一昨年から滋賀県近江八幡市の八幡堀の調査を行っております。 これを題材として、 水環境と人間行動について発表させていただきます。
さきほど、 司会の山本さんが、 ご自身の持つ水に対する原風景をお話下さったのですが、 私の水に対する原風景は、 子供の頃住んでいた家の近くにある、 汚いどぶ川にあります。 その川は幅は1mほどで、 中華料理屋から流れてくる油、 家庭から出てくる排水などが混ざった、 とても汚い川だったんです。 小学生のころ、 その川に友達と毎日のように通っていました。
そういうことから考えて、 少し逆説的過ぎるかも知れませんが、 必ずしも美しい風景だけが水辺に対する懐古感や人間行動に関わってくるわけではなく、 汚いものは汚いなりに、 三面張りであれば三面張りなりの懐古感や水辺の行動というものは生まれてくるのではないか。 これが、 私の研究のテーマです。
水環境は、 多様な空間だと私は考えています。 その多様な空間は、 季節や時間の経過の中で、 人間の様々な認識の源になり、 人間行動の源になります。 これらの一連の認識行動は、 人間の生活の幅を広げるものです。 ここでは、 近江八幡の八幡堀と人間の関係についてこのような観点からお話しさせていただきます。
写真2は川を横から撮影したものです。 川の脇に幅1m程の道が昔からあります。 これが八幡堀の特徴の一つです。
写真3はその川縁の道から撮影したものです。
この堀は、 16世紀の半ばに豊臣秀次が八幡城を改築するにあたって、 城の南側からやってくる敵に対する防衛ラインとしてつくられました。 また両端が近畿の最も主要な水運ルートであった琵琶湖に繋がっていることから、 八幡町の輸送ラインとして生まれたと考えることも出来ます(図1)。
防衛上の目的、 そして経済基盤として生まれた八幡堀ですが、 長い時間の経過につれ、 八幡町の人間との間にある関わりが生まれてきます。 しかしその関わりは最初から意図されていたものとは考えられません。 水の持つ多様な空間の変化が、 住民と川の間にある関係を築かせるに至ったものと考えられます。
写真4は八幡町の至る所に見られる川に向かっておりていく階段です。
写真5は浜と呼ばれる部分です。 かつてここの周辺には八幡町の有力な商人達が集まっていまして、 ここで荷の上げ下ろしをしていたということです。
写真7は土蔵なのですが、 土蔵からも直接川におりる階段が設けられている場合もあります。
写真8は家の裏庭になるのですが、 昔は川の水を生活用水として利用していたということもあって、 人の目を意識して、 樹木や花を植えている例が見られます。
写真10の裏にもう一本道があるのですが、 その道を通ってこの家の裏にでて、 そこから川におりることが出来ます。 この道は今でも使われており、 公共性を持っています。
まず、 八幡堀は一つは道としての機能を持っていました。 先ほど運河として造られたと説明しましたが、 運河としての通行の機能を越えた道としての機能、 いわゆる路地的空間が擁する機能を持っていました。
2つめに、 水辺としての機能。 これは、 水があればそこに魚などの生命が住み、 そしてその水を利用できるということです。
3番目は子供の遊び場やイベントの場としての機能。 水があるということでそこに何かが出来るということです。
この地域では今でも田舟が残っています。 農村部の人たちが市街地に野菜を売りに来るとき、 タイの水上マーケットに見られるように、 この田舟の上で販売していました。 買い手の方は先ほどのスライドにもありましたように、 家の裏の階段を下りて、 川縁まで出て購入していました。 買うときには、 泥の付いた野菜を堀の水で洗っていたということです。
また近江八幡の街区の中でも、 まちの東端に住んでいる人が西端に出かけるという場合には、 碁盤状の街路が整備されていたにも関わらず、 八幡堀を田舟で移動するのが一般的でした。
瓦職人は一日仕事をすると煤で身体が真っ黒になるということで、 夕方になると八幡堀に飛び込んで、 身体を洗うというのがここの風物詩の一つになっていたそうです。 また、 先ほど紹介しました野菜洗いなど、 生活の様々な局面で堀の水は利用されていました。 野菜を売りに来る船以外にも、 近郊の漁村から魚を売りに来る船もあったそうです(写真12)。
