と言えます。

 

    一方、 ブルガリアの北西部は古代から、 地下の住居で良く知られています。

空間がいくつにも、 深さに合わせてしつらえられ、 屋根は、 いくつかの木の梁と粘土、 そしてわら、 アシで作られています。

16〜17世紀でも、 建築デザイン的に高度に発達した住居はいくつもあります。

バンスコ(Bansko)、 アルバニッシ(Arbanassi)、 ゼブラヴラ(Zeranna)の住居などがそうです。

 

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    ブルガリアの、 ある限られた村々は、 トルコのビュロクラシー(Burocracy)からの特別な任務を請け負うことで、 いくつかの特権を得ていました。

例えば、 バンスコ村は帝國の守りを固める役割を担わされます。

ほとんどの場合、 こういった村々は、 戦略上、 重要な地点や経路に位置し、 またトルコ人達はそこでは暮らしません。

その村の人々は比較的、 独立性を保っており、 技術、 商業、 文化的な活動を発展させます。

バンスコ村の住居は17世紀すでに、 二階建てで、 二階部はベランダもつけて居住用とし、 下層は店や隠れ場所として用いるという、 明確な形式をとっています(図10)。

 

    両階の床は砕石で造られています。

隠れ場所とベランダだけは木造です。

床部は、 耐火のために梁と石が詰められ、 二重になっています。

隠れ場所には銃弾を発射するための円錐形の開口と地下トンネルへの出口がついています。

このような防備を固めた家の形式は中世から受け継がれており、 第二期ブルガリア王国の住居の特徴を繰り返しています。

ルネッサンス期においても、 この形式は踏襲されています。

その良い例として、 後にはルネッサンスのプランニングに繋がる、 古代の防御塔の幾つかの巨大な石盤が、 二つの床を抜けて今日でも残っています。

 

    更に時代が下ると(18世紀)、 アルバニッシの住居は二階建てで、 周囲を高い壁で囲まれた広い庭に置かれ、 面積は200〜300mあり、 ほぼ正方形をしています。

その外観は要塞をイメージさせます。

大きなエントランスの扉には防御のためのニッチがついています。

 

    一階部分は石造りで、 倉庫と農作業のための空間となっています。

二階部分は木造で生活用に設計されています。

二つの階段が両階をつないでおり、 庭に向かうメイン階段と、 二番目の階段があります。

 

    住居のプランニングは常に一つの形式を取っています。

メイン階段は、 応接室となる食堂に接する大ホール、 または居間へと通じています。

一番奥には、 台所、 オーブン室、 洗い場などのついた家庭用空間があります。

そこからまた、 若い母親のための特別室や、 裏口へ伸びる家庭用階段に繋がっています。

暖房システムは煉瓦づくりのストーブで、 掃除のための特別スペースがついていました。

見事な木彫装飾が天井、 扉、 窓、 本棚などに施されています。

 

画像bu11     典型的な特徴としては、 天井とストーブの漆喰装飾があります。

各機能や、 異集団間の関係に伴って、 部屋が厳密に分割されたことにより、 住み手の生活は、 快適で安全になり、 高度に発達した住文化が証明されています(図11)。

 

画像bu12     防御と生活のための住機能を備えた塔は、 封建時代に広まり、 通常、 戦略的に重要な地、 つまり村や主要道路に配されます。

それらの塔は正方形か矩形の基礎部の上に建てられ、 通常は四層です(図12)。

入口は、 危険時には隠される可動式の外部階段の都合で、 少し高い位置にあります。

内側の木造階段は1階と上階に繋がっています。

最上階には居間と、 修道院内の教会があります。

そしてこの階には生活面(living surface)の方へ少し外へ向かって張り出し、 防御や狙撃のための、 そして敵の頭上にタールを浴びせるための床穴がついています。

このような塔は通常、 石で建てられ、 また時には、 石を充填した二重の梁と床による構造を持っています。

 

    16世紀の末までに、 新しい教会の建設と、 既存の教会の修復が禁止されます。

そして、 17世紀はじめに、 社会構造が変化します。

つまり、 職人の技術が向上し、 経済的に成長したブルガリア民族が、 新しい都市の建設を目指して戻ってきます。

また18世紀には、 ブルガリアの人口は倍増します。

 

    ブルガリアの歴史家は、 この国独特のいくつかの特質について、 次のような理由を挙げています。

それは、 非常に発達した自衛本能、 人口増加による農民の台頭、 小規模な集落におけるブルガリア民族の存続などです。

また、 農民のなかで生き続ける伝統が、 言語、 習慣、 生活哲学を伝承し、 神聖な土地を守らせています。

 

    農民の生活は貧しく、 その住居は木と土で出来ており、 小さな覆われた玄関と、 2部屋があります。

その次の部屋に暖炉があります。

後に、 その空間は正方形の簡素な4つの分割体になります。

つまり、 主室、 台所、 食料棚、 ベランダです。

この構成は、 ルネッサンス期の住宅の基礎形となります。

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