さて、 質疑応答に移りたいとおもいます。 みなさん質問や感想がおありだと思いますが、 まずはじめに発表された長谷川さんに一つコメントを頂きたいと思います。
しかし、 その内容はさまざまです。 先ほど報告された客野さんが「幅1mほどの三面張りの汚いどぶ川でも、 自分の原風景として評価している」といったような、 そういうこともあってもいいと思うのです。 それは自分が川を通してどのように生活してきたか、 どんな世代に生まれたのかということを表しているように思うからです。
先ほど私がお見せしたスライドの中に、 雪国の川を写したものがありましたが、 あれは実は私の生まれたところなのです。 そうすると、 僕なんかは生まれたのが山と田圃と川しかないところでしたから、 水道の水で顔を洗った経験が子供の頃はなくて、 川の水を使っていました。 今でも水道はあっても山から直接水を引いているようなところですから、 水に恵まれていたというか、 客野さんとは違った川と水に対する思いがある世代なのです。
川というのは、 その人が生まれた場所や世代、 そして川を通してどんな生活をしてきたのかによって、 評価がずい分変わるだろう、 という気がします。
僕はいろいろなところで川の写真を写していくわけですが、 どうしてもカメラを向けたくなる風景は、 自分の原風景からイメージする類の風景です。 僕の場合は川の水は美しいものだというこだわりがあるんですが、 だけれども汚い川も一応川なんだし、 道頓堀のような汚い川でも大事にして、 愛してやらなければという思いもまた大事です。 みなさんから僕らに対する質問で、 自分の川に対する思いと私のそれとの違いについて話が出たとしても、 それは十人十色が当たり前ですとしか言いようがない。
しかし例えば福岡の水郷のまち柳川のように、 汚いどぶ川を、 広松伝さんという当時の役場の職員さんが、 埋め立てから発想を転換して、 地域住民と共に綺麗な川に再生させたという立派な功績があります。 こういう話を聞いて実際にまちづくりに携わっている人がどう思うのか、 「よし俺もやってやろう」と思うかどうかということが大事だと思います。
また、 ここ数年生物の共存ということで、 蛍を飼おうという動きがあります。 蛍の飛び交う川の再生ということで、 私も何回か関わったことがありましたが、 一度なくなった、 あるいは死滅した蛍のような生物は、 我々が施す少々の技術では簡単によみがえってはくれません。 ただそのなかで、 よく事例として話題になるのは、 山口県の一の坂という川です。 「甦れ蛍」ということで、 川を整備する際に、 まず蛍のことを考え、 蛍が生活する川としてどのように川を再現するのかということで、 我々の技術を十分に活かした事例です。
技術としては、 川の断面を守るために、 コンクリートで川の断面を3〜5度勾配でねかせて造って、 その上にからねりの石を入れ、 石と石の間には土を入れ、 草花を植える。 河床については二重構造にして、 通常水の流れない部分と流れる部分には地下水が循環作用できる川床構造と蛍の生棲しやすい場づくりをして、 蛍の好きなカワニナの貝や寝床となるコケやモなどの植物を植える。
そのような形で川を造るのですから、 一般的なコンクリートの三面張りの川を造るのと比べて、 三倍くらいの時間とお金がかかる。 そうしてガンバッテやれば、 蛍は戻ってくるだろう、 と。
しかし誰がそこまでがんばるのか。 国ががんばるのか、 地方の行政ががんばるのか、 地域住民が自分たちのふるさとの川を守るために、 金も出し汗も流すのか。 結局、 川に関心のある人が、 自らがんばってもらうしかないのではないか、 と思います。
今日のお話の結論のようになってしまいましたね。 ですからこれ以上私に何を聞かれてももう出てきません。 むしろ客野さんに行動学の難しいところを解説していただいた方がいいんじゃないかな(笑)。