もう一つ、 障子洗いも面白いやり方で行われていました。 ふつう障子を洗う場合、 紙をはがした桟をこすって洗うのですが、 ここでは桟を一日八幡堀に沈めておくそうです。 昔はこの堀には流れがありましたので、 こすらないでも自然に綺麗になったそうです。
まず、 四町巡りという遊びです。 これは、 堀につながる背割りと呼ばれる溝を探検して町を巡っていくという遊びです。 これは昭和の初期ぐらいまで残っていました。
それから舟行きというものもあります。 この地区で八幡堀に面して住んでいる人はみんな先に紹介しました田舟を所有しているのですが、 子供達はその船を借りて、 八幡堀を通ってクリークを抜けて、 内湖の方まで出て、 そこで魚や貝を捕ったり、 船こぎ競争をしたりしていました。 これが舟行きです。 今ではクリークの多くが埋め立てられ、 内湖の方も干拓されましたので、 この様な遊びはもう出来ません(図3、 写真13)。
また、 この地域では長命寺参りというイベントもありました。 これは子供ではなく大人のやっていたことです。 近江八幡の北側に長命寺という西国巡礼のお寺があります。 この町の人たちは年に1回ここにお参りするのですが、 ここまでいく陸路が昔は発達してなかったので、 八幡堀を使って船で参詣するというルートがとられておりました。 豪商と呼ばれた旦那衆は酒を飲みながら豪華に、 そして普通の人たちはお互い菓子などを持ち込んで近隣のものと一緒にいく、 そのようにして参詣していました。
まず水が水としての機能を果たしていました。 よく言われることですが、 水にはものを流す力、 生命を育む力、 そういった機能があるのですが、 そのような機能を昔の八幡堀は持っていたのです。 それはつまり流れ、 水量、 水質などが望ましい状態にあったという事です。
それから2つめは、 人が川からものを売りに来ると、 それを買うために人が集まる。 人が人を呼び、 人が集まる。 つまり、 川に社会が形成されていたということが言えます。 本日は時間の関係でご紹介できませんが、 水をめぐる争いが、 八幡堀では長い間続きました。 そういったことからも、 川での社会性というものが見えます。
この様な多種多様な行動、 認識は戦前から昭和30年まで頃まで続きます。 しかしその後急速に減ってきました。 それを分析するために、 かつて行われていた行動、 かつてあった認識というものを、 地元の方にヒアリングした中から抽出し、 時代考証し、 それが今では消えてしまったのか、 それとも変わってしまったのか、 今でも残っているのかということを分析しました。
まず水そのものに関するもの、 2つ目に水の生き物に関するもの、 3つ目に水辺の景観に関するもの。 水辺があるということはそこにオープンスペースがありますから、 そのオープンスペースも含めた空間についてです。 4つ目は施設・建物に関するもの、 最後に人の営みやイベントに関するものです。
表のなかには、 消失してしまったものが多く見られます。 特に水を使うもの、 洗い物などは水質の悪化とともに消えていきます。 これは昭和30年までにはまだ見られていたものでした。 それから、 今でも行われていますが、 かつてほど盛んでないものもあります。 また新たに生まれたものとして、 堀でアヒルが飼われるようになり、 これに関するものが多く出てきています。
表を見ていきますと、 水そのものに関するものでは消失したものが多いことが分かります。
一方、 水の生き物についてですが、 これに関しては消えたものが少ない。 今でも生物に関しては大きく変わってはいませんし、 例えば魚を釣ったりする事例は少なからず見受けられます。 しかしながら、 減少傾向にあると言えます。
水辺の景観に関するものも消えたものは割合少なく、 減少も少ない。 八幡堀に限って言えば、 埋め立てられたり、 川幅を縮小したということがありませんので、 昔のままの景観が失われてはいないということが言えます。
そして、 施設・建物については消えたものが多いのですが、 これは殆どが舟に関するものです。 舟に関しては昭和30年を境に消えていきます。 その理由は幾つかあるのですが、 ここでは省きます。 ただ、 船を使った遊びや習慣というものは、 住民の意識の中で大きな要素を占めている事がわかります。
最後に人・イベントに関してなのですが、 これも消えたものはそれほど多くはありません。 ただ、 瓦職人の水浴びというようなものは今では見られません。 新たに生まれたものとしては、 この八幡堀を使って近年催されているコンサートがあげられています。 この様なことが、 新しい八幡堀との接点の中で生まれているのです。
