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外国人の辛口批評

AUR建築・都市・研究コンサルタント

長島孝一


ケオティック(混沌的)なところが魅力か

   長島でございます。

 

   よく新聞記者が来日した著名な建築家にインタビューしています。

そうするとだいたい判を押したように、 日本の都市は非常に活気があって、 多様性があって、 ケオティック(混沌的)なところが非常に良いと言うんですね。

超近代的だと。

そういったお褒めの言葉というか、 持ち上げる言葉が必ず出てきます。

 

   これは、 旅行者としての話です。

もちろん旅行者が直感的に得るものには、 真実が含まれているという部分もあるのですが、 この2年間、 2回の国際セミナーを通じて、 日本に生活人として住む、 かつプロとして働いている、 そういう人たちからお聞きした印象とはかなり違っています。


総合性にかけたまちづくり

   辛口の批評としては、 日本の都市計画やまちづくりが、 目的を持った総合性に欠けているところがある、 という事が言われます。

 

   経済、 社会その他のプロセスのなかで、 建築や都市計画だけでどうにもできない、 ということがあったとしても、 どういう都市の生活をしたいのか、 従ってどういうまちにしたいのかという確たるイメージと、 それに対するアプローチが欠けてるという指摘が一番印象に残っています。


無造作なまち

   関連して、 日本の都市は無造作に過ぎるという批判があります。

 

   日本人は機能を非常によく考える。

しかもその機能を美しく表現するというすばらしい伝統があった。

それが都市づくりでは、 単に機能を無造作にさらけ出すというだけのものになっている。

 

   戦争の時、 当時の市街化地域の75%が爆撃で失われ、 かつ戦後には5000万人近くが新しく都市化されたところに住むという、 そういう状態の中で、 日本が量的にやってきたことには目を見張るものがあるし、 感心する。

しかしそろそろ日本も戦後復興期の「とりあえず主義」「とりあえずとにかくつじつま合わせ」から脱却した方がいいんじゃないか、 という示唆です。


商業主義の跋扈

   次に商業主義の跋扈(ばっこ)です。

都市の中で公共性と商業性が、 バランスを失したかたちで表現されている。

例えば雑多な看板が氾濫し、 公共的に必要な標識が埋没してしまっている。

公共性と商業主義のバランスを失した状態にあるという指摘があります。


積み残しのまちづくり

   それからもう一つ、 木賃アパート地区の問題です。

東京でいいますと、 木賃アパート地域ないしはそれに準ずる中層高密の地域に住んでいる人は、 人口の20〜25%ぐらいいるわけです。

神戸の大地震があったときに、 多大な死傷者を出したのは、 やはり長田地区とか、 そういう木賃アパート的な場所でした。

 

   そういう、 「積み残しのまちづくり」をしている。

埋め立て地とか丘陵地の団地とか、 新しいところは集中してやるけれども、 制度上の問題とか、 法律・規制の問題とかを口実にして、 一番難しい問題を積み残している。

そこが一番解決が求められている地区であるにもかかわらず放置されている。

日本の経済力、 日本人の知恵でどうしてこれが何とかならないのか、 という指摘が、 いわゆる発展途上国から来られた方からたびたびなされています。


一律主義

   もう一つは、 都市計画上の一律主義です。

東京だけじゃなくて、 大阪もあれば、 地方の中小都市もあるわけですけれども、 にも関わらず、 全て一元的に一つの規律をもって、 まちづくりが行われている。

コントロールされている。

もっと多様性があってもいいんじゃないか。

 

   少なくとも都市計画、 まちづくりについては、 地方自治体の立案能力をもっと検討すべきではないかということも出てくるわけであります。


縦割り行政

   さらに日本でまちづくりの仕事上の経験からのご意見として、 とにかくやたらと縦割りが強すぎるという批判がございました。

縦割りの中で自己完結的に利害が形成されていて、 総合的に調整するということがまずやられない。

それをやろうと思うと時間とエネルギーがかかる。

使ったエネルギーに比べて達成できるものがあまりにも少なすぎる、 ということです。


欧米の物真似

   最後は先ほどの多様性と関係があると思いますが、 日本の都市なら、 やはり日本の都市らしさとか、 アイデンティティをもった都市があってもいいのに、 それがどんどん失われていくし、 そういうものを新しくつくろうという気配もあまりない。

日本独自の都市をきちんと考えて、 そこからにじみ出てくるようなデザインがない。

まだ欧米の真似をしているじゃないか、 というようなことです。

 

   特に歴史の古いところから来た方々の思いとして、 時間や都市生活の記憶が感じられるような古い建物とか、 古い街並みがなくなっていることへの危惧があります。

都市に古いものを残さない、 あるいは再生しないということは、 顔のない人間を見ているような感じがする、 という表現もあったように思います。

 

 

   以上が東京での2回のセミナーでの印象的な指摘でした。

 

   今日は、 関西で生活なさり、 仕事をしておられる方々のコメントをいただけるので、 どのような新しいお話がいただけるかと、 楽しみにしております。

どうもありがとうございました。

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