道路は道路局が担当して、 河川は河川局が担当していて、 河川局は道路局が使ったデザインは絶対使わないとか、 そんな競争意識がある。 なら何故河川に道路と同じガードレールを使うのか? 喧嘩するんならもっといいもので喧嘩してくれればいいのにと思います。
だから河川から、 川の風景に合うようなデザインを誰か考えて、 製品にしたらいいのにとも思います。 私も独自でデザインを試みますが行政の指示するガードレールに力関係でなかなか勝てません。 あまりいい答えじゃなかったですが。
そこは川縁に1mほどの段差があり、 そこから道路を見ると、 いつもより低い位置から見るので違った風景になって、 面白いと感じていました。 そういうように遊んでいたのは小学校までで、 中学生になるともう川で遊ぶことはなくなったのですが、 学校が川を挟んですぐにありましたから、 正門から入らず川を越えて塀を乗り越えていくこともたびたびありました。
決してピクチャレスクではないですが、 私にとっての原風景というか、 原体験のようなものとしてその川は記憶の中にあります。
大阪の中にある道路が走る川は、 あれは一級河川ではないでしょう。 それならばいいということなんですね。 本当はもっと面白いことが出来るんでしょうね、 高速道路と水環境を同時に造るというようなことで、 これは本来あり得ない話ではない。
今日は大変面白く聞かせていただきました。 別の話になるんですが、 土木学会では何年か前に『水辺の景観設計』という本を出しまして、 これは土木で環境設計を研究している人間が集まってつくったのですが、 それと重ねながら聞いておりました。
水とは何か、 水風景、 水環境とかいろいろ話は出ましたが、 そこで我々が水といっていたのは川ですね。 川とは何か、 河川とは何か、 そういうことの話だったと思います。
そのなかで河川を公園化するということはまずいんじゃないか、 という考え方が先ほど西川緑道のところで出てきました。
また、 護岸がまずいということも長谷川さんはおっしゃっていましたが、 僕なんかは水の流れ自体、 流水そのものが美しいということを思うんです。 そうすると河床をどうするかという話が出てきて、 流れの美しさの次に護岸が出てくる。 川が出てきて、 排水路が出てきて、 その区別はどうするのか。 そうすると、 区別する部分をどう操作するのかという問題が出てくる。
長谷川さんからみて、 川ですね、 水ではなくて川をデザインするということはどうなんでしょう。 造園、 ランドスケープの立場からご覧になっているからかもしれませんが、 僕なんかとはちょっと違うのではないだろうかという気がしてしょうがないのです。 そこに非常に興味があります。
しかし、 川の周辺よりも、 流水として川がいかに流れるかという点に視点を置いて考えるというのは、 最初におっしゃった川とは何かという問題から少し離れて考えているとも感じます。
交野の川を紹介しましたが、 生駒から発する源流が、 どうしてあんなに姿を変えるのか、 そのことに注目してみれば、 土木技術は川を河川という意識で扱いすぎているのではないかと思います。
川と一口にいっても、 淀川のような大きな川と幅が5mほどの小さな川ではまた違った機能とか景観をもっていますから、 どの物差しをもって川というのかが問題です。 川の大きさによってずいぶん認識や行動も変わってきますから、 作り方も変わってくるのだと思います。
基本的に僕は「川は川らしく」とおもっています。 川を造っているのは堤防と護岸と河床ですが、 美しい川にはそれなりの約束事と景観のデザインがあるのだと思います。 遊水とか親水とかは、 川をどう使うかという次のステップであり、 そのためのデザインというものはまた別にあるのだと思います。 川のデザインは最低限の品格というか、 そういうものから始まらないといけないように感じます。
けれども制度が悪くて、 ランドスケープデザインは制度を越えられないということもまた事実です。