もう一つの理由は上水道の完備や陸路の整備などによって、 水の供給源や交通ルートとしての八幡堀が用をなさなくなったことがあげられます。
このようにみると水環境における人間の行動と認識が変化したことはやむを得ないと結論づけられるのですが、 それではこれからどうすれば人間と水との関係を再び造っていけるのかを分析したいと思います。
現在ではわざわざ水と接触を持つために川にやってくるということはなさそうです。 別の目的をもってそれらの場にやってくることは当然あり得ます。 これは昔からそうだったわけで、 昔も水と触れようという意識ではなく、 他の目的を持って水環境のある場にやってきて、 そして関係を生じさせたわけです。 ですから現在においても、 このような別の目的をもってやってくる場が変わることによって、 人間と水との関係のあり方も変わるのではないでしょうか。 そこで次に、 前に挙げました三つの場所における認識と行動の特徴をみてみます(表2)。
接触度を表に示しましたが、 これは直接手で水に触るような接触を含むかどうか、 生物に関わるかどうかによって分類したものです。 これについては水と生物で高くなっています。 認識面では、 生物に関して高くなっています。
これらの認識を五感別にわけますと、 視覚を除くと聴覚が高いことがわかります。 つまり堀に隣接している空間での体験によって、 行動では水に関するものが、 認識では生物に関して強くなり、 その認識は単に視覚的なものではなく、 聴覚からも形成されているということが言えます。
次に、 図5で説明します。 図中に示しましたマルは、 それぞれ先ほど説明しました5つの性質に関する認識と行動を分類したものです。 それらがどのように関係しているかという関係図です。 一番下が無関係となっていますが、 これは先ほど言いました、 家も堀から遠く、 橋も通らず、 川縁の道も歩かない生活をしている人たちです。 それと、 他の3つに関係して暮らしている人たちを比較してみます。
まず、 堀に隣接して居住している人たちには、 多様な認識・行動が連動して生じていることが分かります。 それから橋を通るグループに関してですが無関係のグループと比べますと、 生物に関する認識と水辺の行動のつながり、 水に対する認識と水辺の行動のつながりが出てきています。 最後に道を通るグループについてみます。 このグループは無関係のグループに比べて、 それほど大きな差異はありません。 川縁の道を歩くという行動と水に対する認識の間には関係性がないのかどうか、 これは未整理でありますが、 私の今後の課題になっています。
例えばAさんが、 何らかの水的な行動や認識を提示したとして、 それを見たBさんのなかに、 新たな水に対する認識が生まれ、 それによってBさんの水的な行動が生まれる、 というような連鎖的な状況が生まれるわけです。
先ほど八幡堀での物売りの話をしましたが、 売りに来る人がいて買いに来る人がいる、 そしてそこに社会が形成される。 この様な状況と全く一緒とは言えませんが、 人がいるから、 その人に影響を受け新たな水に対しての認識や行動が他の人の中に生まれるということはあると思います。
これをやや極端な例ではありますが、 実際の行動を当てはめて考えてみましょう。 ある人が偶然通ったときにその水辺の景観を見て美しいと感じ、 写生したとします。 その写生をしている人を見て、 他の人たちがこの風景を写生をする人がいるのだと認識する。 この様なことは日常的に存在すると思います。
認識と行動ということから考えますと、 水辺は水と人間との間に豊かな関係を築いてきた場所と言えます。 水と人間との間に認識と行動があり、 それが互いに影響しあって一つの様式とも言えるものを作り上げてきました。
時代を経るにつれて、 環境や社会の変化により、 行動や認識も変化しましたが、 それがまた互いに作用しあって新たな様式を築いてきました。
人と水環境の新たな関係を創造するためには、 副次的な作用、 偶然通りかかった人が持つ認識と行動とその作用によって生まれる認識と行動が、 水環境の構築のカギになるのではないかと思います。 特にかつてあって失われたしまった水や生物に関する認識と行動の誘発が大きなカギになると思われます。
