私は以前から商店街のことを勉強していまして、 商店街縮小の時代の生きのび方というのをずっとやっています。
それには二つの考えがあります。
ひとつには商店街の縮小のされ方というのがあります。
その時に縮小のプロセスを楽しむといいますか、 楽しく縮小していく、 あるいは縮小されたときに幸せであるようなやり方です。
少ないなら少ないなりの生き方を考えているんですが、 結局縮小したときには絶対量として減るわけですからバラバラに残るわけです、 歯抜けというかたちで。
その時にその残ったところを集めて核にして集積させてひとつのにぎわいのある商店街を再生したらどうかということが、 慶応大学の伊藤滋先生たちの本に書かれてあるんです。
『都市創造』という本です。
この提案もそれはそれでいいのですが、 問題がひとつあります。
商店街の規模が縮小されて集められた密度の魅力というものは、 他よりも勝っていれば勝ちのびていきますが、 逆に魅力がないと競争に負け、 せっかく集積した高密度の商店街が、 また衰退していくことになります。
集積した場合、 競合に勝つようなものをつくってゆかなければなりません。
分散型というのは、 商店街の数が減っていくときに、 その減る中でいい商店街が育ち、 いくつかの個店がより強力になってゆき、 一戸一戸の商店がそれまでのお客だった周辺の人々よりもっと遠くから人を呼ぶような、 そういう競争力のある商店にどんどん脱皮していくだろうということです。
あるいは、 それまでいろんなお店が地域の人々に利用されていたのが、 あるお店が圧倒的なシェアで近所の人がみんな買いに行くような、 そんな分散型の商店街はどうだろうかということです。
しかしその中でも衰退してきているところをみますと、 お店としては衰退してきていても、 インドの都市そのものの活気というものは無くなってはいません。
なぜかというと、 そこに住んでいるからなのですね。
インドではどこかに勤めているというサラリーマンみたいな人はむしろマイナーで、 ある時は商売をして、 ある時は詐欺師というように、 実に多様なライフスタイルです。
そういう意味でインドでは、 生活すること・住むこと・商売することが渾然一体となってその地域・住まいで展開しています。
商店街の商業そのものも衰退というよりも、 そこでの生活の活気というものが勝っているので、 欧米や日本で見られるような街全体の衰退というものは見られません。
それには、 住んでいるということと、 そこで商売をしているということがキーワードになっています。
その辺で日本の商店街もいままでとは違った商売の仕方はないのかと考えさせられます。
日本ではどのようなことが可能なのかが議論される必要があります。
ベトナムのハノイの36通りでも計画的なまちづくりで商店街ができています。
そこではかばん屋さんの通り、 墓石屋さんの通りと通りごとの商店街の業種を決めているのです。
商店街型都市計画といえるでしょうか。
日本の商店街は自然発生的だとよくいわれますが、 本当に自然発生的かというと、 一応こうしようというのがまずあって、 何となくすこしずつ集まってきたというプロセスがあるようです。
それが5年で集まってきたのか、 何十年もかかったのかはわかりませんが、 そうとう時間をかけて街ができてきたとおもいます。
そのような計画手法としての商店街地区計画がまずあり、 そこから自然発生的に商店街が形成されていくようですが、 このあたりの過程というのがまだよくわかっていません。
もしそういう計画が存在するとすれば、 私としては縮小してゆく計画論というのは無いんだろうかと思います。
商店街の商店が減小してゆくにつれて徐々に縮小し、 その減ってゆく過程が決して不健康ではなく、 むしろ健康的なあり方です。
街が成熟し老いてゆくとすれば、 いい成熟の仕方というのはないんだろうか、 ということを考えております。
どうもありがとうございました。
インドを見て考えた
商店街の楽しい縮小
最後に結論ということで、 インドをみて都心居住あるいは職住一致を考えてみます。分散型での個店の力
ということでもう一つには、 分散型の商店街というものもあってもいいんじゃないかと私は考えます。住むことと商売と
インドの場合では圧倒的な集積型で、 分散という概念はほとんどないくらいです。商店街のできかた
ジャイプルに見られるような計画的なまちづくりの場合、 ここは何屋さん、 ここはどういう業種というのが全部決まっています。
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