河川の工事基本計画というのがあって、 砂防が安定したら、 公園にしてもいいと河川法で定められています。
その中で河川課の方は河川の保全のために工事しているのに、 公園課は河川が工事してくれないと公園にできないといってせっついてくる。 けしからんといって公園課が攻撃されるわけです。
しかし河川課の方にも問題があります。 日本だけではなくアジア全体の話になると思うのですが、 河川という自然の産物を誰が管理するのか、 それはお上な訳です。 自然とかそういう人間以上のものがつくったものに関しては、 これはお上の管理するものであるという認識です。 土木はその根幹ですね。 世の中のためになって、 お上のためになることを支えるのが土木であると。
しかしそれが河川をダメにした仕組みでもあるんです。 一方ではその地域でお上とは関係ないところで営まれてきた文化や生活、 そういうものを全て上から網をかぶせてお上のものにしてしまったこと、 それは何時からか、 そしてそれをどうやってひっくり返すかというのが一番大きな問題なのです。
私が心配するのは、 河川法の改正により河川課は砂防だけではなく、 流域計画、 地域計画もやるのだといっています。 河川課の方に聞くと、 堤防から500mはうちの領分である、 そこの地域計画は河川課がやるのだといっているんです。 これはかなり恐い世の中になると思います。 道路局なり河川局なりが、 縄張り争いをしている。 それまでやってきた仕事以上に役人の仕事を造るために、 権益を求める動きがあったりする。 今誰が川をとるか、 という戦争が起こっている。
その中で造園屋は気楽に「川らしいデザインを」とか言っているわけですが、 全然反映されないんです。 公園課は、 今あるような河川公園を造ろうとしているのではなく、 川らしい川を造るのが仕事だとは思っていながら、 それが違った方向へ進んでいってしまうのが問題だ思っているのです。
みんなそういうところで、 細かくいうと分析性だとか科学的合理性といったものを旗印に、 細分化していくのですが、 そういったものを横断的にきちんと扱えるのはどこなんだろうか、 そういうことを考えているんです。 そういうものの一つに景観があるんだろうということで、 学会の中でも動いています。
そういう風にいろいろな分野の人間を集めようとはしているんですが、 出来上がった体勢というものは変えがたいですね。
これは景観とアメニティの違いでもあるのでしょうが、 景観はかなり客観的に判断できるものであるけれども、 アメニティは五感に感じるような、 そういった客観的に判断できるものではないと思うんです。 自分の目に見える評価と、 他人の評価は違うわけだし、 もっと直接的に感じられるような、 制度であるとか、 地域のあり方、 川のあり方というのが出てきていいのではないか。 副次的という言葉が先に出てきて、 そこから分析していくというのが少し引っかかります。
川に対する意識は、 行政が刺激を与えて生まれるようにすることも大事ですが、 自分たちが自分の町の川を知って、 このままではいけないという危機感を持って、 自分たちの生活や環境というものを自分で発見してもらうことが大事だと思うんです。 そのためには川に対して一つでも二つでも関わりをもってもらうことが重要です。
八幡堀も昭和30年代に埋め立ての話があったのです。 あまりにも汚く、 そして臭い。 しかし、 住民の方々が、 自分たちの川を守ろうと浄化運動などいろいろ努力され、 今に残っているのです。
田圃があると潅漑しますよね、 潅漑はそこらじゅうを水浸しにする手法です。 都市には脱水手法しかないんです。 潅漑しないんです。 いま、 都市を潅漑するにはどうすればいいか、 言い換えれば都市に潤いを与えるにはどうすればいいのか、 そういうことが問題になっています。