最後に、 この認識と行動は様々なものが連動して生じていますが、 その連動はそれぞれの発生する場所や条件によって規定されるものと考えられます。 しかしながら長時間の、 水環境の様々な状況の体験は、 人間の認識や行動に対する潜在的要素となるのではないかと考えています。
水環境と人間行動
八幡堀を事例に大阪大学・丹波の森研究所
客野 尚志
私の川の原風景
大阪大学工学部環境工学科の客野と申します。 最初にご紹介いただきましたように、 兵庫県でまちづくりに関わっている「丹波の森研究所」というところに研究員として在籍しております。
八幡堀の風景
川と人との関係から見た八幡堀の景観
これから、 八幡堀の景観を把握していただくため、 何枚かのスライドをお見せします。
八幡堀と人びととの関係
八幡堀では、 明治、 大正初期にいたるまで、 人間と川との間に非常に親密な関係が築かれておりました。 これらの一部をここで簡単にご紹介したいと思います。
・路地としての八幡堀
図2が現在の八幡堀の地図ですが、 中央部が昔からの市街地で、 その周辺部は農村部でした。 この農村部から市街地に出てくるとき、 今でこそ道路がありますが、 昔この一体は湿地帯、 クリークといわれる地域でしたので、 市街地と農村部の交通手段として田舟と呼ばれる小さな船が往来に用いられていました(写真11)。
・水の利用
水の利用ということなのですが、 ここでは瓦職人の例を挙げたいと思います。 近江八幡では瓦工業が盛んであり、 八幡堀に面した幾つかの地区に瓦工場がありました。
・子どもたちの遊びやイベント
3番目の子供の遊びやイベントに関してなのですが、 川があると子供達はそこで遊びます。 この八幡堀には特徴的な遊び、 それも特有の名前のついたものが幾つかありますので、 それをご紹介したいと思います。
何故、 八幡堀と人の間には密接な関係があったか
3つの典型的な事例を説明させていただいたのですが、 ここで何故昔は、 八幡堀と人間との間に密接な関係があったのかを考えてみます。 それには2つの理由があったと言えます。
水環境における人間行動の5つのタイプ
これに先立ちまして、 水環境における人間の認識や行動というものを5つのタイプに分類しました。
水と人間の関係を再構築するための手がかり
この様になかつてあった行動がなぜ消えてきたのかを考えてみますと、 まずその理由として、 水が水として機能しなくなったことがあげられます。 水質が悪化した、 水量が減少したことなどが要因です(図4)。
隣接住居、 橋、 水辺の道の利用と
水への認識・行動の関係
まず、 この地域でアンケートを行いました。 そのアンケートの中で、 住宅の場所と日常生活でよく通る道を地図上に示してもらいました。 同時に、 八幡堀で認識するもの(印象に残っているもの)と八幡堀で日常的に行う行動を地図上に記入して貰いました。
・隣接住居
堀に沿って住んでいる人の回答を分析しますと、 水そのものの特徴に関すること、 生物に関することがよく指摘されています。
・橋
次に橋なのですが、 橋を利用する頻度ではなく、 どれだけ多くの橋を利用するかを聞いたのですが、 多くの橋を利用する人ほど、 水に対する指摘は高くなりますし、 水に関係する行動は多くなります。 それから認識においては水そのものの特徴に関するものが高くなる。 五感に関しましては、 堀とは全く関係しないで生活している人と比べて全体的に高く指摘されています。
・川縁の道
それから川縁の道に関してなのですが、 構成内容としては堀とは全く無関係に生活している人たち、 つまり家も堀から遠く、 橋も通らず、 川縁の道も歩かない生活している人たちと比べますと、 行動内容に関しても、 接触度に関しても全く変わりはありません。 しかし指摘している行動の量というものに関してはかなりの差があります。 一方生物に対する認識、 それも視覚的なものが強いということが言えます。
連鎖反応による関係性の強化
このように見ていくと、 認識と行動というものは、 当たり前のことですが、 一つの行動もしくは認識が生じることによって、 新たな認識もしくは行動が生じてくるということが言えます。 そういう意味で、 認識と行動の関係性を、 水辺の空間で調査していく必要性を感じるのです(図6)。
水と人間の関係再構築の鍵
最後になりますが、 結論のようなものを申し上げておきます。
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