潤すというのはそこらじゅうに水があるということです。 それを取り除いてしまうことばかりをがんばってきたので、 今や阪神間は脱水症状です。 新しい都市の姿を考えるときに、 国から予算をとって即潅漑かというと、 そうではない。 そういうことを考えていくと、 人々に都市を潤すとはどういうことか、 水と自分たちの関係性というのはどういうものか、 教えてあげなくてはいけない。 客野くんのやっていることはそういうことだと思います。
環境と水がどういうように関わるのか、 そういうことは長谷川さんが説明しましたが、 それとはまた違った角度の話なんでしょう。
「都市を潅漑する」という言葉は非常に魅力的ですが、 それが例えば琵琶湖の水が余っているから阪神間にもっていけばいいというような形に繋がってしまう。 この連動をどこかで止めないといつまでも続いてしまう。
例えば建設省が一年間で親水公園を1400個造るわけです。 あれほど三面張りに固執する建設省が、 それほど多くの河川工事を行うわけです。 それだけのパワーをもった河川屋と喧嘩していくのは、 ランドスケープデザインとか景観設計とか言っていますが、 非常に大変なんです。 だから言い方とか、 言葉の選び方をきっちりしておかないと、 非常に恐い結果を招いてしまいかねません。 その一点なんです。
しかし、 なぜ今近くの汚い川に行かなくて遠くの綺麗な川にも行かないのか、 というのが問題なのです。 それを何とかどぶ川でもいいから行ってくれるようにする。 これはある川の運動をしている人から聞いた受け売りですが、 子供が遊ぶ川は放っておいても綺麗な川になるというのです。 逆に子供に、 危ないから行ってはいけないというと、 どんどん川は汚れていく。 子供がそこに行きさえすれば川は綺麗になる。 少々汚くても遊びに行けるような川にするというのが、 大事なんじゃないでしょうか。
本日はどうも有り難うございました。
川の原風景のあり方
・長谷川弘直
たぶん今日のテーマである「川を考える」ということは、 今司会者がおっしゃったように反論というのはあまりないでしょう。
ガードレールについて
・森川
ガードレールが川の景観を著しく悪くしているということですが、 では代わりにどんなものを使えばいいのでしょう。 それなりに構造的に強くて、 ドライバーの視覚にしっかり入って、 安いものとなると、 やっぱり今のガードレールということになると思うんですが、 何かアイデアはおありでしょうか。
・長谷川
僕もガードレールについて深く考えているわけではないんです。 ただ、 大量生産される工業製品としては、 おっしゃるように強度や構造ということが問題になるけれども、 デザインの問題としてはどうだろうか。 道路を考えれば道路景観に合うデザインがあるように、 川と人間の関係をサポートするような、 川には川に合ったデザインがあっていいんじゃないだろうか。
どこまでが川の風景か
・横山
川というものをどう捉えるかについてなのですが、 川には上流・中流・下流とありますよね。 このうちでどのあたりまでを川と捉えていらっしゃるんでしょうか。
・長谷川
川というものを見る場合、 ふつうは右岸から左岸、 もしくは左岸から右岸というように横に見ますよね。 わたしはそうした場合に見える風景全てが川であると考えています。 視界の角度はだいたい60度、 そして奥行きは自分の目に見える範囲として、 川を中心とした半径100mほどは全て川の風景になるんでしょう。 そこに見える建築物や構造、 装置、 植物、 そういったもの全てを含めて河川風景というものはあると考えています。
どぶ川も川の原風景か
・長谷川
先ほど客野さんがおっしゃったような汚いどぶ川が自分の原風景であるというようなお話に、 僕はえっと思うのだけれど、 みなさんはどうでしょうか?
・客野
うちの近所にはもう一つ大きな川がありまして、 そこは割合綺麗だったのですが、 自転車で十数分かかりました。 だから汚いけれど歩いていける近くのどぶ川にいっていました。
川とデザイン
・長谷川
榊原先生、 川の上に高速道路を通したりするようにしているのは、 あれは誰が決めているんでしょう?
・榊原
基本的に一級河川の中に道路を通すことは道路局としては抵抗しているわけです。 例えば、 淀川沿いに高速道路がありますが、 道路局としては陸の部分に通したいのだけれども、 場所がないからしょうがなく通しているという形です。
・長谷川
そうですね、 今おっしゃったように、 川というものを流れの美しさとして捉えるというのも、 間違っていないし、 川の原点なのでしょう。
・榊原
お話を窺っていて、 私と殆ど一緒なんだなと感じました。 しかし、 治水・利水ということを考えると、 それを抜きにして考えることが出来ない土木屋の辛いところを感じます。
・長谷川
それはどこでも一緒ですよ。 住んでいる人にしてみれば、 堤防が決壊すれば自分の生活が脅かされるわけですから、 景観はどうであっても三面張りの丈夫な川を造れという要求があり、 だからこそ田舎の川も三面張りの景観になっているわけです。 そこで三面張りを越える意識を上流の人も下流の人も持つべきだというのが僕の主張です。
川と制度
・宮前
公園にするのはけしからんという話がありましたが、 確かに言い方としては長谷川さんと同じなのです。 「川は川らしく」ということをどう活用するかを、 景観設計やランドスケープデザインがやっていくべきなのです。
・榊原
今の質問に対して、 土木の仕組みや考え方に関してと思いますが、 僕がいうべきことではないようにも思うのですが、 そういうことを何とか出来ないかなと孤軍奮闘しているのが、 景観をやっている人間達であるということが言えるんです。
副次的なものから川との関係が取り戻せるか
・宮前
客野さんの話についてなのですが、 水そのものについての機能があって、 それに関連していろいろな行動や認識が連動的に発生するという議論をされたかと思います。 ところが結論のところで、 これは極端な例だとおっしゃったのですが、 人と川の関係の再構築のためには副次的なものを取り上げられた。 ここに矛盾が感じられます。 副次的に景観を捉えようというのは分かるのですが、 もっと直接的な、 例えば川を見て綺麗だと思う心とか、 そういったものが軸として出てこないのでしょうか?
昔は綺麗だったとか直接的なものがあったけれども、 今は全然ダメなんで、 それを副次的なものをきっかけにちょっと取り戻そうという論理構成は、 敗北主義じゃないかな。 やっぱりもっと直接に、 恐いでも何でもいい、 五感に働きかけるようなものが必要なのではないか。
・客野
敗北主義とおっしゃいましたが、 私としては一つでも二つでも川に関係をもってもらって、 そのあとから川本来の、 水の、 水環境の持つ魅力を理解してもらう中で効果をあげたいと考えています。 今は建物の話をしているわけではありませんが、 人と水の間に垣根をつくってしまっている嫌いがあるのではないかと思っていまして、 そこから始めようと思っています。
・宮前
最初にお話しいただいたどぶ川の話からしますと、 汚くても何でもそのどぶ川がよかったという話を聞いていて、 そんな直接性の話になるのかなと思っていたんです。
・客野
どぶ川の話をしますと、 普段遊ぶエリアの中にあった、 近くにあったということが大きいんです。 その近くにあった川で生活との関わりがあった、 そういうことを導入部にもってきたんです。
都市を潅漑する
・鳴海
河川に関わって活動なさっている方に、 新しい目標を造るというのは非常にいいことだと思います。 今、 阪神疎水とかが話題になっていますが、 そういうことに関連しても考えさせられます。
魅力的な言葉が、 無駄な工事を産まないか
・宮前
阪神疎水の話が出ましたが、 あれもかなり問題のあるもので、 琵琶湖開発の失敗のつけをどこにもっていくかということになりそうです。 潤すという話とその適用の仕方が問題で、 河川屋さんは必死です。 現場レベルは上のいうことによってすぐ変わってしまう。
・鳴海
そういう見方で言えば、 都市を潅漑するという言い方は、 魅力を持った綺麗な言葉であると同時に恐い言葉でもありますね。
どぶ川でも子どもが遊べば変わる?
・前田
客野さんのいわれた、 遠くの綺麗な川ではなく、 汚い近くのどぶ川に遊びに行くという状況が、 彼の時代にはあって、 それはそれで私もそれほど綺麗な川で遊んだわけではありませんから、 よく分かります。
・司会(山本)
色々な意見が出されましたが、 予定時間になったところで最後にうまくまとめていただきました。 子どもにとっては魅力的などぶ川をどう捉えるのかに、 これからの川と水辺の環境を考えていく手がかりがあるように思われます。 「川と水辺の環境を考える」は、 この先我々がまだまだ考え、 取り組まなくてはならない重要なテーマのようです。
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